薄月1
「時は満てり。来るべき蝕に、太陽と月は食らいつくされ、新たな世が始まる」
茜色に染まる空の下、白髭と見分けがつかぬほどの白髪をボサボサに振り乱し、腰を曲げた老人が仰け反る。
かっと見開いた両目は白く、鬼気迫る様相を呈している。黒い襤褸、恐らくはマントを纏い、首と両手首に金属製の輪を身に付け、爪は細く長く延びている。不健康そうに曲がりへしゃげた爪は所々変色している。両の手は顔や首よりもひどいしわくちゃで、細い。その細い手と同様に細い足がよろめいた。
老人の足元には割れた岩とその破片がある。それらを踏みしめて、老人は歩く。
「我が至高の芸術を知らしめる、その時がきたのだ」
小さな庭園だ。彼は嘲る。ちゃちな噴水のくだらない彫刻達。全ては自分の芸術作品を飾る彩りに過ぎない。それらに手を翳そうとする。
そこに、透明の、薄い膜がかかった。
「やはり貴様が復活していたか」
振り向くと、長い黒髪の女が砕けた岩の上に立っていた。いや、正確には浮いていた。緩く波打つ髪が、風を受けて舞う。深い青の瞳が、老人を見据えていた。
それを見上げ、老人は曲がった腰を持ち上げる。
「なるほど。守護のマーガか」
老人は髭を弄る。手持ち無沙汰なのか、緩慢に。
「こちらの目的は解っているのであろう。貴様にはここでおとなしくしてもらう」
女が両の手を開いてなにかを紡ぐように動かし、老人の周囲にある薄い透明の膜が揺らめいた。結界か。老人を閉じ込めようとしているらしい。
「殺す気ではなく捕まえる気でいるとは、笑止」
口の端を針金のように薄く歪な曲線を描きながら、老人は狂喜を孕んだ目を女に向けた。極限まで開かれた目がおぞましくも女に絡んで、彼女は一瞬怯んだ。
それは彼女らしからぬ焦りだった。
常ならば、彼女は挑発を片っ端から潰していた。常ならば、挑発が起こる前に勘のようなもので粉砕していた。だが、今回は全てが後手に回っていた。何が原因かは解らない。いつものような野性的な判断力が、彼女から明らかに欠落していた。
だから、彼女の一手よりも、老人の一手が先制した。老人の一手には、一切の迷いがなかった。
「我が復活の礎となってもらおうぞ。押しつぶされて、細切れになるがいい」
「な…」
老人の背後に暗闇が広がった。そして両手の金属が光った。
黒い枠が4つ、周囲全体に広がって、彼女は何もできなかった。枠は彼女の浮いた空間、立方体のように四方を囲い、それぞれが五目盤となり、収束していく。
焦って身を捩るが、空間が固定されているのか、全く足が動かない。足が空中に固定されているようで、さらには黒い枠が徐々に狭まってきていた。五目盤に触れた彼女の衣服が鋭利な刃物で切られたように一瞬で細切れになる。腕を引くが、それ以上は動けなかった。
かさり、音がした。数日前にイエライから渡された袋から、紙が切り刻まれることなく、地面に落ちた。
その時、彼女の肩に何かがぶつかって、脳が揺れる。次いで身体に衝撃が走った。気がつけば地面と、落ちた紙が目の前にあった。彼女は瞠目する。全身を襲った痛みは、地上に打ちつけられたせいだった。彼女を覆っていた黒い枠は見えなくなっていた。すぐに半身を起こし、痛む頭を押さえた。
「随分年をとったなァ、フェルドレ。気が短ェよ」
「ブリオングロード。夢幻の存在か。ふん。意外なものがかかったわい」
彼女のいた場所に、見覚えのある白い外套がある。ブリオンだ。彼によって下に叩き落とされていたらしい。だが、四方に張り巡らされた五目盤は、更に天地にも張り巡らされていた。
ブリオンは神器を滑らせて、五目盤に当てていく。ものすごい勢いで神器が弾かれる。だが、一切音がしなかった。砕けたと思われた五目盤は、しかし、傷ひとつなかった。
「無駄じゃ。その神器ではな。それは分解できんぞ。原子や量子単位での1の存在なのじゃから」
老人の余裕に、女の瞳が見開かれる。
ぐるり、老人は首を回した。女から困惑、焦燥、衝撃。素直な負の感情が見てとれて、フェルドレと呼ばれた老人は狂った笑みを深めていく。
