晦日2
リリーは父の顔を知らない。
生まれてからすぐに死んだと、母に聞かされてきた。何かを隠しているのではないかと疑ったこともあったが、どうも父親の影というものが一切見あたらないので、この国にはいないのだろうと推察した。それで母が言いたくないのなら、それでいいと思っていた。それでも思春期には気になったもので、胸の奥に小さなしこりを残していることには変わりなかった。年を経るにつれて、それはこだわることではなく、曖昧模糊とした自分のルーツに対して、人に尋ねられると困るな、という程度に矮小にはなっていた。といっても思春期を過ぎてさして年月は経っていない。
先頃、母が100年以上前の過去からやってきたと知ったことで、本気で溜飲が下がってしまったのだ。父親は死んでいるだろう。これ以上納得いく答えがあるか。伯父と母だけが未来にやってきて、ちょっと陰湿な兄妹喧嘩をしていたことには驚いた。寧ろそっちの方が気になっていて、リリーはいま、どんな顔をして歩いたらいいのか考えあぐねていた。
街を覆う砦の外側。だだっ広い平原が広がり、石畳の舗装がない砂地の道を、リリーは歩いていた。隣にいる母は、小さな箱を手にしている。彼女らは行列の中間にいた。行列は黒い衣服か青い衣服に身を包んだ人々で構成されていて、中には荷馬車が数台ある。彼ら彼女らは平地を進み、やがて止まった。
そこには多くの石が並べられている。荷馬車が止まり、男たち数人が、大きな長方形の箱を重そうに担ぎ出す。箱は簡易な装飾が施された黒く艶のあるもので、上には青い布が被されている。そこにあえかな花を、女性が置いた。柩だ。
平地に並べられた石の近くには、大きな穴が複数あった。そこに、一つずつ柩が納められていく。誰かがすすり泣く声が聞こえた。
葬式兼慰霊の式典は、蝕の日から十日たった今日、漸く執り行われた。騒動の後処理が長引いたためだ。騎士たちに多大な損害があったために、城の修復、欠員の補充と体制の修正に思ったより時間がかかり、今になったのだ。元より先を見越していたロヴァル王の勅命により、遺体は腐らぬよう防腐処理をして、丁寧に保管された。遺体は十日間、最後の時間を家族と過ごして、ここに来たのだ。ここで永遠の別れとなるのだ。
「火葬にしてよかったの?」
「ええ」
母は小さな箱を愛し気に抱きかかえ、口角をあげた。
「こんなになるまで、結局兄には近づけなかったわね。私に葬られるなんて、屈辱でしょうね」
「そんなこと、無いと思う」
「ふふ。死んでも嫌みが聞こえるみたい」
淋し気に皮肉をいう母が、小さな箱から目線を外してリリーを見た。いや、正確にはリリーの斜め後ろから歩いてきた男だ。
その体に、喪服があっていない。体格がいいせいで、小さめの衣服に少し猫背になっているせいだ。髪の色は青灰色。男は母の前で止まり、深々と頭を下げる。
「すまない」
その時間は、ひどく長く感じた。母は瞠目して、瞬く。伯父――母にとっては兄の死を受け入れているようで受け入れられていないこと。兄を慈しんでいいのかどうか、迷っている。そういった感情が綯交ぜになっているとリリーには思えていた。
彼は、赦してくれと言わず、ただ謝罪をした。何か一つでも揚げ足が取れる要素があれば、他に反応も出来たのだろうが、彼は余計なことは言わなかった。
「貴方が謝ることではないわ。でも、そうね」
母の声は優しい。すっかり気が抜けたように優しくなった。とはいえデイジー様には相変わらずの躾がされているのだが、それも前よりマシに見えているのはリリーの贔屓目があるのかもしれない。
「悔いているというなら、あの子を大事にしなさい。兄は、あの子を生かしたのだから」
母の視線の先には、真っ白な髪をした少年がいた。
男は母の視線の先を辿って、拳を握りしめる。
リリーは思う。
もし、自分に兄や姉がいて、譬えあまり仲が良くなかったとして、彼らを喰い殺した男を許せるだろうか。リリーにとって、彼は憎む対象ではない。デイジーやイエライを助けてくれた人だ。だが、どれほどの人が彼を許せるだろうか。フェルドレに使役されていたとして、彼がアウローラを襲ったのは事実。彼ではなく狼たちが直接の死因となった騎士たちはどうだ。彼がフェルドレと共に攻め入ったことに箝口令が引かれ、イーフェたちがジュビリー達騎士隊長の数名を除いて記憶を消したことは、怨嗟が残ると明言したようなものだ。
だから、母は。
兄や姉を殺された母は、彼を怨む資格がある。それを赦すというのは、耐えがたいものではないのか。
「共犯者だからかしらね」
