望月8

閃光が。この眼を灼く。


「認めねぇええええええええ!!!」


飲み込む月光の輝きに、ヴォルフは叫んだ。

鐘の音が聞こえる。

その鐘は他者のために鳴り響く。いまや穏やかな響きを立て、そのものを迎え入れるように。

目の前で、イエライが意識を手放す。イエライの隣に見える銀髪の女が、寂しそうに、悲しそうに瞳を伏せる。それが、気に入らないと。ヴォルフは足掻く。

光は、デイジーやアスト、その場にいた皆を包み、結界に似た不干渉の障壁を生む。卵のように柔軟で優しく、金剛石のように強い。ヴォルフも例外ではない。


「ふっざけんな、どいつもこいつも。月の継承者は身勝手すぎんだ!!!俺は、てめぇになんかまもられねぇぞ!!!!!」


ヴォルフの叫び声も、イエライには届かなかった。

しかし、ヴォルフは全力で抵抗した。ヴォルフの身体から気迫のようなものが溢れ、光を押し返す。

銀の女が眼を瞠った。

輝きが、明滅を繰り返して弾けた。行き場を失ったのか。ヴォルフを覆う障壁の光が、イエライの首の痣に吸い込まれる。


「ジジイ、いつ迄もてめぇにいいようにはされねぇ!俺は喰わねぇ。飢えようが知ったこっちゃねぇ。俺の身体から、出ていきやがれぇ!!」


人の形をしながら、耳と尻尾が生え、半獣化したヴォルフが、闘気を放つ。


「かああああああああああ!」


大気が震える。


「ヴォルフ!わたしも。わたしもおなじ。にいさまはいつもかってよ。いっしょに、にいさまをしかりましょう?わたしたちは、ともだちになれる」


デイジーが、ヴォルフに必死に語りかける。ヴォルフの声に、心の声に、デイジーは同意する。

勝手に決めて、勝手に満足して。でも、ヴォルフが一番、それを望んでないと知っていて、イエライは我を通した。それがなにより、ヴォルフには許せない。ドラセナとおなじ道と知りながら。文句のひとつでもいわせろと憤っている。

デイジーを覆う卵の光が消える。ぴくりとヴォルフの眉が動く。デイジーとヴォルフの眼があった。


太陽の能力、《伝心》が、染みるようにヴォルフに届いた。

それは儀式のようだった。太陽の痣が光を放つ。ヴォルフの頬にこびりついた血が、光った。イエライが触れたときについた、デイジーの血だ。太陽の痣が、明滅する。月の痣が呼応するように輝き、瞬く。

ヴォルフの頬が渦を巻いた。そして、その頬に星の痣を浮かび上がらせる。

皆を覆う激しい光の障壁が、全て消失していく。


光りが消えた後、立ち尽くすヴォルフの近くに、イエライが倒れていた。

マーサは猫の姿になって駆ける。イエライのそばに屈んだ。細かな傷が痛ましく、マーサは術を展開する。


ヴォルフの身体からは、黒い靄が飛び出した。地面を這うその姿は、フェルドレだ。ただ、曲がった腰を感じさせない異様な生気に満ちていたあの姿にはほど遠い。皮が溶けたような、垂れ下がった液状生物のようだった。それはアメーバ然とうごめいた。


「とどめ、といいたいところだが。哀れだな」

「ひいいいい」


フェルドレはあわてふためいて、地面を汚す。腕についていた特殊な道具は、光の中で溶けてしまったようだ。動く度地面は黒く変色した。


「クリフォード、撃て」


イーフェの叱責。しかし、クリフォードは首を傾げた。


「もう驚異はない。こんなもの構う必要がないだろう」

「ちっ」


イーフェが術を仕掛けるが、フェルドレが転移するのが早い。地面を抉った後に、その痕跡は残らなかった。


「逃げる力があったか」

「死にかけだ。捨て置いていても勝手に死ぬだろう」

「だといいが」


悔しそうなイーフェに、クリフォードは興味を示さない。そもそも、彼の興味はもうフェルドレにはなかった。


「《太陽がもっとも早く昇る地で喪われた種族が甦る。そして一つ終わりに近づく》」


呟くその声は、誰の耳にも届かない。


「妖精の遺産、か。確かに、アリアンロッドの予言通りに物事は進んでいる」


クリフォードの目線の先には、ヴォルフがいた。







ヴォルフは、突然起こった身体の変化に戸惑っている。

星の痣はヴォルフからは見えない。だが、頬が熱い。ひりつく、やけつくそれに、気分が高揚する。鼓動がやけに早く、心を急かす。頻脈か、どくどくと脳に血流が流れ込む。

生まれ変わった、というのか。

世界が全く違って見えた。白黒から、色鮮やかな世界。空気が違う。吸い込む息が、新鮮だ。飢えがない。脳を支配する警鐘、頭痛も、強迫観念もない。渇き、ひりついていた喉も嘘のように潤っている。だが心は。


「イエライ」


横たわる小さな身体の、傍らに立つ。

猫が、その身体の上に踞っている。

小さな手だ。細い身体に、どこにあんな意地っ張りがいたのか。イエライの髪に、色はなかった。唇は青く、頬も死人のようだった。その姿に、ドラセナが重なる。傍らに銀の髪の女が立ち、イエライを手招きしている。

