夕月2
何度目かのため息をつく。
外はいい天気だ。隣でデイジーが相も変わらずジグソーのピースをはめている。もう終了しそうな勢いだ。
殆ど埋まったその全貌は、友情を描いたものだった。太陽とされる女性と、月とされる女性、星とされる女性が、互いを思いあうといった構図だ。女性たちは、真っ白な衣を身に纏っている。太陽と月が互いに手を伸ばし、その傍らに星がいる。星は両の手を胸の前で組んで祈りをささげている。太陽と月はそれを見守っているように、視線は星に注がれている。太陽と月が手を取り合い歩むとき、星はその輝きを示す、といったことを表しているらしい。
アウローラの太陽の伝説のうちに、そういう絵本があった遠い記憶を朧げに辿りながら、ぼんやり眺める。
デイジーはこれが何の図柄なのかわからないといった感で、もう終了間近だというパズルのピースを片手にうんうんうなっている。
その傍らには、ふわりふわりと尾を揺らす獣がいる。許されるならあの尾を枕にしたい。しばかれてもいい。何故か置いてけぼりの境地というか、無気力になっている。
ヴォルフの怪我の心配をしているわけではない。もうほとんどが治っているのだから、その必要はない。何がこんなに空虚な感覚を引き起こしているのか謎だ。嫌われたからか。
(仲良しという訳でもなかったし。ずっと怪我が治るまでって言っていたし)
自覚が、癒しを求めているのだ。だからもふもふを追いかけたが、にべもない。もふもふにまふまふにされて、何も考えなくてもいいなら良いのに。視界の端でまっふまふが優雅に尾を揺らす。
「おにいさま。さっきからためいき。きがちります」
金の髪を揺らし、デイジーが半眼でイエライを睨む。うんうんうなっていたのはパズルのせいではなく、イエライのせいだったらしい。ジグソーが完成に近くなって、デイジーはアストに、自分でやると宣言した。そういう訳で、デイジーの集中を切らしてはならない。さっきまでイエライが追いかけ回していたマーサが白黒で長毛の尾を揺らして、イエライの傍に来た。と思ったら通り過ぎてアストの足元にすり寄った。理不尽だ。
アストは窓際で本を読んでいた。マーサは相手にしてくれないアストの足をとん、と飛んで、ソファからアストの背後を狙う。そして全体重をかけるように背中を擦り付けた。
「わ。ちょ、マーサ。お、重い!」
アストが悲鳴をあげる。本を読めないと訴えても、マーサは譲らない。結果、アストはマーサに負けてふわふわの毛並みを撫でる刑に服した。
イエライは、仕方なくテーブルに置かれたハーブティーに手を伸ばす。
そういえば、ここにあった法石を返そうと持ち歩いていたが、どたばたで何処かにいってしまった。城の設備品で代用品が保管庫にあると思ったが、似たような石は納品リストになかった。デイジーの部屋にあった邪気祓いの結界は、目隠しの機能と、結界が複数構成されていた。その両方を備えた法石は、かなり希少だったのだ。
デイジーにはどうやって紛失を伝えようか、迷っている。デイジーはイエライが倒れた事件を知らない。箝口令が引かれているからだ。それを頼んだのはイエライに他ならない。あの場にはアリストロもいた。
アストが部屋に訪れる回数が増えた。ブリオンがいなくなったらしい。イーフェに連絡をとろうとしたが、彼女もどこにいるか解らない。頼んでいたことを履行できないほど忙しいのか。否応なしに不安は掻き立てられる。だが、バレリアンは何時も通りだから、二人が何か手が離せないことをしているのだろうと思うより他はない。
「そういえば、リリーに会ったよ」
イエライの言葉に、デイジーの瞳が揺らぐ。
「医務室で働いているみたいだ。デイジーに会えないって悲しんでた」
いつも勝ち気なデイジーには珍しく、動揺しているのか。デイジーは視線を泳がせる。だが、イエライが話していくうちに、徐々に平常に戻っていく。
「リリーはくびにしたの」
デイジーはパズルを指先でくるくると回した。
「どうして」
「よわいんですもの。けがをしてしまうようなひと、こまるもの」
「ねぇ、デイジー。どうしてそんな意地悪いうの?」
