黄昏月1



「随分続くな」


久しぶりの大雨に、ヴォルフは呟く。

いつもならその辺を一周して、鈍ってないか確認するのだが、こう強い雨だと躊躇われた。雨の中で動くのもいいのかもしれないが、後始末が面倒だ。

昨日、イエライは来なかった。無理もないことか。完全に委縮していたし、昨日からこの大雨だ。これ幸いと、見捨てられてもおかしくはない。いつかくる別れが、殊の外自然に訪れ、あっさりとしていて禍根があったのかもわからない。

これが自然消滅というものだろう。


(思ったより平気だな)


イエライの置いて行った食料に張られている結界は、どうやら雨をしのげるらしい。その付近にいれば濡れることは無い。折角濡れずにいれるのに、わざわざ体を濡らして体力をそぐのは得策とは言えない。怪我の治りに影響すれば元も子もない。計画に支障をきたす。といっても計画などあってないようなものだが。

食料が来なくなるということは、それこそ計画的に飲み食いする必要もある。

猫の鳴き声がした。

見ると、ヴォルフの隣でちゃっかり雨宿りをしている猫がそこにいた。猫は、怖れることなくヴォルフの膝に乗った。


『安心しろ。いつもの通り、食料をもらいに来てやっただけさ』

「偉そうだな」

『貴様よりは偉いからね』


猫の偉そうなものいいに、今さら何をおもうでもない。が、純粋にこの猫は何なのかが興味が沸かないでもない。


「何もんだ」

『まあ、いつも食事を共にしているよしみで教えてやろう』


猫が背を仰け反らせる。


「てめぇ、人の飯かっぱらっといて言うセリフか」

『フン。わかってないね。それはアタシのものだ。あの子がアタシに差し出すものを、貴様に分けてやっているんだ』

「はぁ?」


猫が男の膝から降り、ふるりと身を震わせた。

猫の身体が光りだし、大きく広がる。それがイエライより少し大きめになると、膨張をやめ、光が収束していく。


「猫なんておかしいと思ったら、マーガだったか」

「ふん。貴様に云われとうない」


漆黒の、長いストレートの髪の女。身体を覆うローブはゆるくふんわりしていて体の線が良く解り、妙齢の女性の姿をしている。独特の雰囲気を持ち、尊大に振る舞う。それは若輩者のそれではなく、百戦錬磨のそれのような安定感がある。


「しかも婆さんか」

「言葉は慎みな。たかだか150歳なだけさ。それにしても…やはりあいつの影響さね。アタシの本質が見えるなんてね。今からでも遅くない。考え直したら?」

「俺はあの人に従うしかねぇからな」


ヴォルフが自嘲気味に笑う。


「従った先が、地獄でもかい?」

「そうしなけりゃ、生きられねぇからな」

「生きてどうする」

「わからねぇ。まだ決めてねぇ。だが、この呪縛から解放される。解放されりゃあ、自由だ。自由がありゃあ、何でも出来るんだろ?なら、俺は生きてぇ」


猫だったものが、瞬いた。きつく見える眦が下がる。


「...そうだな。そうだった。貴様が諦める訳にはいかないんだったな」


猫だった若い女だが中身は老女が、感傷的に呟く。


「で、悪いんだが。あいつが来なかったの知ってるだろ。だから、てめぇにやる余裕がねぇ」

「何?!貴様、独り占めする気か!」


言い終わるか終わらないうちに、かつて猫だった若い女の外見をした精神は老女が、ポン、という可愛らしい擬音と共に、猫に戻る。ついでにシャーと喚いて地面に爪を立てている。


『食い物の恨みが恐ろしいことを、まだ知らんようだな、若造』


研いだ爪を見せつける猫。


「今まで気前よくやってただろ。引けよ、ばあさん」


猫を相手に恵まれた体躯を見せつける男。

にらみ合う両者は一歩も譲らない。


知っているのだ。

あの肉の、かぐわしい香りを。

一口はんだ時のえも云われぬ柔らかい肉質を。

これが本当に干したのかと疑うほど、赤身肉の質感をここまで保ったまま保存できることに、文字通り舌を巻いている二人なのだ。

半分は法石によるものだと分かってはいるのだが。だが、素材が悪ければ、きっとそうでもない仕上がりになるのだ。その証拠に、この猫がこだわっているに違いないとヴォルフは確信を得た。


『生肉はまずい!!』

「そこかよ。うまい生肉もあるぜ」

『嗜好の問題さね』


猫の叫びは悲痛なものだった。ちょっと外れた予想に、男は転けそうになる。

気を取り直し、男は構えた。

猫も身を低くする。


「どうやら」

『やるしかないようだねぇ』

「どっちが勝っても恨みっこなしだ」


今、目の前の飯をめぐった戦いの火蓋が切って落とされようとしていた。

先制は猫のパンチ。男は飛びかかってきたそれを半身ずらしてかわす。ついで男が右手を突き出すと、猫は尻尾を振るってバネのように避けながら男の脇腹に突っ込んだ。男はギリギリで避けるが、脇腹の布地には爪で引っ掻いた跡が残った。