「ほっほっほ。良い顔だの。こうしてみると何とも美人さんじゃあ!我がもう少し若ければペットに欲しいのぉ」
「うっせェなァ。これだからお年寄りはよォ。人の話を聞けってェ」
機嫌を良くしたフェルドレに、ブリオンが冷たい紫電をはしらせる。老人はその殺気も気迫も、懐かしむように味わった。
小雨が降り始めていた。
静かに地面を穿つその水音が、波紋のように広がっていく感覚に、老人は鬼気とした心を静めていくようだった。
「気長に、のお。貴様がかかったのなら、積もる話もあるからの」
「俺ァねェんだがなァ」
ゆるゆると狭まっていく黒い枠の動きが止まる。フェルドレが、ブリオンの傍に立った。
「貴様が死を恐れるとは思えんが、じわじわと死ぬのはどうかの」
そういうと、フェルドレの思惑を感知してか、狭まっていた枠が元の大きさに戻る。
ブリオンは顔色一つ変えず、少し広くなった枠のなかで胡座をかいた。寛いだ状態で、退屈そうにフェルドレを見下げる。
「誤解しているようだがなァ、フェルドレ。俺ァこれでも愉しく生きてンだ」
フェルドレの片眉がピクリとあがり、表情が抜け落ちる。白目が回転し、渇いた笑いが落ちる。
「ほ。貴様、腑抜けたか。よもや生に固執するとは。この何百年かがそうさせたのか?」
「じいさんは相変わらず。どんだけ寝てたんだァ?こンなヘンテコなモン創りやがってェ。ステージだの蝕だの、夢見てンなァ。暇人過ぎるだろォ」
挑発するように、胡座をかいたままブリオンは黒い枠を神器で弾く。
「量子単位のものを拡張しておるのだ。それはそれ以上分解できん」
「量子が膨張ォ?物理法則とか徹底無視かヨ」
神器の攻撃を受けて、びくともしない。先程同様、破壊できないことに何の感慨もないブリオンは、流れるように神器を懐にしまった。
「我が成果が世をひっくり返す。愉快ではないか」
「古臭くねェか?終末とか改変とか、改革とか」
頬を掻くブリオンに、フェルドレは大仰に手を振り上げた。
「おお、時の流れとは残酷な。我が同士は消えてしまったのか、期待はずれだの」
「ひでェな」
ブリオンが鼻で嗤う。フェルドレはわずかに眉を動かし、つまらなそうに視線を巡らせる。その先に目に留まったものに、フェルドレは足を鳴らして近づいた。
「そうさのう。絶望の体験は、そちらのお嬢さんに手伝って貰おう」
にい、とフェルドレは口角を上げた。
「イーフェ」
ブリオンのその声に、地面から身を起こした女、イーフェは構成していた妖精術を行使した。小さな転移だ。だが、数回に分けて仕込んでいるから、かなり距離は稼げるだろう。
老人が面白くなさそうな目を向けたが、それだけだ。すでに彼の興味はブリオンに移っていた。
(さァて。どうするか)
イーフェは逃げた。ブリオンの神器では、この檻は破れない。神器もどき。そう、ブリオンは呼んでいた。あるものを材料に使って、神器同等の力を引き出すのだ。かつてフェルドレが紹介したそれは、こんな完成されたものではないものではなかった。この檻には程遠い出来で、すぐに壊れていた。
この技術は、封印されている間に完成させたのか、その前から完成していたのか。
「不死者も今では貴重な実験体じゃからの。とは言っても我の研究施設は、今は湖の底のようだしの」
フェルドレがニタニタと腕輪をさする。ブリオンを囲う黒い枠が動き始めた。
フェルドレは量子力学や生化学を研究していた原生人だ。多くの精霊や妖精を対象にし、己の欲を満たしてきた。いくら老いてもその探究心は揺るがない。不思議なのは、原生人は短命である筈なのに、老年期に入ってからの彼は、一向に衰えていないということだ。
(ティールならぶち破りそうだがなァ)
懐かしいしかめっ面が瞼の裏に浮かんだ。走馬灯とは縁起が悪い。ブリオンは紫の瞳を細めた。
「で。何して遊ンでくれるんだァ?」
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