デイジーがプイと視線を逸らした。表情が見えずイエライは立ち上がった。
突如、大きな音がして、静寂が破られる。複数人が押し寄せてくる跫音だ。回廊のほうからけたたましく響いて、まっすぐ近付いてくるようだった。デイジーは何かいいかけてやめ、アストがマーサを持ち上げて起き上がった。
「兄上。兄上!」
意外な声がして、三者三様に顔を見合わせる。
その声の主は、普段イエライを避けているはずで、デイジーの部屋になど来たことは無い。乱暴に扉が開け放たれる。金の髪を靡かせてずかずかと部屋の中央部まで来た彼が、後ろから追随する侍従の一人に手で合図をした。
「俺が捕まえてやったぞ。貴方のようにのろのろとしていると、取り逃がしてしまうからな」
合図を受けた侍従が、一人の女性をイエライの前に転がせた。腕を拘束された女性はなす術なく倒れ込む。
「アリストロ。女性に手荒なことは」
言いかけて、イエライは息をすることを忘れた。その明るい茶色の頭が持ち上がり、儚げな容姿が、縋るようにこちらを正面に捉えている。
「ラーレ・クワン」
思わずその名を口にして、イエライはデイジーを背に庇った。
「そんなに機敏に動けるんだな。流石だ、兄上」
称賛とも侮蔑とも取れるような口調で、アリストロはつかつかと進み出た。そうして汚いものでも扱うように、起き上がろうとした彼女を再度絨毯に転がした。
「この女が、兄上に毒を盛った犯人です。この毒婦が。大人しくしていれば捕まらなかったものを」
アリストロが鼻を鳴らした。
「違、違います!私は補充をしていて。あの茶葉を保管庫から運んだだけで…」
薄茶色の髪が振り乱される。絨毯に転がされた女は、首から上を必死に持ち上げるも、彼女の頭は侍従によって押し付けられる。
「言い訳か。目撃者がいると分かっているようだな」
「おかしいわ。保管庫なんて誰でも使うのに、わざわざ目撃なんて。その人が怪しいです」
「撹乱する気か」
「おとなしそうな顔で強かだな」
ラーレの訴えを、侍従達が呆れた顔で見下ろした。
「どうして。私は運んだだけよ!」
地面に這いつくばりながら、彼女は無実を叫ぶ。デイジーが驚いてイエライにしがみつき、アストが険しい表情を浮かべた。
アリストロが連れているのは侍従だけでなく、数人の文官も紛れていて、そのうちの一人に見知った顔がある。フェンネルだ。彼の後ろから、侍従が何やら紙を持ってきて、アリストロに近づいた。紙を手にしたアリストロはふむ、と顎に手を当てた。
「お前が言う保管庫にあった小箱のことだが。今、確認を取りに行ったものから報告が上がった。そのような箱は見つからなかった。当然、先に使うようにというような張り紙などなかった」
「私が保管庫に行ったと証言した人を調べてください!」
アリストロから紙を受け取った文官が、さらに何かをアリストロに耳打ちする。アリストロは頷き、女に向き直った。
「お前は執拗に保管庫というが。俺は、目撃者は保管庫から薬を出したのを目撃したとは、一言も言ってないんだがな」
「え」
「目撃されたのは、お前が、事件後に自分のポーチから茶をすり替えた時だ。その直後に俺達が駆けつけて捕まえたのだから、現行犯ということだ」
そんな、と微かな声を震わせて、彼女の瞳が絶望に染まる。アリストロは構わず続けた。
「残念だったな。室内にあった件の茶葉は、全て別のものに取り換えらえたのだ。兄上が既に倒れたことも知らず、のこのことあの茶をあの部屋に運ぶとは。箝口令を敷いたおかげで、お前が釣れたというわけだ」
アリストロが淡々と彼女を追い詰める。その口調に確固たる意志が宿る。アリストロは、自分が罪人ではないと自ら証明に取り掛かったのだろう。箝口令が出ているが、アリストロは自分が居なくなった後の事の顛末を聞いたのだろう。いらぬ誤解は消し去りたかったのだろう。プライドの高いアリストロらしい。目的ために周囲にある程度情報を広めたらしい。彼が引き連れているもの達はその協力者ということだ。
ラーレのその瞳がだんだんと虚ろになっていることなど、潔白を証明する意気込みの彼にはみえていない。
「侍女たちの噂にも辟易したぞ」
