望月1
「ブリオングロード。いい加減にしろ」
青みがかった長い銀髪が、風を孕む。切れ長の隻眼のアイスブルーが、ふと露になる。背の高い男だ。下肢を覆う、腰から下にストンと落ちた裾が広がる布と対照的に、腰から上にぴたりと張り付く訓練服が、彼のしなやかで強靭な逆三角の背中を際立たせていた。以上に膨れ上がった無駄な筋肉ではない。それはしっかりと骨を覆う、必要な筋肉だ。彼が傍らに持つ槍を移動させるたびに必要なそれが反応し、滑らかに動くのがその証拠だ。
彼は周囲を見回していた。彼の氷のような眼は、走り回る不死者を辿っている。
日光を浴びてなお青白い肌、真っ白な髪に、紫の瞳。病的にも見える、線の細い男。体力などなさそうに見えるが、周囲を走り回っても息一つ切らしていない。真っ白な外套は、不自然に風を受けて膨らんでいる。いや、風ではない。ひょろながの体躯が、滑稽なほど腰を曲げているのだ。そしてその男は、その背丈の半分にも満たない小さな子を追いかけている。
「訓練だろォ?逃げ足速ェか、テストしてンだろォが」
「無茶苦茶を言うな、ブリオングロード」
星翼の前にある訓練場の一角。新設された騎士団の訓練を行うための訓練場は、まだ整備が行き届いておらず、所々に草木の生える、ゆるやかな丘だ。
新設された騎士団の指南として、彼がブリオングロードに無理やり担ぎ込まれたのがひと月前だ。来月には帰国する予定にはなっている。帰国前に訓練してほしいと、国王に頼まれて断り切れず、この訓練場で王子と待ち合わせていた。
既に訓練と言えるものではない。子供は息を切らして走り回り、限界が近い。何やら騒ぎを聞きつけたのか、数人の男たちや女たちが上の階の窓などからこちらを覗いている。暫くすると興味を失うものが殆どで、ブリオングロードは構わず追いかけ続けていた。
突如、追いかけられていた子供が立ち止まった。
そこは、回廊の近くに設置された用具入れだ。追い詰められたのか、そこで動かなくなった。
止まった子供を、ブリオングロードが上からつつく。びくびくとしながらも、子供は逃げずに肩を跳ねさせている。
「小動物みてェでオモシれェー」
「その辺にしておけ、ブリオン」
「相変わらずかてェな、ティール」
サクサクと草を踏んで、子供の元へティールが近づく。
その様子を二人の男が回廊から覗いている。初老の男と、若い男だ。侍従ではなさそうだ。双方身なりが立派で、初老の男の方が上質なトーガを身に纏っているから、おそらく議員だろう。
「あれは。護身術ですかな」
「西の御仁は冗談がお好きらしい」
やがて、二人は歩きながら談笑する。
「しかし、なぜあそこに王子まで。まだ3つか4つではないのか」
「そういえば、王妃様ときたら、ご自身の息子を鍛えてほしいと。武官の血が騒ぐのでしょう」
「騎士団の設立も、王妃様が率先して動いたのでしたかな」
「いやいや、それにしても」
「イエライ様は、ご立派ですな。ご自分を犠牲になさってお役目を果たされるのでしょう」
声高に、誰かに聞かせるような響きを持ったそれが、鼓膜に届くのに時間はかからない。
--今、なんといった。
目の前の小さな背中が、震えている。その背に隠れている小さな子供は、憤る。
兄は、聞こえていた筈だ。
遅れて怒りの感情が噴き出る。だが、自分にはどうすることもできない。これは過去の風景に対する今の感情だ。当時はただ、意味もなく首をかしげる程度だった。
これは、夢だ。夢だと分かってなお、苛立った。
なんとも無力で虚しい。
小さな背中に庇われて、兄を助けたいのに足がすくむ。動けない。心臓が出そうなくらい心音がうるさい。だというのに、大人たちは誰も助けず、冷笑する。4つの子供が見たのは、そんな光景だった。
兄は小さな背で、震える足で必死にいるのに。兄は特別ではない。それでも人より優しいから。守られる、それが当然だなんて思っていない。
ならば助けられるようになろう。そう決意した。
『何だァ?弟子入りィ?だりィよ、面倒くせェし。てめェ俺が怖ィんだろォが』
紫の瞳が呆れていたのは、いつのことだっただろうか。
(懐かしいな)
ゆっくりと目蓋をあげる。
石壁の窪んだ部分に腰を掛けて、手足を投げ出してもたれかかる。ひんやりとした石が、アストの体温を奪っていく。
月翼に付随する尖塔の天辺。アウローラの街並みを一望できるその場所。このところアストは、ここで過ごすことが増えた。その端正な顔立ちにはどこか疲れがあり、目元には隈が出来ていた。部屋に戻れば侍従が心配する。どうしようもない。眠れないのだ。
眠ると悪夢を見てしまう。
デイジーを助けられなかった悪夢を。師匠を殺したという化物が倒せない悪夢を。やつらは嗤う。死んだものも浮かばれないと。弱いと。遊んでやろうと。いつかのように悔しく、情けなく、無力だと思い知らされる。彼らがもしまた現れたら、撃退することは難しいだろう。アストには圧倒的に力が足りない。