はっと、リリーは顔をあげた。母に意識を戻すと、丁度騎士に声を掛けられて、伯父の遺骨を手渡しているところだった。男は母に頭を下げて、主のところへと踵を返して歩き出していた。
どういう意味なのか、訊くことは憚られた。
共犯者。それは意味深な言葉だ。幇助や教唆もそれに入れるのか。実行してしまったのか。そもそもの何に対する共犯なのか。母はリリーの《声》を聴いている。訊くのは野暮だ。リリーが直前に思案していたことは、姉と兄を殺されたこと。然し、母が彼らの死を画策したのだろうか。根拠はないが、そうではないと思えた。
母が言いたいときに言うのだろう。母の《伝心》の能力のことを聞いてから、リリーはすっかり言葉にすることが億劫になってしまっている。あまりいい傾向ではない。大事なことは聞くべきだろう。
垂れ流される多くの感情を、今ここにいる誰よりも感じているのは、母だ。デイジー様は漸く制御を覚えたばかりだからと、葬列への列席を取りやめさせたのが、他ならぬ母であった。ロヴァル王はそれを受け、デイジーのヒステリーの原因を突き止めていた母を王籍に戻そうとしたのだが、断られてしまった。
母は騎士に連れられて墓石の前に立つ。花束を渡され、箱にそえる。誰かがすすり泣いた。あれは、バンダという人だったか。ビデンスがその背中に手を添えた。バンダがぐっと涙をこらえる。伯父と親しかったのだろうか。
母がスコップを渡され、一、二回箱に土をかけてから、脇に避ける。騎士たちが母の後に立ち、シャベルで数回土をかけると、小さな箱はすっかり埋もれてしまった。そこに平たい石板が乗せられる。表面には伯父の名前が、本来の名前ではないものが彫られている。アジュガは過去の亡霊なのだ。ここに眠るは、ジュニパー。バレリアンが大きな花束を、無造作に置いた。
バレリアンは、伯父の遠縁。子孫だと母が言っていた。伯父と伯母には、子供がいたらしい。彼らは王位を継ぐことなく、臣籍に下ったと聞いた。
騎士たちが他のもの達の埋葬を終え、ロヴァル王が鎮魂の儀式を行う。それが始まったころ、母がリリーの隣に戻ってきた。厳かな雰囲気にのまれ少し心細さを感じていたリリーは、胸を撫でおろす。
式典が終わると、徐々に人々はまばらになっていった。悲しみを振り切るように去るもの、離れがたく残るもの、荷馬車の片づけにまわるため去っていくもの、全てを見届けるため残るもの。それぞれ思うところはばらばらだろう。
それを感じ取っているであろう母は、胸を痛めるというよりは、呆然と全てを眺めていた。
「リア様」
騎士の一人が、母に近づく。まだ若い少年だ。彼は、荷馬車を指した。
「歩いて帰るには少し距離があります。乗られますか?」
「ええ、そうね。助かるわ」
母と二人、荷馬車に乗り込む。揺れますよ、騎士がそう告げると、馬が鼻を鳴らした。左右に揺れるそれは、あまり乗り心地の良さはない。石を踏むたびにスプリングの効かない馬車は揺れた。
日が暮れようとしている。夕焼けが平原を照らし、水平線がオレンジに染め上げられていく。
「エロイヒムは私達を見逃してくれたのかしら」
「母さん?」
その様に見惚れている母が、独り言ちた。よく聞き取れず、リリーは尋ねる。と、大きくガタン、と馬車が揺れた。
「ああ、すみません。ちょっと大きい石が避け切れなくて。もうすぐ街の石畳なんで、乗り心地良くなると思うんですよ」
少年が、帽子を被りなおす。母ははっとして、リリーの視線に気づいた。顔色が少し、悪いようにリリーには見えた。母は騎士の少年に語り掛ける。
「ありがとう。街に入ったところで降ろしてくれていいわ。買い物をしたいの」
「そうなんですか?折角道が良くなるのに」
「ごめんなさいね」
残念そうに騎士の少年は馬を進める。
心配そうに母を窺がうリリーに、リアは微笑んだ。
「なんでもないのよ。ねぇリリー。デイジー様にお土産を買って帰りましょう。きっと喜ぶわ。それから、明後日は約束の休日でしょう?昼食のパンを頼んでおきましょう」
デイジー様がヴォルフのところに通うのと引き換えに勝ち取った、休日だ。確かイエライ様の街に出る休日と被っていた。
デイジー様の侍女たちは総入れ替えになったばかりだが、以前とは違い雰囲気がいい。のし上がろうとよりよい就職に貪欲だとか、親切を押し付けて相手を利用しようという人は、少なくともいないようだ。
今日もデイジーに合わせて、きちんと仕事をこなす優しい同僚にも、クッキーでも買っていこうか。そう思いながら、リリーは馬車が止まる音を聞いた。
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