弾かれるように、ラーレが顔をあげる。緊張が全身に伝わってくる。
「気に入らない侍女や侍従の悪口をそこかしこで言いふらしていたらしいな。皆が、お前ならやりかねないと口を揃えていた。ここまで評判の悪いやつも珍しい」
それが決定打だった。
折れた。それが誰の目から見てもわかるように、彼女の身体から強張りが消え、弛緩する。力なく地べたに転がる彼女に、どこからか忍び笑いが洩れる。アリストロが連れてきたもの達の勝利の声なのか、侍女たちの嘲りなのかは分からなかった。
「俺は役立たずではない」
アリストロが、小声で呟く。聞こえなかったイエライが片眉をあげた程度の反応を示す。イエライは兎にも角にも、この騒動をデイジーに見せたくはなかった。回廊から駆け寄るような足音とともに、再び荒々しく扉が開く。
「ラーレ!」
飛び込んできた姿に、アリストロが目を丸くした。吊り上がり気味の瞳に、整った顔は、息を切らして歪んでいる。男の身形は、常ならばその端正な顔立ちに相応しい恰好をしている。しかし彼の糊のきいたシャツは汗でまだらになり裾が乱れ、艶のある上着が無残によれて皺が出来ている。
「ビデンス。どうしてここに」
「ラーレ、ああ、私が来たから安心なさい」
転がされたラーレにビデンスが大股で駆け寄り、かき抱く。ラーレの表情が緩む。だが長くは続かなかった。侍従によってビデンスとラーレは引き剥がされたからだ。引き下がることなくビデンスはラーレを庇おうと侍従を跳ねのける。アリストロの目が迷いの色を帯びた。
「まさか、そなたの知り合いなのか」
「ええ。私の妹です。殿下、何かの間違いでは。我が妹は臆病で、そのような大それた真似ができるとは思えません」
ラーレを背に庇い、ビデンスはアリストロに平伏する。髪を振り乱し、いつもの気取った態度はない。それは恭順を示している。対立するように見えた彼は、行動一つでそうではないと周囲の侍従に悟らせた。侍従だけではない。アリストロもそうだった。彼のプライドがそうすることも厭わないほどに、妹を按じている。それだけで十分、アリストロは動揺していた。最初にラーレを裁こうとしていた勢いは、すっかり削がれてしまう。
「だが」
「査問を開いたらいいじゃないですか。その間お嬢さんは塔に待機してもらえばいい」
アリストロの後から、フェンネルが現れる。穏やかな瞳は、こんな時にも変わることなく静かだ。フェンネルは敢えて査問で待機という言葉で、ラーレが咎人でないこと、塔であれば牢とは違い、暫くは無体なことをされないと仄めかす。
ビデンスは少しムッとしたが、大人しく従うことにした。ラーレに手を差し出し、隣に立つ。退室するアリストロに、ビデンスはラーレを伴って、気遣いながら歩を進めた。
その後ろ姿を追いかけようとして、イエライはデイジーに手を握られた。戸惑い振りかえると、彼女は首を横に振った。行かないでくれとも、もうどうにもならないとも、訴えているようだ。
「何だあれは」
不意に、アリストロの従者の一人が、声をあげる。それを皮切りに、ざわめきが広がる。部屋の外だ。ものものしい気配がする。
アストが武器を片手に部屋の外に飛んで出た。イエライもデイジーを連れたまま、外に飛び出る。
一番デイジーの部屋に近いところに居たのは、ラーレとビデンスの傍らに控えるフェンネル。他のものはいなかった。侍従らはもっと先にいた。イエライはその前方を確認する。中庭だ。アリストロを先頭に、侍従たちが何かに向き合っている。
それは、巨大な狼だった。深い藍色の艶を持つ青銀の毛並みが風に靡く。その瞳は月を思わせる白金。それは、あの月夜に見た、ブルーグレイの美しい獣に違い無かった。
その姿は闇夜のように暗澹たる、昏迷なる晦冥。
無慈悲で傲慢、巨大で尊大な、秩序の破壊者。
恐怖の化身であり具現。
「マーナガルム」
思わず、口をついてでた。イエライの背後でデイジーが凍りつく。マーナガルムは、全てを飲み込む。そして、太陽と月を。イエライは妹を背にかばう。あの時の獣は、マーナガルムだった。ならば、狙いはわかりきっている。デイジーだ。そしておそらく、イエライも。
