望月6
「分かりました、兄上」
頭上から聞こえた声。
そしてそれは、文字通り、降ってきた。現れた小柄な少年は、剣の鞘でヴォルフを一撃する。反撃に出たヴォルフを横に飛んで躱す。躱されたことで状態のバランスが崩れた彼を、足払いで転ばせた。
欠けた月が照らす艶やかな青の髪。しなやかな動きで、少年はイエライを背に庇う。
「ア、スト」
イエライは、なんとか声を絞り出す。
「リア母さん、だめ」
視界の端では、どこから現れたか、リリーがリアに飛びついていた。その傍らにはデイジーの姿もある。
「ッ。リリー。無事、だったの」
「母さん。投げやりになるなんて、馬鹿。私は生きてるでしょう」
「ええ。そうね。ええ」
リアは、先程までの冷淡な態度が嘘のように、泣きそうな顔になる。そしてリリーを抱き締める。リリーも負けじと抱き返した。そして、二人で泣き出した。隣のデイジーは二人を穏やかな表情で見守っている。さながら聖母のように。
「にゃあ」
「マー、サ。いた、の」
ふさりと、マーサの尾がイエライの首を撫でた。不思議と痛みやだるさが消えていく。全身が楽になり、手の傷迄治っている。
「これって、マーサがやったの?」
「にゃあ」
胸を張る長毛の猫を、イエライは撫でる。マーサは満足にゴロゴロ喉を鳴らす。振り向いたアストが、何故か呆れた顔をする。
「マーサ、猫被り」
『いいじゃないさ、別に』
「しゃ、しゃべっ…!」
眼を丸くしたイエライに、アストも眼を丸くした。そして、笑う。アストのその顔に、悲壮感や倦怠感などない。何があったのか分からないイエライは、目を白黒させた。
「ぐるるるる」
「しまっ…」
アストの背後に、ヴォルフが唸り声をあげて近づいていた。油断していたアストは、体勢が悪い。対応が間に合わない。
飛び掛かかろうと地面に踏ん張ったヴォルフの足元を、銃撃が牽制した。その音には聞き覚えがる。
『遅いぞ、クリフ』
「犬か。なぜ俺がこんなことを。だが」
はっとして、イエライは顔をあげる。そこには少年がいた。
灰色の髪の少年。いや、青年とでも呼ぶべきだろうか。二年の歳月で伸びた背は、まだ少年らしさを残しながらも、彼を大人により近い存在に格上げしていた。
「アールヴ(妖精)の遺産か。興味深い」
そうして数発銃弾を打つ。銃弾地面に飲み込まれ、しかし、輪のようなものがヴォルフを囲う。手を伸ばしたヴォルフは弾かれてしまう。輪は、高速振動している音の波だ。ヴォルフはそこから逃げ出すことが出来ないでいる。
両手に銃を構え、真っ黒なコートを纏った彼は、イエライを見つけてニヒルに笑う。
「イエライ。相変わらずだな」
イエライの記憶の中より少し低くなった声が、耳朶をうつ。
二年前、西大陸で行動を共にした時も、彼は頼りになった。西大陸の大国イニティウムの《軍神》、ティールの一番弟子。クリフォード・モートソグニル。《音》を司る神器、ガンダールヴの使い手。
「クリフォード。どういう意味ですか」
「相変わらず、線が細い」
「言わないでくれ」
「お前が聞いた」
「そうですね」
クリフォードの榛の瞳が、物騒な色を秘めて揺らめいた。
クリフォードは軍神と名高い《千槍》ティールの一番弟子だ。その高い戦闘能力と隠密能力は、弟子のなかでは群を抜いている。その為だけに生きているような錯覚さえ覚える彼の技術面での成熟は、彼にある種の感情を抱かせている。
憂鬱だ。
他者の追随を赦さない彼の強さは、二年前のあの内乱の時でさえ、師匠であるティールしか相手にならないようだった。そうした強者が抱える憂鬱。頂点を極めたものの中に沸き起こる感情。彼は彼の師匠と数名しか、もう彼の相手になるようなものがいない。つまり、未知の敵で、彼が手こずるようなものに出会うことがまずない。
