夕月3
「ヴォルフ」
なぜその名前が出たかわからない。
アストが不思議そうに、デイジーが怯えたようにイエライを見上げた。
イエライの口からこぼれたその名前に、獣の動きが止まった。明らかに獣は動揺し、足元がぐらついた。イエライが気付いたことに衝撃を受けたせいか。
違う。その体に短い槍が突き刺さっていた。
「殿下。御怪我は」
「大事ない」
涼やかな顔でアリストロの隣に立っていたのはフェンネルだった。いつの間にイエライたちを通り抜け、あの場所まで駆け付けたのか。
「では、仕留めましょう」
何のことは無く彼は袖を振る。袖に隠した短槍が左右一本ずつ、その手におさまる。彼はそれを獣に投げつける。獣はその軌道を読んで避けた。痛々しくも血しぶきをあげながら。最初に受けた短槍が刺さったままだ。
イエライは息を呑んだ。頭がぐるぐると、全く動かないが、あれは前に怪我をしていた場所と同じ場所ではないのか。
フェンネルは侍従が落としていた槍を蹴り飛ばす。飛んだ槍が獣に届くかどうかのところで石突を掴み、更に押し込んで突きを仕掛ける。
回廊の向こうから、黄色い声が飛んできた。侍女達だ。呼び笛を鳴らされた騎士よりも早い到着だ。もとから近くにいたのかもしれない。まるで危機感がない。彼女等の声援が一層高まった。
フェンネルは、獣が避ける先に服に仕込んでいる短槍を投げて獣の気を逸らし、長い槍の柄を掴む。短槍と突きで、それを躱す獣の退路を狭めていく。アリストロがそれに追随する。多少足手纏いにうつるが、獣は彼のせいで動きを制限されているところもあり、地面に広がっていく血の面積が増えていく。
イエライの背中を悪寒が駆けた。
このままでは死ぬ。ヴォルフが死んでしまう。そう意識して、だが。あの獣は、月と太陽狙っている。マーナガルムなのだ。死ななければ自分が死ぬ。デイジーが死ぬ。死んでくれなければ。死んでほしくない。自分の命のために人の死を願うのか。せめぎあう二律背反の感情に、イエライは胸を押さえた。
そうして、疑問だけがせめぎ合った。どうして、イエライは生き延びられたのか。いつ死んでもおかしくなかった。いつでも殺せた。なのに殺さなかった。いつでも殺せるという余裕か。ならば何故、二度と来るなと告げたのか。城よりも森の方が容易かっただろうに。なのに城に再び現れた。それは何故だ。
パズルのピースが繋がっていく感覚に、イエライは支配される。
最初から狙いはイエライではない。二度の襲撃は城でしか起こっていない。いずれも。イエライは傍らを見た。デイジーは震えている。
アストに目配せすると、明確に意図を汲み取ってくれたらしく、開いた扉から退路を確認する。デイジーの部屋は、隠し通路から外に出れたはずだ。
「おお、そなたじゃ。その《陽光》。なんと。太陽も月も無事ではないか。我が眷属ののろまなことか。まだ仕留めておらぬのか」
耳元で響いた声に、イエライは振り返る。それは老人の声だ。掠れたそれが、耳にこびりついた。近くにいると錯覚するほどだ。だが、老人はヴォルフの近くにいた。
「ああ、しかし、まだ成熟しておらぬ。此では食指も動くまい」
本能的な悪寒。汗が吹き出し止まらない、それはイエライだけではなかった。
フェンネルも突如現れた老人を訝かしんで、槍を止めた。アリストロはフェンネルの攻撃の手が止まっては攻めこむことも逃げることもできないのだろう、同様に止まっていた。
老人には圧倒的なプレッシャーがあった。戦闘中の動きを不自然に止めるほどに。老人は獣から離れ、ゆっくりと、着実に歩みを進めていた。
「予定と違うが、よいわ。蝕の日が近い。それこそが我らの求めるもの」
蝕の日。マーナガルムが現れる日。彼のものの力が絶大で、全てを飲み込んでしまうとき。老人はその時こそが相応しいと、恍惚とした表情を浮かべる。
イエライはデイジーの手を取って、彼女を扉の内側に押し込んだ。アストが間髪をいれず扉を閉め、イエライの前に出た。アストは腰の剣を掴み、構える。
「ほっほ。小さな。ひよっこ騎士が二人か」
老人は狙いを定めた。イエライ達の後ろの扉に。その前に前菜があるようだと、舌なめずりをしている。その前に、アリストロが走り出て立ち塞がった。フェンネルがぎょっとして半身引くが、足が縫い付けられたように動かない。
「何じゃこの小童は」
「今度こそ、この俺が」
アリストロは大分息が上がっている。剣を持つ手も震えている。
「お主の相手など我でなくてもよかろう」
「何?!」
「気高き我が僕よ。さあ彼のものを捕らえるのだ」
老人が両手を広げる。その黒い襤褸、おそらくはマントから数匹の狼が現れ、その狼が遠吠えすると鼠算式に狼が増えていく。黒い襤褸から現れた数匹の狼は、あっという間に二十匹ほどの狼になった。