雫がぽたり、ヴォルフの肩に落ちる。それを皮切りに再び接近。数回の殴打のやり取りをかわしながら、男が後方に飛んで距離をとる。

そして再び両者は睨み合いーーー。


「ごめん、ヴォルフ。昨日は来れなくて...ってマーサ!」


ヴォルフの顔が曇った。苦虫を嚙み潰したような面持ちに。

猫は一目散に、というかイエライにまっしぐらに飛び付いた。そして甘える。ゴロゴロ喉を鳴らす。イエライに抱えられて、長毛のふさふさが満足げに目を閉じ、偉そうに髭がむふう、と揺れた。そしてチラリ、とヴォルフを一瞥。すぐに興味なさそうにして尻尾をイエライの腕に絡ませた。


「マーサ。良かった、今日は機嫌がいいね」


マーサと呼ばれた猫が喉をならして伸びをする。


「お前の猫か」

「いいや。妹の猫だよ。漸く見つけた。あ、昨日は来れなくてごめんね。今日の分のご飯、結構豪勢に持ってきたよ」


イエライはいつも通りに、何事もなかったかのように持ってきた大荷物を解いて、野菜やソーセージを木に吊るしていく。


「何で来た」

「え、っと。…足?」


問い詰めるヴォルフの気迫に、イエライはふざけた回答をして目を逸らす。

ヴォルフの目が笑っていない。目どころか顔全体が笑っていない。気まずい沈黙が落ちて、いたたまれなくなったのもまた、イエライだ。


「わかった。謝りに来たんだ。僕がヴォルフの気に障ることをしてしまって。昨日詫びに来るつもりだったんだけど、色々あって」

「違う。俺が怖くないのか」

「へ?」


イエライが間の抜けた声を出す。ヴォルフは苛ついた。


「あんなに怯えてただろうが」


口にして、ヴォルフは胸がムカムカとしてきた。自分が気にしているのに、イエライは全く見当もつかないのか首をかしげる。


「なんのこと?」


案の定、想定内の答えで、ヴォルフは舌打ちした。イエライはそれも大して気にもしていない。

みゃあ、催促のように猫が鳴いた。ヴォルフには目的を忘れるな、ということを猫が言っているように思えた。


「いや、そんなの。ヴォルフに初めて会った時の方が酷かったよ」

「そんなわけねぇだろ。だから俺はお前がもう来ないと」

「だから違うって。僕も都合の悪いこと隠しているから。なのに、ヴォルフばっかり追及して責めちゃうようなことしてたよね」


ヴォルフの眉間に皺がよる。


「それに、邪気を払う結界なんて、完全に押しつけだ。ヴォルフが許してくれているから、つい調子に乗って、ヴォルフの境界線を越えちゃったから」


イエライはもごもごと口ごもりながら上目使いにヴォルフをうかがう。ヴォルフは、う、と唸って腰を引いた。雲行きが予想と違う。


「で、昨日来れなかったのは、完全な体調不良だから!」


イエライの必死な目に、ヴォルフはたじろいだ。

警告。

駄目だ。イエライが嘘を言っているようには思えない。信用してしまっている自分がいる。イエライの言葉に完全に安心してしまうなんて。このままではいけない。

猫がこちらを複雑そうに見ている。その金の両目が伏せられた。

今が、選択の時だ。


「もう帰れ。それと、二度とここには来るな」


ヴォルフはイエライに背中を向ける。あの目を前に、決心が揺らいでしまいそうだったからだ。


「でも、怪我は」

「治った」


ぶっきらぼうにヴォルフは吐き捨てて、木の上に飛び乗った。イエライの姿が見えなくなるまで、滑る木を難なくのぼる。

雨がしぶしぶ降って木の葉から次々と落ちる。肩がしとどに濡れていくのも構わず、暫くそうしていた。雨の音だけが鳴る。その音も地面に消える。

雨音のように、イエライが知らぬ間に去っていけば良いと願う。


「やっぱり、許してくれない、かな」


空耳かと疑いそうになる、小さな声。

揺るぎそうになる。今、ここから飛び降りて引き留めれば間に合う。

そうすれば、手が届く距離にある。だがそれでは、誰も何も得るものがない。自分に待つのは破滅のみだ。一時の快楽に負けて全てを失うのは、誰も求めない。


「帰れ」



止めのように告げる。


小さな足音が、木々の間に消えていった。

寂しげな猫の声が、閑かな森に響いた。



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