そして、サメは目を覚ました

甲池 幸

サメとオカ研の愉快な夏休み

第1話 双子 ミーツ サメ!

 そのサメが産声を上げたのは、八月一日、午後二時十七分のことだった。


 都心から高速バスで一時間半強の田舎町に位置し、地方特有の静けさと学費に比例した充実の設備を売りにする私立扇野学園。

 その北校舎三階、一番北側の小さな部屋で、サメは産声をあげた。おぎゃあだとか、うぎゃあだとか、そんな可愛らしい声ではなく。

 サメは一声叫んだ。

「どこだここ!?」

 叫んだ拍子に体が傾いて頭から落ちる。リノリウムの床に自分の姿が反射して見える。肌触りの良さそうな生地で全身が覆われ、中身は恐らくグロテスクな内臓ではなく、真っ白でふわふわとした綿が詰まっているだろう、それ。

 端的に表すなら、サメの人形が床に映り込んでいた。

 サメはもう一声叫ぶ。その声はあまりに大きく、蝉よりもやかましかった。

「なんじゃこれ!!」

 叫んだ直後、サメの前に足が四本やってきた。一つは黒のおしゃれなスニーカーを履いた足。もう一つは短い黒のソックスに同じく黒のローファーを合わせた足。ローファーのリボンが揺れる。

「ねえ、ひび、こいつ今喋ったよね?」

 ぐりぐりとローファーでサメの腹を抉りながら、高い声が言った。

「うん、つづ、こいつ今喋ったね」

 オウム返しのようなテンポで少年が言う。腹に食い込むローファーが引っ込んで、サメは安堵の息を吐いた。

 あのまま抉られ続けたら、うっかり綿がでていたかもしれない。それにしても、一体全体、どういう訳でサメになっているのだろう?

 サメは記憶を探ろうとして、そこに不自然な空白があることに気が付いた。昨日の自分、一昨日の自分、サメになる前の自分。友達、家族、学校の先生。何を思い出そうとしても、返ってくるのは不気味な沈黙だけ。サメの背中を冷や汗が伝った。

 ような気がした。

 柔らかな綿と肌触りのいい生地で出来たサメは、汗をかかない。

「ねえ、ひび」

「なに、つづ」

 物思いにふけるサメの目の前に今度はふたつの顔面が現れた。ひとつは目がぱっちりとした少女のもの。短くて、ちょんと跳ねたおさげが可愛らしい。もうひとつは、少女とそっくりな顔をした少年のもの。こっちは耳元で光る黒いピアスが印象的だ。少女の指がサメの頬をつつく。伸びた爪が刺さって痛い。

「これ、どうする?」

 少女が勢いよく少年を見た。黒いセーラー服の襟が反動で揺れる。目がきらきらと光っていた。

「うーん」

 少年の手もサメの頬にふれる。今度は優しく撫でられた。サメは小さく息を吐く。

「捨てようか、つづ」

「なんで!?」

 サメは本日三度目の叫び声をあげた。少女が驚いてサメから手を離す。少年は胡乱な瞳でサメを見た。

「なんでって、気持ち悪いからだけど」

 あまりにもストレートな拒絶に、サメは言葉を失った。確かに喋るサメとか気持ち悪いと思う。けれども、ここで「うんうん、そうだね」なんて言葉を返したら、サメの運命はそこで終了だ。

 この二人に抱えられて、焼却炉に放り込まれて、灼熱地獄に落ちて死ぬ。陸の、それも炎の中で、冷たい海を想いながら死ぬことになる。

 サメなのに。

 いや、サメではないけれど。泳いだ記憶とかも特にないけれど。

 サメは必死に言葉を探した。どうにかこのよく似た顔の二人組を説得し、ともかく、この、床に落っこちている現状をどうにかしなくてはいけない。何故なら埃が目に入って痛いから。けれども、サメの手──ヒレの方が正しいかもしれないが──はあまりに短く、目どころか頬に触れることすらできない。悔しい。

「よし、やろうか、ひび」

 少女が腕まくりをする。

「うん、やろうか、つづ」

 少年がオウム返しする。仲良しだなァ、とサメはぼんやり思った。少女がサメの頭をまたぎ、足の方へと向かう。少年がサメの頭の下に手を差し入れた。

「いくよ、ひび」

「いいよ、つづ」

 掛け声と一緒にサメの体が床から持ち上がった。ついでに埃も落ちる。目標達成。万々歳。手は胸より上にあがらないけど。

「せーの」

 少女が言った。

 サメは目を閉じることもできず、眩しいほどに青い空を見ていた。蝉の声がする。どうやら今は夏らしい、とサメは気が付く。

「せーの」

 少年が言った。サメの体が空へと放りだされる──ことにはならなかった。誰かが強く、サメの腹を掴んでいる。正直とても痛い。

「君ら、勝手に人の荷物捨てるのはよくないと思うなぁ」

 低く艶のある声がした。声だけで、なんとなくモテそうだな、とサメは思った。

「部長代理」

 少年少女が声を揃えて、救世主を呼んだ。腹をぎゅっと掴んでいた手が、優しくサメを抱き上げる。


 サメのつぶらなボタン製の瞳と、真っ黒な救世主の瞳がぶつかる。白い肌に整った顔立ち。これはさぞモテるだろうな、とサメは僻みに似た気持ちを抱いた。たれ目にかかる薄い前髪が彼の温和な笑みをミステリアスなものにしている。

 笑っているのに、笑っていないような。黒くて、深い、闇のような瞳。サメは呼吸も忘れて、救世主の目を見つめた。刈り上げられているサイドや後ろとは対照的に頬にかかるくらい長い前髪が入り込んだ風に揺れる。

 時間が止まったかのような、一瞬の静寂。先に動いたのは救世主の方だった。

 救世主はサメから片手を離して、マスクを下げると、薄い唇を動かして言った。

「ねぇ、抱きしめても、いいかな?」

 サメは先程の「気持ち悪いからだけど」と言った少年の感情を、正確に理解した。


 喋るサメは気持ち悪いが、喋るサメに王子様スマイルを浮かべて「抱きしめてもいいかな?」って言うイケメンもたいがい気持ちが悪かった。

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