望月5
「そんな」
リアが、呆然と呟く。
「どうして」
目の前の光景が信じられない。
彼は、マーナガルムの餌食となったのだ。赤い血しぶきが飛び散る。腹を抉られ、体を折り曲げて、頽れる。肌から血の気が引き、仕立てのいい服が赤く染まっていく。地面に広がった長い髪が、少しずつ朱に染まる。
「イエライ様!」
バレリアンが叫び、駆け寄る。所々狼にひっかかれているようだが、マーナガルムに対峙する。軽傷だろうか。彼の鞭がマーナガルムの足を捉えた。彼の動きを少なからず束縛する。
イエライは、真っ赤に染まっていた。
上半身にかけて、血が飛び散っている。それは、彼の血ではない。勿論マーナガルムでもない。彼の足元に斃れた男のものだ。
「ジュニパー!」
イエライは、自分を庇って地面に伏せている彼を抱き起す。べっとりと、手が血で粘ついた。青白い顔がこちらを向く。
「すまなかったな。イエライ。儂のせいで、つらい思いをさせた」
「血を。血を止めましょう。これを飲んで。後、服を脱いで止血を」
「いいのだ。利用するのもされるのも疲れた。もう、休みたい」
「そんな」
イエライがポーチから出した薬を、ジュニパーは首を左右に振ることで拒絶した。イエライは服の上から腹を抑えるが、出血が止まらない。ポーチから血止め草を出すが、こんなものではおさまらないだろう。気休めでもいいと使ってみて、さらに途方に暮れる。
「いいのだ。我らは亡霊。ここにいてはいけないもの」
「そんなことありません。諦めちゃ駄目です」
力のない、抑揚のないジュニパーに、生気の欠片を感じ取れず、イエライは焦った。なんとか気力を取り戻してもらわねば、持たない。他に何か薬はないか、止血しながら薬を探す。
「いいや。この時代に居てはいけないのだ。マーナガルムの産みの親、あのフェルドレと同様。そこにいるリアも同じ。我らは過去の亡霊。私はアジュガだ」
ジュニパーの突然の告白に、イエライの手が止まる。止血に使っていた布を取り落とし、地面に染みが広がる。
「アジュガ?あなたが?」
「儂の妹は死んだ。美しい銀の髪が自慢だった。だが、死んでしまった。そこにいるリアのせいでな」
恨めしそうに、ジュニパー、いや、アジュガがリアを見上げた。そして血を吐く。アジュガの服は、段々と朱に染まっていく。イエライは取り落とした布を拾い、汚れていない面に変えて止血を続ける。
「もうやめてください。止血が、間に合わない!」
「儂は絶望した」
アジュガは聞いてほしいのだ、とイエライの腕を掴む。そしてぼやける視界にイエライを映した。
「マーナガルムがあらわれた時、ドラセナはあ奴に同情した。助けてやりたい、と。だが、リアは協力を拒んだ。だから彼女が犠牲に、なった。ドラセナが命と引き換えに何を願ったのか、儂は知らん。だが、儂とリアは、数百年後の、世界に飛ばされて、いた。驚いたのは、まるで英雄のように讃えられた、儂だ。ドラセナのこと、は、全く触れられずに、儂らが」
喉に詰まる血を所々吐き出しながら、切れ切れにジュニパーは独白する。
「ロヴァルは。そんな儂を、不自由ない身分に置いたが、儂は疲れていた」
アジュガとして讃えられても、虚しいだけ。だが、フェンネルによって、アジュガは表舞台に戻ってきた。ジュニパーと名前を変えて。
「そして、今代の《月》、と、《太陽》が生まれた。儂はせめて、今度こそ《月》を犠牲にしたく、なかった。儂はフェンネルに、《太陽》さえ力を貸せば誰も死なずに済むと、いった。デイジーでなくリアを引きずり出すため、にだ。だが、リアは儂の裏をかいた。フェンネルに付け入られていた儂に、その罠を避けることは出来、なかった。すまなかった。本当にすま、ない。イエライ」
「もう、もう良いですから」
アジュガが咳き込む。止血で押さえている布から、出血が広がる。
「良いか、イエライ。力を、使っては、ならん。誰も救われん」
力を振り絞るアジュガは、イエライの腕から手を離し、肩を掴んだ。しわくちゃの手とは思えない力で、一瞬、止血部分がずれた。顔色が悪い。どんどん青白くなっていく。
血が止まらない。これ以上血が失われるとまずい。イエライの頭で警鐘が鳴る。失った血液を取り戻すような薬草はない。イエライはしがみつく。消えようとしている命の灯に、必死にしがみつく。
「あ奴にも、謝っておいておくれ。儂の、子孫。バレリアン」
だが、こぼれ落ちる。なにも出来ない。何も変わらない、無力さだけを残していく。すう、とアジュガから力が抜ける。瞳から光が消える。失われていく。
その瞬間。
「いい気味だわ」