その彼が、戦闘本能を掻き立てられている。
「あのイーフェが、押されているのか。流石、狂科学者フェルドレ・ヴァルヴェン」
「知っているのか?」
「遠い昔、研究を生業にしていた原生人だ。量子力学を基礎に、生物学に手を出し、量子生物学から分子生物学に傾倒した」
イエライが尋ねる。クリフォードは頷く。そして惜しげもなくフェルドレの過去が開示されていく。
「彼の時代は法石もなく、徒に自然破壊がされていたともいう。故に量子力学で生活を変えようとしていたのだが、彼は気づいた。人の欲深さに。段々と彼は環境をを汚す原生人に嫌気がさしてきた。新たな生命が、汚れなき生命があればと。多くの精霊や妖精を解体、分析することに夢中になった」
イーフェの光球はフェルドレに決定的な損害を与えられていない。クリフォードは興味深げにそれを観察しながら、続けた。
「そうして、彼は見つけた。彼の知的欲求を満たしたのは、ある遺伝子。狼の一族からみつけた遺伝子だ」
「まさか」
狼の一族は、刈られた。フェルドレの欲求を満たすために。
「それは、特殊なコードを取り込むことで増幅する。寄生した細菌が促した進化ではない。突如に目覚めるように変異する。ある妖精のコードを取り込めば、コードの増幅と入れ換えが始まる。接種することで乗り物を取り替えるようにコードを書き換えたり増やしていく。無限の可能性を秘めていた。そして多くの献体が必要となる」
フェルドレは熱狂した。そのせいで狼の一族は絶滅寸前に陥る。自然と向かう方向は決まっていく。
「そして、彼は神の領域を侵す。新たな生命を産み出すのだ。不死者の研究に手をつけながら、研究を続けた。細胞から作り出された新たな個体は、マーナガルムと呼ばれた。しかし、生まれた人工生命体は脆弱で、フェルドレは、何度も何度も実験を繰り返した。そして漸く、安定した個体が出来上がる」
細胞を増幅させるのに多くの月日が費やされた。フェルドレは未だ生きなければならなかった。不死者の研究は必然だ。
不死者と聞いてアストの肩がピクリとうごいた。だが、黙ってクリフォードの話を聞いている。怒り狂ってフェルドレに突っ込んではいかない。それは愚行だと知っているのか。ブリオンの敵討ちを遂げようと情報収集に徹しているのか。
「だが、その個体の寿命は3ヶ月。長寿遺伝子が不活化しているからだ。その長寿遺伝子を書き変えるのは、太陽の妖精。そして変異には月の妖精のコードも必要となると分かった」
「だから、太陽と月の祝福を受けているアウローラに、フェルドレは眼をつけた」
「そんなところだ。分かっているだろうが、祝福とは、遺伝だ。簡単に言うと先祖返りだな。妖精の遺伝をより多く受け継いだ個体に、証が表れている。お前のその痣がそうだ」
「そんな情報、どこで」
イエライには、知らないことばかりだ。アウローラの歴史書には殆ど眼をとおしたが、そんな記述はどこにもない。クリフォードは口許に手を当てた。
「アルビオンに秘密の記録があってな。…まずいぞ」
クリフォードの視線の先には、ヴォルフが音の波を食べている姿があった。もうすぐ破られてしまうだろう。
「マーナガルムは《完全》にならなければ常に餓えるよう、設計されている。どうする?」
クリフォードが疑問を投げる。それは波紋のように広がり、アスト、マーサが遠慮がちにイエライを見つめる。やがてそれはデイジー、リア、リリーに伝播する。
「ぼくは」
イエライは胸の前で手を握った。ここで彼を殺せば、楽だろう。だが。迷う視線がデイジーを捉える。
