第2話 救世主は変態らしい
「ねぇ、抱きしめても、いいかな?」
サメは精一杯重心を後ろに傾けて仰け反りながら救世主の言葉に答えた。
「いっそ、窓から投げ捨ててください」
もう何もかもをやり直したい気分だった。具体的にはサメとして目覚める前から。
その頃の自分が何者なのかは検討もつかないが、少なくとも目が痒かったら自分でかけるし、謎のイケメンに出合い頭で「抱きしめてもいいかな?」と問われるような人生ではないと思う。
知らんけど。
「そんなに嫌がらなくても。ぎゅーっと抱きしめられるのが君の仕事でしょ?」
マスクを上げた救世主はこてん、と首を傾げてみせる。可愛い子ぶった仕草も様になるのだから、顔が良いのはつくづく得だ。サメは頭の中で悪態をついた。
「代理、それ雪だるま」
いつの間にか椅子に座っていた少女が半目で救世主もとい部長代理を見やる。
「代理、それセクハラ」
隣に腰を下ろした少年も続いた。
「セクハラかぁ……サメの訴えもちゃんと聞き届けてくれるかな」
部長代理はサメの腹を撫でながらわざとらしく眉を寄せる。サメはその手をペしぺしとヒレで叩くが、一向にやめる気配がない。サメ権の侵害だと抗議しようと思ったが、自分でも何の権利があるのか分からないので口を噤むしかない。
「まあ仕方がないね、訴えられたら堪らないし」
そう言うと部長代理はサメを元の椅子に立て掛けた。窓が背に回って青空が見えなくなる。
代わりに室内の様子がよく見えた。そこは白に囲まれた八畳ほどの小さな部屋だった。四方を囲む壁も、サメのちょうど対角にあるドアも、サメの正面にある備え付けらしい棚も。
何から何まで白い。
白くないものと言えば、棚の下段に置かれた五つのマグカップと、上段で寝そべる幾つかのホラー映画だけ。サメには見覚えのないものばかりだ。
自分は一体どこから来たのだろう、とサメはポリポリとヒレで腹をかいた。
隣の椅子に部長代理が座り、サメは角度を調節されて彼と向かい合う形になる。やっぱりセクハラだと訴えるべきかもしれない。
「それで?」
部長代理がいつの間にか机の上に増えていた缶コーヒーのプルタブを起こしながら言う。視線はサメに向いていた。
「君は一体何者?」
射抜くような視線が布をすり抜けて、サメの肌を撫でる。嫌悪で鳥肌が立った。
「えぇと、その」
何もかもを暴こうとする目が嬲るようにサメを見る。
「あの、えっと」
サメは無意味な言葉を並べた。だらだらと冷や汗が滑り落ちる気がした。
「その、ですね」
サメはどうにか言葉を吐いた。
「どうやら、記憶喪失のようでして……あはは」
最後に付け足した笑い声は酷く渇いて机の上を転がった。部長代理がただ静かにサメを見つめる。ボタン製の目では視線を逸らすことすら叶わない。サメはヒレをもぞもぞさせながら、部長代理が口を開くのを待った。
一秒、二秒、三秒。
気づまりな沈黙が続く。助けを求めたくても、視界の端に映る双子はさっきからのめり込むように問題集を解いていて、こちらには見向きもしない。
彼らが案外真面目な生徒なのか、喋るサメに「抱きしめてもいいかな?」といい笑顔で問いかける部長代理から目を逸らしたいのか。
サメは何となく後者な気がした。
「……そっか!」
サメが必死に双子に意識を向けて現実逃避していると、不意に部長代理は明るく笑った。落差が怖い。温度差で風邪をひきそう。
「記憶喪失かぁ。サメになる前はなんだったかも覚えてないの?」
部長代理ににこやかに問いかけられて、サメは困惑しながらもヒレを縦に振った。
「はい。ここで目が覚めるまでのことはなんにも覚えてないですね」
部長代理は「ふーん、大変だね」と他人事のように言ってから缶コーヒーを煽った。嚥下する度に動く喉仏にうっかり見惚れる。
「ねーまこ君」
少年が問題集から顔を上げて、部長代理を見た。部長代理はどうやら『まこ君』というらしい。出来れば役職以外では呼びたくないな、とサメはその情報を聞き流した。
「ん?」
口元を手の甲で拭いながら部長代理は少年に視線を返す。
「そいつ、ほんとに捨てちゃだめ?」
胡乱な、というよりも本格的に気持ち悪そうな顔を向けられて、サメは若干傷つく。
「うん。だめ」
少年は不服そうに眉間に皺を寄せた。
「なんで」
「言ったでしょ。人のものは勝手に捨てちゃだめだよ」
「今持ち主の許可とってるじゃん」
部長代理は上から摘まむように持っていた缶コーヒーを置いて、マスクを引き上げてから答える。
「このサメは俺のじゃないよ」
目を伏せて、スチール缶をいじりながら落とされた声はただ静かに空気に溶ける。少年は言いかけた言葉を飲み込んで唇を噛み、少女はぎゅっと強くシャーペンを握った。異様な静けさ。サメは短いヒレでポリポリと腹をかいた。
この沈黙の意味を、サメだけが理解できない。
「そいつ、危なくないの」
少年が問題集に目を落としたままで尋ねる。
「さぁ、どうだろうね」
部長代理の雑な返事に少年は顔をあげて、ぱちくりと瞬きを繰り返す。代理は肩をすくめて言葉を続けた。
「俺にも、彼女が何者かは見えないよ」
喋るサメが何者か断言できる人間が居たらそいつは確実に詐欺師だろう、と思ったけれど、空気の読める賢いサメはちゃんと口を噤んでいた。
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