望月7

「!」

「イエライ、血が」


アストとクリフォードが眼を見開く。

流れたそれは、渦に吸い込まれて、止まる。砂が、大地が、建物の崩壊が。全て動かなくなる。

まるで、切り取られた世界のような静寂。


「うあ、あああ」


叫び。

それを口にして、ヴォルフに異変が起きる。


「ヴォルフ」

「ヴォルフのいしきが…にいさま」


デイジーの後押しに、イエライは確信する。

血は、恐らくは記憶に呼び掛ける、本能的な記憶に。それは、食欲。辛い記憶だろうが、彼の感覚が覚えている。そしてそれは、今も機能している。その記憶は、食べた記憶。骨身に染み付いた、記憶。


「もう、ドラセナさんはいない」


ヴォルフの肩が震える。眩しそうに眼を細める。

今度こそ、反応が返った。


「ヴォルフ。お前を助けたい。まだ、時間はあるだろう。やれることが、あるはずだ」


金の瞳が揺らめく。

イエライはデイジーの手を離し、不安定な足場をたどってヴォルフに近づいた。ヴォルフは、半分眼の色が青灰色に戻っている。その頬に、今度こそイエライの手が届く。


「太陽のコードを手に入れるには、そんなにまるごと必要なのか?試してみよう。ダメだったら、もう一回封印して、ヴォルフが寝てる間に見つける。必ず。どんなに時間がかかっても。例え僕が死んでも、誰かに引き継いで見つけ出す」

「イエラ、イ」


イエライの触れた手が、ヴォルフの頬を血で汚す。それはイエライとデイジーの血だ。

月の痣が光り、ヴォルフの瞳の色が完全にもとの色に、青灰色に戻る。身体から深い毛も消えていき、人間の形状へと戻っていく。腕が、足が、肩が、背が。イエライの知るヴォルフへと変異していく。


「馬鹿な!」


無駄だと高を括っていたフェルドレが、腕輪を擦った。何かを仕掛ける。しかし、眉をしかめて固まった。


「無駄さ。全て解除して、取り除いてやったからね」


ふふん、とマーサが掌を握り込む。微小な機器がパラパラ音を立てて落ちる。


「リアが教えてくれたよ。あんたが考えてること、全てね」


フェルドレがヴォルフに仕込んでいた仕組みは、リアに丸聞こえだった。それを逐一マーサに報告したおかげで、マーサは取りこぼしなく仕掛けを回収し尽くすことができたのだ。

フェルドレは怒りに身を震わせた。活火山が噴火する直前のような、微弱な大気の震えに似て、止まらない微動。


「き、さま。貴様、貴様あああああああぁあああああああ!!」


フェルドレが雄叫びをあげる。

かくりと、老人の身体が力を失って、糸の切れた人形のように地面に落ちる。ただの皮のように、ヒラヒラと風に靡いて翻り、空を舞う。そして砂のように消え去った。


「うおあぁあああああああああああああ」


ヴォルフも呼応するように叫び始める。


「ヴォルフ!」

「こうなっては仕方あるまい。我の意識と同調するよう、最終プロテクトをかけておる。難儀な点は我自身がその一部になるのだがなぁ」


ヴォルフの口が動いている。が、それはフェルドレの声だった。嗄れた、ねっとりと耳にこびりつく、あの声。ぞわり、粟立つ背筋。彼を眼にするもの全てが、その薄気味悪さに本能的な寒気を覚えた。

いち早く反応したのはクリフォードだ。しかし彼はイエライを思って実力行使を踏みとどまる。


「あれを諦めていいなら破壊し尽くしてやるが」

「…ダメだ」


クリフォードの決断は間違っていない。だが、イエライは即座に否定した。

フェルドレは、すぐには動けない。自分の意識にコードを書き換え、完全な同化をするのに、時間がかかるのだ。恐らくそのために、邪魔されない結界のようなものを張っている。


「手があるのか?」

「そん、な。同化のコードを直接遺伝に組み込んでいる、と」

「…ならば打つ手は」


クリフォードは冷静に分析する。リアがフェルドレから聞いた言葉は、絶望的状況を告げている。マーサは唇をかむ。それが示していることは一つ。だが、諦めることは出来ない。それに、諦めることは、明らかに、極めるからこそ諦められるのだ。まだ、イエライはそこまで足掻いていない。自分だけが安全圏にいて、これ以上皆に迷惑はかけられない。


「アスト」


生暖かい風が、吹く。

まだ、蝕は続いている。このままでは犠牲が大きくなる。


「兄上、だめです」


イエライの呼び掛けに、アストはイエライの決断を朧気に予想した。それはクリフォードとマーサも同様だ。

リアは、分かってしまっていた。イエライの声から、かつてのリアの姉、ドラセナを思い起こしたからだ。


「もし、ヴォルフが生き延びたら、僕の代わりに」

「お前が犠牲になる必要はない。あれくらい、消滅させられる」


クリフォードは言い切る。


「や、め。な、なんじゃ、これは」


突如聞こえた呻き。一瞬、フェルドレに気をとられる。フェルドレのコードの書き換えは思ったようにうまくいっていないらしい。苦しそうにしている。

ヴォルフが抵抗しているのだ。足掻いた甲斐があった。マーサが神経系統の人為的ロックを解除し、繋げた信号は生きている。マーナガルムの力が強いということは、フェルドレに対抗できる力も強いのかもしれない。まだ彼の自我がある、ならば早くしなければいけない。