アリストロが冷や汗をかいて半歩下がる。その理由はフェンネルが足を縫い留められたのと同じだ。
フェンネルの場合は底の知れない老人であり、アリストロの場合は狼。アリストロには老人の実力が見極められなかったが、目の前の狼の力量は測れた。その狼を使役している老人の得体の知れなさを、今、アリストロは実感している。フェンネルはそこらの武官より腕はたつが、所詮は文官で、圧倒的な強者に出会ったとはない。アリストロは授業としてしか強者に対峙していない。二人とも、日頃からブリオンの常識外れな力を見ているせいで、自分が敵わない領域がはっきりしているアスト、イーフェと戦場を経験したイエライとは経験値が違う。
「それでよい。賢明な判断じゃよ。しかし、我が下僕はそれでは足りんかものう」
「殿下!」
心的重圧を克服し、フェンネルが走る。狼がアリストロに飛びかかったのだ。格上に対する硬直より、主の生死の有無が上回ったのだろう。
アリストロは剣の腹を盾に、狼の爪を辛くも避ける。それは上出来といえた。初めて生死を意識して、普通は体が固くなるものだ。その中で、一撃を避けれたのだ。しかし、善戦はそこまでだった。一匹の狼が、その剣に食いついた。重くなった剣を持ち上げることが出来ず、アリストロの剣が下がる。他の狼がその隙を見逃すはずもない。彼はそれを避けれずに、幾つかの爪に引っ掻かれる。
フェンネルが袖に隠した槍を投げつける。それ以上はない。短槍が尽きたらしい。彼は手にした長い槍を棒振りのように使って切り込んだ。アリストロから離れた狼は、フェンネルを先に標的に決めた。集中攻撃を受けて、狼の爪がフェンネルに襲い掛かる。
ビデンスはラーレを庇いながら、得意ではなさそうな剣を振り回していた。野次馬の侍女たちも、事体が漸く飲み込めたのか、叫びながら逃げる。狼が逃げる者を執拗に追いかけるほどには興味を示さないことが救いだった。
イエライ達に彼らを助ける余裕はなかった。老人は確実に後ろの部屋に隠れたデイジーを狙っている。扉から離れる訳にはいかない。そして、狼たちはフェンネル達だけでなく、イエライ達にも襲い掛かっていた。
その殆どは、アストによって無力化されていく。だが、圧倒的に数が多い。二十匹程度だと思っていた狼の数は、切り倒しても切り倒しても減ることが無かった。イエライに至っては拮抗するのがやっとで、倒すこともできない。
世界が自分の思い通りにならないとは知っている。だが、デイジーだけは。デイジーが隠し通路から逃げてくれれば。その時間だけは稼ぐ必要がある。
「ふん、ブリオンが居なくてはつまらんの」
老人がなんの気なしに、呟く。アストの眉がピクリと動く。老人はそれを見逃さない。
「ん?そなたブリオンの知り合いか?」
「そっちこそ。師匠の知り合いか」
「なんと。師と。あのブリオンが」
面白いものを見つけたとばかりに、老人はまじまじとアストを眺めた。蚤虱をまき散らす勢いで真っ白な髪をわしゃわしゃと掻く。髪の隙間から窪んだ眼窩、狂気的な眼が見えた。老人が右手を上げる。狼の群れがイエライやアストの周囲から消えた。
アストが怪訝な顔で老人を睨み、横目でイエライの無事を確認する。
老人は上にあげた手を体の斜め下に回し、まるで帽子をとって観客に礼をする道化師かのように体を曲げ、ニタリと笑った。
「我名はフェルドレ。お前の師匠の朋友(とも)。そしてお前の仇だ」
「師匠の朋友(とも)?あの友達の少ない師匠の?信じられない」
フェルドレはアストとの会話を楽しんでいるのか、口元が歪む。
「聞き逃してはいかんよ、若いの。お前の仇といったじゃろう」
「仇?意味が…」
「お前の師匠を我が殺したんじゃよ」
ははははははははははははははははははははははははは。
老人の哄笑がけたたましく響く。空気を振動させ、地鳴りの如く体に響いてくる笑い声だ。実に愉快、愉快と曲げた背をひっくり返しそうな勢いで顔を反らせて、とどまりを知らない。壊れたカラクリ人形のようにカタカタと、骨と皮だけの腰の曲がった老人が体を震わせていた。
アストが目を見開く。信じられないものをみるように。取り落としそうになった剣を握り直し、切っ先をフェルドレに突き付けた。
「嘘を吐くな。師匠はお前より規格外だ。下らん戯言を聞かすな」
「ほっほ。信じたくなければ結構。永き生が、あやつを曇らせたのだ。たかだかマーガの小娘と引き換えに犠牲になるとはのぉ」
小娘。マーガ。その言葉に固まったのは、イエライだった。
「イーフェ、さん…?」
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