もう、アジュガには聞こえてなかったかもしれないが、嘲りが鼓膜を揺らした。
「どうして、リア」
「ほとほと王族がいやになったんですわ。イエライ様。貴方はわたしの罠にはまってくださらなかったし」
リアは何でもないことのように、イエライを見下ろした。冷たい眼だ。
「自己評価の低い第一王子イエライ、自己顕示欲の強い第二王子アリストロ、皇室から外れた武官の母親のせいではみ出しものの第四王子アスト。何処に行ったのか放浪癖の第一王女、わがままでヒステリーな第二王女デイジー。遅かれ早かれ、膿は出した方がいいでしょう?」
リアは強い口調でいい放つ。イエライは言い返せなかった。高名なロヴァル王の後釜は頼りない。城内でもこれらの噂は流れている。事実だ。
しかし、だからといって何をしてもいいというリアの口振りに、若干の気持ち悪さを覚えた。それは、過去の王族として、未来の王族に対する警告なのか。それとも、妾腹で虐げられたことで歪ませた感情が成せる、王族達への仕返しなのか。
「ジュニパーを欺いて、フェンネルを騙したんですか」
「お陰で、私に目がいかなかったでしょう」
イエライが何とか口にする。リアからは表情が抜け落ちていた。ゾッとするような、背筋が凍る顔だった。
突如、突風が吹く。ついで横切る人影が、近くの木をへし折った。
「バレリアン!」
人影は、バレリアンだ。弾き飛ばされたのだろう。傷だらけで、片眼鏡がどこかにいってしまっている。惨状から見て、肋骨か骨の2、3本折れてるかもしれないが、呻き声一つあげない。気を失っているのかもしれない。
バレリアンが飛んできた方、そこに居たのは狼だ。ギラギラと目を光らせた、青灰色の狼。そう認識したものの身体から、煙が立ち上がる。それは、目の前で徐々に変態していく。毛が逆立ち、一回りも二回りも大きく膨らむ。毛でおおわれた胸部が広がり、肩が張り出す。同時に、後ろ足が膨らんで伸びていく。
「ヴォル、フ?」
それは人なのか、狼なのか、言い表し難かった。ブルーグレイの毛皮はそのままに、二足歩行で直立している。顔の表面は毛深く、瞳は金に光る獣のもので、鋭い犬歯が剥きだしになっている。獣のそれより一歩が大きい。のそりとゆっくりした速度だが、一歩また一歩と。その眼はリアを見据えている。
彼が、結界に手を伸ばす。バチバチと走る電光と、肉の焦げる匂いで、イエライは我に返った。
イエライはジュニパーを放した。まだ暖かいそれに未練があったが、もう死んでいる。出来ることなんてない。言い聞かせてヴォルフに飛びついた。後ろからおぶさる。
ヴォルフはその違和感に身を振るう。イエライはそれに耐え、後ろに引き倒そうとしたが、圧倒的に筋力と体重が足りない。皮膚の一部、毛皮を引っ張ると痛がってヴォルフが後ろを振り返る。それが凶器の瞳で、イエライの背筋に冷たいものが這う。それでもしがみついて、ヴォルフの焦げている手を、結界から引き剥がそうとする。伸ばしたイエライの爪先が結界に触れた。
「あああああああ」
バチバチと、耳飾りが音を立てて割れた。同時に襲う激痛に、意識が飛ぶ。イエライは振り落とされて、地面に転がった。
「どうして。マーナガルムを攻撃している結界に、生身で触れるなんて。自殺行為よ」
リアが呆然と、イエライを見下ろす。
「あなたはドラセナ姉さんと一緒。みんな助けたいのね。そんな欲張り、通るわけない」
ヴォルフは、イエライを振り払うと同時に結界から手を離していた。痛むであろう両手を閉じたり開いたりしながら、ふと、隣で呻き声をあげる存在に気付いた。そうして、転がっているイエライに、ヴォルフは近づく。
イエライは近付いてきたヴォルフに、ほう、と息をついた。その仕草が、何処と無く何かを探しているようだったから。
だが、触れようとして、躊躇う。
ヴォルフは顔を近付け、匂いを嗅ぎ、金の眼がぎらりと光る。そうして、ニタリと笑う。それから、イエライの首を捻りあげるよう、左手で持ち上げた。
「ヴォ、ルフ」
頸部が圧迫される。思考が定まらない中、イエライはヴォルフの名を呼んだ。
「イエライッ!」
イーフェが叫ぶ。身を翻そうとしたのをフェルドレに阻まれ、イーフェは唇を噛む。
「無駄じゃ。もう人の言葉など通じん。飢えしか感じぬよう、ここをいじったからのぉ」
フェルドレがとんとんと、米神を人差し指で打つ。馬鹿にした物言いに、イーフェはかっとなる。光球が数多出現し、フェルドレを狙う。しかしこれも長期的な消耗戦になってきていた。フェルドレに攻撃を仕掛ける、それだけでイーフェは手一杯になっている。
