夕月4
「そうそう、今際の際にそう言っておったの。はて、そなたは」
老人が何か思案する。イエライはその思案に全く神経が回らなかった。
何かが全身を駆け回る。ぞっと背中を駆け上がって、焦りと空虚だけが脳内を行き来する。
二人が居なくなったのはいつだった?音沙汰がなくなったのはこの老人のせいだったのか?なら、今時間稼ぎをしている意味はあるのか。あの二人が敵わない相手に、向かっていくのは勇気なのか。
過ったのはイーフェの言う最悪のシナリオだ。ロヴァル王がいなくても、他の皆は生き残れるのか。その未来にはイーフェやブリオンがいなかったなど、聞いていない。
「そなたは《月》か。ならばヴォルフガング。相手をしてやりなさい」
漸く思いあたった、フェルドレは満足そうに獣を手招きした。黒い靄がかかり、獣がイエライの前に顕現する。靄が、獣の出血を抑えているようだ。
「兄上に、近づくな」
「そなたの相手は我じゃろう」
アストが獣に切りかかるが、フェルドレが老体とは思えない速度で間に入る。アストの舌打ちに、フェルドレは狂喜の声をあげた。
「感じる。そなたは良い。絶望が染み付いたその目。ほれ、師の仇じゃぞ。気合いを入れて切れ」
「師匠は死んでない」
一合、二合と斬り結ぼうと繰り出すアストの剣を、フェルドレが障壁で防いでいく。次々と間髪を入れず仕掛けるが、全く相手の態勢を動かせない。
「いかな不死者と謂えど、五体を引き裂かれては生きてはおれん。どうじゃ」
「そんな状態、師匠が許すとは」
「いったじゃろう。小娘と引き換えたのじゃ」
相手に積極的な攻撃の意思は薄い。心理戦を仕掛けられているのだ。アストが言葉につまる。動揺から、攻撃が止まる。態勢を立て直して剣を振るうが、それは精彩を欠いていた。それが隙になり、相手に攻撃の機会を渡すものだと気づいたアストは、我武者羅に攻撃を仕掛けるのをやめた。基本の構えをして、相手の出方を窺がう。
「必死にしがみついて、奮い立たせておるのであろう。たまらぬ。砕けるのが愉しみだわい」
恍惚と、フェルドレが舌なめずりをする。その異様さに、アストは飲み込まれつつあった。次の一手を、隙なく繰り出せる自信がない。その時に相手が出すものが何なのか、アストは懼れた。心理戦であれ攻撃であれ、避けることが出来るか。先ほどのように、中途半端に攻撃の手を止めれば致命的な隙になるだろう。アストの剣技は、絶え間なく繰り出す攻撃に特化している。力がない分、連続技で相手を翻弄することに重きが置かれているのだ。防御からのカウンターはあまり得意ではない。だというのに完全に防御に回って動けない。明らかな不利だ。
二人の衝突の近く、足取り重く、獣がイエライに近づく。
「ヴォルフ」
獣が足を止める。不思議そうにイエライの方へ鼻先を向け、一つ、吠える。それは決別の儀式のようでもあり、イエライは眉を寄せた。
「お前は、マーナガルム、なのか」
人語を期待している訳ではない。だが、聞かずにいられなかった。最初からイエライを狙う気がなかったことも、その後おとなしく治療されたことも、今となっては全てが理解不能だ。だが。あの法石の起動を嫌がった理由は分かった。あれは、結界だったからだ。彼を寄せ付けない結界。
ヴォルフは暫し沈黙していた。それでもイエライは静かに彼を窺った。獣の姿をしているのに、何故かヴォルフの表情が読めた。彼は、迷っている。だから、イエライは待ちたいと思った。
『…太陽を食べずに生きてはいけねぇ。飢えが日に日に迫ってくる』
心臓を、鷲掴みされた気分だった。これは、既視感だ。
『ずっと、ずっと飢えてんだ。前は…ドラセナが、自分を食べろと。それで封印されて。俺の飢えは消えねぇ。何もなかったように腹が減る。食べ物と違う、飢えが襲う。渇きが喉を焼き、脳を喰い破ってきやがる。喰いたくて喰いたくて仕方ねぇ。喰わない限り繰り返すだけだ』
ヴォルフのそれは、慚愧の念にかられてというよりは、何かを吐露するためだけに紡がれた。
誰に聞かせようとしているものでもない。ただただ堂々巡りをするこの苦しみの出口を求めている訳でもない。彼の中で、答えに到達している。やるせなさが、こぼれ出ているだけなのだ。
ヴォルフの飢え。それは、死が迫る感覚に似ている。抑えようとして抑えられない。恐怖の塊のような、不安のような、漫然としたそれが、ヴォルフを支配し、塗りつぶそうとしている。
彼が到達した答えを、イエライは知らない。抗いたいのか、どうしたいのか。
「ドラセナさんは、何を願ったの?」