(このままでは、兄上も)
彼らはマーナガルムと、それを使役するもの。マーナガルムは太陽と月を狙う。よしんば彼らが太陽を手にしたとしても、月を求めないとは限らない。
そして事が起こった場合、兄が消え去ることが望まれていることを知った。兄が、自分の死と引き換えに、国を救うことを。アストはこの事実を、兄が庇ってくれ、心無い言葉を浴びせられていたあの日には知らなかった。奇しくも妹が出来てから、たまによそよそしくなる兄のことが気になって調べたのだ。
そうして、怒りに打ち震えた。
何故誰も教えてくれないのか。本当に大事なことは、誰も教えてくれないのだ。くだらない矜持や対面を保つ言葉だけ無闇矢鱈にまき散らして、その本質を教えないように。噂に尾ひれを付けたような妄言を吐いたりして、肝心なことは伝えない。
兄も何故打ち明けてくれないのか。それは自分が頼りないからだ。だから十分頼れるだけの力をつけたとは言えないが、多少の力にはなれると自負していた。伝えようと伝えまいと、結局自分は力になれないのだから、無駄を省いたと言われればそれまでだ。
(あっけなく、やられたな)
朝日が昇り、キラキラと川面を反射する光が、金色に街を染めていく。尖塔にも光は降り注ぎ、温められた石に、漸く微睡む。この数刻の間だけが、アストの睡眠時間になっていた。瞼は腫れて重いが、閉じるとツキり、小さな痛みを瞳の奥に残す。ぼんやりと、白んでいく空に、何か影が見えた気がした。それは鳥で、人ではない。人ではないと認識して、言葉に出来ない空虚が襲ってきた。
不意に、頬を暖かいものが伝う。
(ダメだ。まだ気が抜ける状態じゃないのに)
無性に胸が締め付けられて、痛む。呼吸がおかしくなる。どうしてだか分からないが、息が詰まる。過呼吸だ。
(師匠)
考えてはいけないと思うほど、脳の大半が彼で埋められていく。記憶の中のそれは、どれも不機嫌で笑っていない。フェルドレの、師の死を伝える言葉が、やけに生々しく耳にこびり付いている。
(もっと優しく出来たらよかった。最後にしたのは喧嘩かもしれない)
記憶の中のブリオンが呆れた顔をする。
『らしくねェ』
尤もなことを宣って、口元を歪める。
何度も反芻するそれに、視界がどんどんぼやけていく。
今日は査問の日だ。泣きはらした赤い目では格好がつかない。イエライを困らせてしまう。緩んだ涙腺を止めようとするが、どうにも自分の意思にそぐわないようで、止まらない。こういう時はどうしようもないままなのか。情けなくてまた涙が出てきた。どうやら延々と思考が負の方向に行くのを止められない。このままでは、情けなくてたとえ死んでも師匠に顔向けできない。
堂々巡りの思考に嫌気がさす。
『全く、あいつらには困ったもんさね』
「え」
止まった。
吃驚して、アストは涙が止まった。こんな吃逆のような止め方があっていいものか。兎にも角にも止まった。
『こんな小さな子を泣かすなんて、後でシメてやろうかねぇ』
ふさり。尾が揺れる。それをアストは目で追う。ゆっくりしなやかな曲線を描いている。
「え?...え??」
見覚えのあるふさふさ。それは我が物顔で尖塔を繋ぐ廻廊の壁伝い、笠木の上をうろうろした。尾は真っすぐ上、には上がらず、のらりくらり左右に揺れる。理不尽なほどふわふわと空中を支配して、やがて、アストの眼前で止まった。
『アスト。今日は蝕だよ。気合い入れな』
「喋ってる!!!!」
もふもふ様が!
思わず走り出さなかったのを、アストは自分で自分を褒めた。マーサが、毛むくじゃらが、喋っている。信じられない。
『ちょっとは元気になったのかね。ああ、酷い隈じゃないか』
ふわりと、光がアストの周りを回った。創生術の治癒だ。頭の芯を穿つような痛みと、ぼやけた思考、腫れて開けにくくなった瞼、身体の怠さなどが、薄れていく。同時に、不安や焦りも、薄らいでいく。
『落ち着いたかい?』
「すごい。ありがとう。マーサってただの猫じゃないんだ」
思考がすっきりして、素朴な疑問が出た。猫のマーサがにやりと笑ったように、アストには見えた。
『どういたしまして。さ、アスト。行くかい?』
マーサは笠木の上で、くるりと来た方向へ方向転換する。来た時と同じようにゆっくり尾を振りながら、歩き出す。アストはそれを慌てて追いかけた。
「どこに?」
泰然と構える猫にようやく追いついて、訊く。
『デイジーを助けにさ』
猫は誇らしく、胸を張った。
返ってきた答えに、アストは心が浮立つのをどこか他人事のように感じていた。
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