月が陰る。天空高い月が、黒い影に徐々に侵食されていた。それは、僅かな翳りであった。
イエライを餌と認定したヴォルフの狂喜じみた顔。イエライの視界が赤く染まっていく。
「ごめ、ん、ヴォ…」
今なら、分かることがある。何故黙っていたのか。結界のことも。その本質も知らなかった。謝ったとして足りなかったのだ。知らないことは疵瑕。知らぬを知るは徳。それを知らぬままにするは罪咎になる。
イエライはヴォルフの顔に触れようと手を伸ばした。絞められた首をはがそうともがくのではなく。怪我をした方の手で。血が、ヴォルフに触れる。息が出来ない。血が、下がってるのか上がっているのか。どくどくと血管の音だけして、頻脈と発汗が酷い。
「イエ、ら…」
頸部の圧迫が弱まり、ヴォルフの金の瞳に青灰色の光が宿る。穏やかなそれに、イエライは眼を細めた。
だがそれは一瞬、ほんの刹那。
ヴォルフの手が、一層握力を強めてイエライの首を掴みあげる。
「う、あ」
一瞬意識が飛ぶ。視界が、光が明滅する。思考がぼんやりしてくる。息が出来ない。苦しい。一筋、涎が垂れた。イエライの伸ばした手は彼の腕を滑っていく。
それは甘美な薫り。食欲を掻き立てる、甘くかぐわしい薫り。弱々しく喘ぐ声も。餌を追い詰めている事実に興奮し、嬲る快楽が神経中枢を支配し、甘い痺れをもたらす。全てが、五感を刺激し、骨身にまで染み渡る。本能に直接呼び掛ける耐えがたい誘惑に抗う術を、彼は知らない。
軈て、窒息から餌の体が痙攣し始める。意識が薄くなっていく。青いのか赤いのか白いのか。その顔色は美しいと、彼はうっそりと笑みを深める。
月の翳り。欠けた月は、段々とその光を弱めていっていた。なにかがその月を覆うように、すっぽりと手に掴んでしまうように。辺りを照らす月光も、消えていく。
「私は兄に助けて欲しかった。なのに兄は貴方を庇い、私はこどもの貴方に助けられるなんてね。貴方、私の策は打ち破るくせにこんなに簡単に死のうとするなんて」
遠くなっているイエライの耳に、リアの声が僅かに響いた気がした。
「《太陽》の力。姉はこの力を貸せと。ただ人の心を読むだけの力を」
その声は、近くにあった。そんなに近くに結界があっただろうか。転がって距離が出来てしまったが違ったのか。赤く染まりつつある網膜が、リアをうつしだす。彼女は、結界を出ている。
「その狼の考えることなんて、一つしかないのに。無駄よ」
木偶のように弛緩し始めたイエライに、ヴォルフは興ざめしてきた。もうこの餌は終わりだ。だが、首を絞める手は止めない。匂いたつ香水の如く、麻薬のような中毒性を秘めた、死の香りに酔いしれる。だが、もっといい匂いがもう一つ。厄介な檻から出てきて、容易く手に取れる。ヴォルフの欲望が疼いた。
「勘違いしないで。貴方を助けるんじゃない。リリーが、デイジー様と友達なの。お友達を悲しませないためよ」
イエライには、何故リアがそんなことを言うのか、理解できなかった。理解できるほど、脳に血流が行きわたっていなかった。耳が、暗号のように音を拾うだけだった。
ヴォルフは、新たな食指が沸いたと自覚する。未だ手にしたことのない極上の薫りが、ヴォルフの鼻孔を擽る。食欲をそそるその薫りは、手にした死の薫りより甘美なものに映った。それも当然。手元にある獲物は十分魅力的ではあったが、その経験をヴォルフは覚えている。そして、かつて食したそれより、未知のそれは、一度食べ逃した食材なのだから。
ヴォルフの手から、イエライが無造作に落とされる。
胸を強く打った衝撃と、止まりかけた呼吸、肺機能が慌てて酸素を求めようとするのが同時に起こり、イエライは噎せる。咳き込むこともままならず、意識が朧気になる。首の骨が折れてるのか、おかしくて呼吸がまともに出来ず、喉から穴の空いた隙間を抜ける空気の音がする。それでも、呼吸を何とかしようと、喘ぐ。身体機能はイエライに反して言うことを聞かない。
(リア、駄目だ。結界から出てきては。くそ、声がでない)
機能回復に全霊を傾ける身体に、イエライは苛立った。どうしようもない。
「さあ食べなさい」
ヴォルフが、リアの方へ向く。ぎょろりとその金眼が動いた。
(ヴォルフ。正気に戻れ、お前は本当に望んでいるのか。ただ生きたいと、それだけじゃないのか)
リアの呼吸が、浅くなる。
(駄目だ。駄目だ、駄目だ)
呼吸を必死に取り戻そうとした身体が疲労を訴えている。倦怠感で指先一つ動かせない。イエライの呻きはどうして、声にならなかった。
(誰か助けて)
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