太陽と月の痣を持つもの、妖精の祝福を受けたものには、特殊な能力が身に付く。犠牲の月と呼ばれるのも、そこから来ている。《月》は、自分を犠牲に、一つだけ願いを叶えることが出来る。
ヴォルフの言い様は、どこか親しいものを亡くしたかのようだ。ならば、ヴォルフの苦しみを取り除きたい。そう、ドラセナは願ったのではないか。その結果、ヴォルフは救われていないが。
『そうだ。ドラセナは最も残酷な手段を使った。だから、俺は』
金の目が、確かにイエライを射ぬく。
『今度は、そんなことさせねぇ』
そして牙を剥き出しにし、飛びかかる。イエライはとっさに身を屈めた。風が空を切る。肌に感じた風圧に、足が震える。喉の横をヴォルフが掠めた。イエライの喉仏を喰い破ろうとしていたのか。だが。
「何を遊んでおる。ヴォルフ。情でも移ったか」
イエライはただ、攻撃を仕掛けたとしか思えなかった。しかし、飛びかかった勢いのままイエライから離れたヴォルフに、フェルドレは誤魔化されなかった。
イエライはそこで思い当たる。イーフェが授けた守りは作動していない。イエライ自身が避けたというよりは、彼が狙いを外していたのだろう。
「ヴォルフ」
聞いてくれている。フェルドレの言葉が正しいのであれば、イエライは伝えたいことを伝えるべきだ。
「探そう、一緒に。飢えをなくす方法を。喰らう以外にも方法を探してみよう」
ヴォルフは、《月》の能力を使うことを望んでいない。なら、自分に出来ることを。
光に透けて金になる青灰色の目は、森の中で見たときと同じように澄んでいて穏やかだ。少し意地悪を言った後に、こちらを窺がうあの目と同じだ。イエライは手を伸ばす。ヴォルフの鼻先を指先が掠める。
「ご無事ですか?殿下、フェンネル殿!」
怒号と、金属音が雪崩れ込んで、空気が変わる。中庭に兵士がなだれ込む。彼らは狼と交戦を開始した。次々に回廊から雪崩込み、軍靴の音が地鳴りのように響く。
ヴォルフは飛んでイエライから離れ、指先は彼に触れることなく空を切った。
「ここは私が抑える。先に行けジュビリー」
「任せたぞジュード。わたしと共に第一小隊は付いてこい!行くぞ!!」
ジュビリーとジュード。イエライが幼いころ、ブリオンが西大陸の当てを頼って設立された騎士団がある。その当初からある第一騎士団の筆頭だ。その騎士団が狼を蹴散らし、あっという間に制圧していく。アリストロとフェンネルが救出され、介護班が倒れた侍従に駆け寄る。
「なんじゃ、大事になってきたのぉ。興がさめたわ」
飄々と襤褸を翻したフェルドレが、つまらなそうに呟く。
「貴様の余裕もここ迄だ」
「ほんとに可愛らしいのぉ。ブリオンが生きておったら、そなたの健気さに咽び泣いておろう」
かっとしてアストが剣を振りおろす。そのまま突きを繰り出したが、フェルドレの纏う襤褸が生き物のように蠢いてアストの鳩尾を抉った。勢いのまま空中に投げ出されたアストが壁に激突する。強かに背を打って、アストが呻いた。
「う…」
「愉しい時間を邪魔されてしもうた。またじっくり遊んでやるから死ぬな、小僧」
「く、そ」
「だがのぉ。ただでは帰らん」
フェルドレが目を光らせて、回廊を一瞥した。騎士たちが飛び出してきた、その場所だ。そこには人だかりができていた。彼が見たのは、その奥。
ジュビリー達に隠れて気付かなかったが、そこには小さな影があった。まさか、とイエライは目を疑った。其処には逃がした筈のデイジーがいたのだ。デイジーは隠し通路から出て、騎士団を誘導して戻ってきたのか。
「デイジー!逃げて!!」
「遅いわぁ!」
いうが早いか、フェルドレが地面を蹴った。遥か頭上高くに飛び上がり、人間の身体能力を越えた跳躍力でデイジーに迫る。その傍らには彼が呼び寄せた狼。それに混じってマーナガルム、ヴォルフの姿もあった。
「デイジー!」
アストが立ち上がれずに、叫ぶ。
デイジーは震えながら。
だが、受け入れるようにそれらを正面から迎え。
「姫様!」
「リリー!!ダメよ!」
リリーがその前に飛び出した。両手と小さな体、全てを使ってデイジーを後ろに庇う。
フェルドレが嗤う。
リリーは目をつむった。怖かったからか、その瞬間が来るのを耐えるためか。そして歯を喰いしばった。助けてほしいと、願った。自分が死んでも良い。そう願った彼女を、光が包んだ。
フェルドレが目を剥く。狼達が光に焼き消されていき、フェルドレとヴォルフだけが残る。それでも光は消えない。
一層目映い光が辺りを覆い。
彼女達は消えてしまった。
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