かくんと、ヴォルフの膝が折れた。


「俺が、ちゃんと伝えてたら。お前が思い詰めずに済んだのか」


勝手に約束を取り付けて、勝手に思い詰めて、イエライは逝った。

ヴォルフはイエライの頬に触れる。当たり前に冷たくて、ヴォルフの心臓が痛みを訴える。頬の傷は癒えていたが、血液は残っている。まだ、血液は温い。見れば、そこかしこ、衣服が切り刻まれている。それが、酷く痛々しく思える。


にゃあ、と傍らの猫がないた。耳と尾を垂らし、俯く。萎んだ毛が、痛みを訴えている。


目頭が震えた。込み上げてくる感情を、押さえることが出来ない。指先が震え、恐る恐る首筋を辿る。

首の痣に触れる。

とくんとくんと脈打つそれに、本当に死んでしまったのだと?


「脈?」


がくがくと、壊れかけのゼンマイがとち狂ったように暴れて、緩んだ螺が突如バラバラに弾けるように。ヴォルフは膝立ちからすてんと尻餅をついて脱力する。

気が抜けた耳に、スースーと、規則正しい音が届く。


「は?」


寝息。

冷静に見れば寝息を立てていて、胸部が僅かに上下している。


「てめぇ、騙したな」


ヴォルフは猫を睨み付ける。

イエライの鳩尾の辺りに居を構えていた猫は、何のことかと、そ知らぬ振りで尾を振った。そして、くわぁ、と欠伸をする。


「マーサ。また猫被り」

『名演技だったろう?』


猫はとんとイエライの上から降りて、アストの傍に飛んでいく。

ヴォルフは猫の強かさに完全に負けていた。


『それでどうする。もうお前はマーナガルムではない。行先は決まったのか。イエライの友になるのだろう?』


アストの腕のなかで、マーサがふんすと鼻をならす。毛むくじゃらの猫は、ゆったりと左右に尻尾を振る。


「いや」


ヴォルフが否定する。アストから痺れる覇気が溢れる。マーサはそうか、と、尾を止めた。


「主、だ。かつて失ったものを、取り戻してくれた恩人だ」


ヴォルフは我知らず、口許が緩む。

銀髪の女の幻影が、満足そうに消えていった。あれは、幻。己の願望が見せていた幻影。肩の荷が下りたのだろうか、強烈な疲労と眠気が押し寄せてくる。


「ヴォルフがぜんりょくできょひしてくれたからだわ。ありがとう、ヴォルフ」


背後から声をかけられ、ヴォルフはぎぎぎ、と首を回す。


「お前も、驚いてねぇな」


妹、だったか。金の髪の少女が侍女二人を共につれ、ヴォルフに歩み寄る。その顔には驚きの色はない。はじめからイエライが生きているとわかっていた。信用ならない、ヴォルフの野生の(?)勘が警戒を告げている。


「にいさま、こころのこえがきこえるわ。ちゃんといきてるのよ。よかったね」


デイジーはヴォルフが身構えていることに、キョトンと首を傾げる。心の声が聞こえているのだが、何故ヴォルフが敵認定しているのかさっぱり根拠がわからない。


「ともだち、でしょ?」


いわれて、ヴォルフは鳩が豆鉄砲食らった心境になる。そういえば、そんなことも言っていた気がする。とにかく、イエライが生きているとわかって、ヴォルフは気がぬけていた。骨のないクラゲとかの心地で、油断して波間にたゆたっていた。

そこに、爆弾が落とされる。


「でもわたしの方がおねえさんよ。だって、あなたまだ、せいごにかげつのわんちゃんでしょう?」

「ちょ、姫様!」

「姫様、お調子に乗りすぎです」


得意気に、デイジーが胸を張る。リアが驚いて絶句し、リリーが窘める。デイジーは唇を尖らせ、「リリーはわたしのみかたなのに」、としゅんとしてしまう。そうなると、リリーが結局折れてしまい、デイジーは最強になる。

どんな甘やかされ方だ、ヴォルフは忍び笑いした。デイジーが黙っているヴォルフの顔を覗き込む。


「あのな。成長速度が違うんだ。寿命三ヶ月舐めんな。てめぇよりはずっと年上だ」


マーナガルムは、大体一ヶ月で身体機能が成熟する。二ヶ月は、人でいうところのおよそ三十半過ぎか。身体機能のピークは長めに作られているので、急激な老化が現れるのは二ヶ月と二十五日後に突如やって来る。そうフェルドレは言っていた。


「ええ。そうなの?ざんねん」


デイジーが眉を寄せて、頬に手を当てた。何か悩んでいるらしい。


「…だが、友達だ」


だが、この星の痣は、どうなのだろう。

たしか、妖精の祝福を受けたものは、通常よりも長い寿命を持つと言うが、ヴォルフにはこの先がどうなるかはわからない。

ただ。

目の前の少女と友である時間は、自分に残されている。それだけは確かだ。


「うん!!」


デイジーの顔が綻ぶ。そうして彼女は地面を蹴った。リリーとリアの止める声もどこ吹く風。彼女は自由で、無邪気で、我が儘にある。

ヴォルフは、生まれて初めて、穏やかな心地を覚えていた。


「て、ヴォルフ?!」


デイジーが抱きついた途端、ヴォルフは仰向けにひっくり返ってしまった。




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