「にいさま。ヴォルフはふかいところにいて、にいさまをきずつけたこと、すごくくるしんでる」
「デイジー。それは」
汗ばんだ手が、ゆるりとほどかれた。
--《太陽》の力。姉はこの力を貸せと。ただ人の心を読むだけの力を--
リアの言葉を思い出す。
ヴォルフを殺すことはいつでも出来た。だが、アストは鞘で戦い、クリフォードは檻を作った。デイジーは、人の心を読むことができる。
皆知っている。気がついている。イエライがどうしたいのか。分かっているから、彼を殺す方には動いてない。だが、勝手に動くことはしない。何故なら、デイジーを通してそれを知っているだけだからだ。本当に望んでいるなら、言葉にしなければならない。伝えなくては分からないことがある。
彼らは彼らの耳で確かめたいのだ。
「ヴォルフを助けたい。力を、貸して欲しい」
「「『「了解」』」」
クリフォード、アスト、マーサ、デイジーが示し合わせたように応え、破顔する。
「わ、私も出来ることがあれば。皆さんほど役には立ちませんが」
「私も声なら聞こえます。ただ、デイジー様ほどは。私はあのマーナガルムから、破壊衝動しか感じられませんから。ですが、償いは致します。」
リリーが自信無げに追随し、リアも同調する。リアは憑き物でも落ちたのか、すっきりとした顔をしていた。
「有り難う」
「にいさまのいじっぱり。おそいのよ」
「同感だ」
「全くです」
「え、え?」
予想外の非難に、イエライは首をキョロキョロ動かした。クリフ達は、顔を見合わせてにやにやしている。
「でも、兄上からのその言葉、ずっと待ってました」
アストの笑みは、本当に清々しいもので。
恥ずかしいのか半泣きになるやらで、イエライは頭を掻いた。
バチ、音がして、ヴォルフが銃弾の檻を食べきった。それから大きく口を開く。空気が振動し、地面が揺れる。砂が、大地がめくれあがり、大地を吸い込み始めている。
『呼んでみな、イエライ。もしかしたら意識を引き上げられるかもしれない。クリフは足止め。アストはアタシとデイジーを守っとくれ』
マーサの指示に、いち早くクリフォードが飛ぶ。マーサが、ふさりと尾を振った。妖しげな瞳の美しい黒髪の女性が、半身透けた状態で現れる。
「デイジー。奴は一度意識が浮上したけど、阻害されたように消えたと言ったね」
「はい」
「中枢神経の信号を何処かで書き換えてるかもしれないか。何か変化があれば、デイジーはアタシかイエライに言いな!」
言い終わるが早いか、マーサの身体が発光する。
「おばあさま!?」
あらぬ方から、驚愕の声を拾う。マーサは呆れたように目を眇めた。
「イーフェ。まだまだ半人前だねぇ。まあ、クリフを呼んできたことは誉めてやるけれど」
「どうして…ネムスの守りは!?」
「よその心配しないで自分のことなんとかしな?」
フェルドレの攻撃を辛くもかわし、イーフェはそれ以上言葉にしなかった。
アストが冷静に、マーサを狙う狼達を倒していく。
マーサはやれやれと、額に手を翳し、構成を練る。緻密な構成だ。初歩の妖精術にして、その練度が半端ない。練度が違えば、術の出来は格段に違う。マーサは練り上げた構成をヴォルフに向けた。
「この異物はなんだ?」
マーサが眼を見開く。彼女の視界は、ここではない何かを捉えている。妖精術の中でも、創生術と呼ばれる分野の一つだ。創生術は、占いや呪いのようなものから、怪我や病などに働きかける力まで多岐にわたる。その、創生術の初歩とも言われる、《遠視》。時には失せ物を、過去を視る。自分の視界を特定のものに固定することが出来る術。マーサが視ているのは、ヴォルフの脳だ。