息を呑む二人の前に、アストが立った。二人に振り返り、心配いらないと口角をあげる。
最前線で獣に向き合っているアリストロは、ゆっくりと剣を抜いた。
「俺は兄上のように逃げたりはしない。このアリストロ、貴様を成敗してくれる。そして、この俺こそが有用であると証明してみせよう」
アリストロの言葉に、わあ、と侍従たちの歓声が上がる。そのうちの一人が騎士を呼ぶ特殊な笛を吹き、アリストロの両脇に槍の三人が控えた。剣を持った残りは獣を囲むように布陣した。
「はああああ」
一人が切り込む。
しかし獣の動きは素早い。一蹴で包囲網を難なく突破する。飛び上がって、円陣の外へと容易に抜け出す。その上で廻廊の壁を蹴り、背後から侍従を襲った。二人が倒れた。獣が縦横無尽に布陣をかき乱す。
負けじと侍従たちも剣で防戦し、崩れた陣を整える。一合、二合と剣戟が続くが、それは決定的なものではない。寧ろ獣の素速さに彼らは翻弄され、疲弊していく。それでも再度獣を囲うと、八方から剣で狙う。
獣が咆哮し、雷鳴が轟いた。地面を穿ったそれは、侍従たちの足元を蹂躙し、一気呵成に殆どのものが倒れた。
「あ…」
デイジーが呟く。
十人ほどいた侍従が倒れたのだ。死んだのか、ピクリとも動かない。あまり外に出たことがないデイジーには刺激が強すぎる。アストにはそこまでの動揺はなく、駆け寄ることもしない。そもそもアストはイエライを守るためにいると自負しているから、二人の傍から離れず、状況を静観している。
アリストロの手元に残ったのは、たった三人の従者だ。倒れた侍従が剣を持っていたのに対して、彼らは槍を持っていた。そのため、少し獣から離れたところにいたのだ。それだけのことが明暗を分けた。果たしてどちらが幸せなのかは知るよしもないが、何にせよ、彼らは体制を立て直すべく動いた。
一人の従者が地面を蹴る。左右に別れて挟み撃ちするつもりだろうが、明らかに劣勢にみえた。
リーチの長さと遠心力、そこから繰り出す突きが売りの槍。簡単にその間合いの中に入り込む素早い獣に対応できるか。
槍は容易い武器ではあるが、練度をあげるのは難しい。剣より強いといわれながらも普及しない点は、その素早い返しを繰り出し、活かせる人間が少ないからだ。イエライが知るところで、獣の攻撃を無力化する、その条件を満たしているのは《千槍》と呼ばれた男だけだ。一突きで千を穿つ、西大陸イニティウムの《軍神》。だがそんな稀有な存在を、東大陸、その中で最も帝国として機能するアウローラでさえも有していない。
元々マーガとの共存関係にある、マーガの守りが強いアウローラ。妖精の祝福に胡座をかいているところもあり、自警団や騎士団を設けるのに積極的ではなかったため、その歴史は浅い。ましてや軍人とは違う侍従の集まり。しかし、侍従とて戦闘訓練は必ず受ける。突出した存在がいないとはいえ、訓練は怠ってはいない。気概は兼ね備えている。
臆することなく彼らは獣に構えた。
「やあっ」
それは、急拵えの連携にしては洗練されていた。従者が何度か突きを繰り出す。弾ける刃物と牙の音に、周囲が緊迫する。何度目かのそれで、彼の渾身の突きをかわし、地面に刺さる。それを引き抜くより前に、獣が槍を折った。
穂先を失った槍を棒振りのように回し、構えた侍従は、しかし、それ以上動けなかった。後ろにアリストロがいる。彼の足を地面に縫い付けたその迷いは、そのまま構えに出てしまっていた。彼は獣の体当たりを食らって柱に激突する。その勢いで、残りの二人も無力化されてしまった。
つい、と、不意に獣の目がこちらをみた。白金の瞳が、揺れている。
獣は、アリストロの包囲網を簡単に潜り抜けた。突破してイエライ達を何時でも狙えるはずだ。8日前。初めの襲撃の時、デイジーを狙って失敗した。それで先に護衛を倒しておいて、こちらを後で狙う腹だと踏んでいた。
だが違う。
その澄んだ瞳は見覚えがある。
既視感。
淋しそうな、不器用な、この瞳を、イエライは知っている。
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