「それでも。僕は約束したから。ヴォルフを助けると」


イエライは、彼の友だと自惚れている。

その友が、自分を心配している。自分の今までの生き方が間違っていないと、生きた価値をそこに見いだして、満足しているなどと言えば、彼にはっ倒されそうだから、口にはしない。その代わりに。


「それに、クリフォード。君は何も言わないけれど、フェルドレのあの力、厄介なんだろう?」


クリフォードは押し黙る。

元々、彼は寡黙で会話が得意ではない。女性にたいしてはフェミニストなところがあるが、基本は口下手だ。彼の伝えた情報には、フェルドレが原生人で、量子力学と分子生物学、生化学に精通していたとしかなかった。

つまり、フェルドレはマーガでも妖精の血を引いているわけでもない。そして、ヴォルフと同じ時代から彼が封印されているなら、彼は発達した法石エネルギーの技術を知らない。彼の生む障壁や結界、攻撃、転移のような技術は、そういったエネルギー体系からは隔絶されている。

既知であれば、勝算がたてられるが、未知の場合はそうではない。未知に対するとき、人は慎重になる。向こう見ずな行為は敗北要因でしかない。


彼は学者だ。不死者、妖精、狼を解剖分析し、治験および臨床、ありとあらゆる実験を繰り返してきた。遺伝コードの書き換えや組み替え、クローニングだけでは済まない。その過程が、本来の目的と違う思いもよらない付随品を産み出すことがある。

生体兵器。生き物そのものを強制的に結晶化して動力の一部として使う。その生物の特殊な能力を引き出し、フェルドレが設計したコードを空間に構築する。


イエライはその存在を知らないが、フェルドレの未知の力に敵う保証が、いかな神器の使い手と謂えど、確定的ではない筈だと感じていた。

クリフォードの反応に、イエライは口端で笑った。そして、ゆっくりアストに向き直る。


「お前にしか頼めないんだ」

「折角。折角、ここまできて。兄上の力になれると、思ってました」


語尾に従って、アストの声が小さくなっていく。俯いた彼の肩に、イエライは手を置いた。


「後を任せるんだ。デイジーの事もだ。此れからもずっと頼ってるんだ。力になってくれるんだろう?」

「わかり、ました」


小さな体を抱きしめる。アストが静かに涙を流し、イエライは胸を痛めた。だが、立ち止まっていられない。アストを開放し、イエライは一歩踏み出した。

ヴォルフはまだ呻いている。フェルドレと戦っているのだ。


(《汝は死せねばならぬ》、か)


穏やかな音が、響いた気がした。

イーフェが陥没した地面に、道を作ってくれた。マーサがイエライの身体に何かの守護の術をかける。

イエライはすっきりと見通せる青空のように晴れやかな境地に立っていた。後悔はない。今、逃げる方が後悔だ。誰かの期待なんて考えていない。ただ、今目の前にあるものを守りたい。そして、自分の大切な人に、誇れる自分でありたい。


「うぁ、イエ、らイ。やめロ。おれハ、もう」

「ヴォルフ。僕で終わりにしよう。いいだろう?」


近づくイエライに、ヴォルフは怯えたように頭を振った。後ずさりしながら、途切れ途切れに、ヴォルフが苦しそうに吐き出す。

ドラセナも同じことを思ったのかもしれない。イエライは見えない祖先が、美しい銀の髪を揺らして微笑んだように思えた。


「全て、我の意識に書き換えられる筈だ!!何故、欠片も残る筈がない、オヌシの意識は虫の息だあぁああああああああ!!」


ぐるんと首を回転させて、フェルドレが雄叫びをあげる。何かの仕掛けを発動させ、イエライの頬を掠めた。マーサの守りのお陰で、傷は深くはない。だが一筋血が流れた。

構わずイエライは近づいた。不思議と、全く怖くなかった。覚悟が決まるとは、そういうことなのだろう。


「マーニ(月)よ」

「やめ、イエら」


ヴォルフが抵抗する。

きっとドラセナを思い出している。悲しそうな、悔しそうな、やるせない表情。申し訳ないけれど我を通させてもらう。イエライは自己犠牲という自分勝手を、自分自身の誇りにかけて、為すと決めた。


「どうか、ヴォルフや皆を」

「くっそガキがァああああ!!我は、こんなところで」


フェルドレが足掻く。腕を振ってイエライにぶつけてくる。マーサの守りは打撃については全く無効になるらしい。フェルドレはもう力がないのか、先程より弱い力を複数発動させた。小さな切り傷がいくつかつくが、血を流すほどには深いものはなかった。

足掻けばいい。

だが、月の妖精の能力は。

イエライの首の、月の痣が一層光を放つ。眩しいほどに輝き。

月が。

蝕で隠れてしまっていた月が、刹那、姿を現し。


「ヴァルヴェン(呪い)から、守って」


目の前の眩しさに、身体から何かが失われていく感覚。暖かい光。その心地よさに、イエライは意識を任せる。



閃光が、全てを包み込んだ。

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