「この異物で、弄ったコードを調整しているね。取り除くのに骨が折れそうだ。取り除いても止まっているしてる信号に刺激を与えないと…まず一つ目」
マーサが再び構成を練る。《遠視》を解放したまま二つの術を行使する高等技術。さらに治癒は、創生術の初歩でもあり最高難度でもある。イエライの治癒が一時的なものではなく完璧なことは、相当の腕前である証明だ。
クリフォードがガンダールヴを放つ。ヴォルフに向かって飛んでいくが、ヴォルフにとって銃弾がおやつ程度になっているのか。ヴォルフは飛んできたそれをばくりと飲み込むと、喉を鳴らした。挑発するように肩を回し、砂を吸い込むのを再開する。
飲み込まれた地面が陥没していく。イエライ達の立つ地面も影響を受ける。一気に傾いて、イエライはずるりと足を取られる。
「イエライ」
「分かってる」
クリフォードに促され、イエライはぱちん、と両頬を両手で挟んで叩く。気合いをいれて、ヴォルフに向き合う。
(けど、何を言えばいい)
闇雲に話していいものだろうか。外的刺激となることを求められている。なら、効果的になる言葉とは何か。
月が完全に消えてしまう。蝕になる。マーナガルムがもっとも力を発揮する、蝕の時間。
その瞬間が音擦れる。
「ヴォルフ、僕は生きてるぞ」
クリフォードが銃を地面に向けて放つ。地面を音の波で固定して振動を緩和し、足元が確保された。次いで音の壁をヴォルフの周りに設置する。少し吸引の速度が遅くなった。音で感覚を狂わせているのだ。
クリフォードが時間稼ぎをしてくれている。それに応えなくては。
「ドラセナさんは、ヴォルフに生きて欲しいと願ったんじゃないのか」
ピクリ、ヴォルフが動いた気がした。
「彼女がリア達を未来に送ったのも、ヴォルフを封印したのも、お前を救うためじゃないのか」
「がああああぁ」
しかし、ヴォルフは止まらない。砂を飲む速度は変わらない。クリフォードが力場を確保しようとするが、それも食べられていく。
「ヴォルフ、止めろ!」
「にいさま、あぶない」
「デイジー!」
デイジーが飛び出てきて、イエライに受け止められる。そのお陰で、イエライは足元に落ちてきた木から逃れられた。
「いた」
「怪我したのか?血が出てる」
「へいき。だめよ、にいさま。ヴォルフにこえ、とどいてない」
地盤が陥没していく。イエライはデイジーのすりむいた膝をハンカチで拭う。
(言葉だけじゃダメだ。ドラセナさんについては情報が無さすぎる。あの時は、なにが、ヴォルフに届いた?)
木々が容赦なく飲み込まれる。その中に、あの石像も三体、含まれた気がした。クリフォードが力場を固定しているが、太陽翼の回廊が揺れている。建物を支えるだけの地面がなくなってきているのだ。
騎士達は完全な荷物となる。意識のないバレリアンと一緒に、イーフェが残りの法石の力全てを使って転移させる。蝕により月の光がない中、明かりとなっていた大量の法石も消える。フェルドレも、見えない狼達を引っ込めたようだ。
イエライは、足場になるものを手探りで探して、右手が滑る。血がついてる。デイジーのものだろう。ハンカチで拭いたそれが、手についたのかもしれない。
「落ちるぞ!伏せろ」
イーフェが妖精術で明かりを灯し、叫ぶ。
後方にある回廊の一部が、音を立てて崩れて壊れた。
事前に人払いはしていたが、ものは運び出せていない。調度品のいくつかが音を立てて割れ、それすらも飲み込まれていく。渦の流転。空気すら食われている。イエライは思考を巡らす。そして、右手の指を傷つけた。
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