孤月3


「ここにいたんですね、リリー」


先に口を開いたのは、イエライだった。

臣下である彼女から話しかけるのは無礼な場合がある。ノーリに任されたのだから、治療を理由に彼女から話しかけることも出来ただろうが。


「あ、あの。私、もう大丈夫だから仕事に出ようと思ったのですけれど、デイジー様が、もう少し休んでいるようにって。それに、ここは人手不足らしいので」


彼女が慌てて喋り始め、だんだん尻窄みになっていく。萎縮してしまっているリリーは、それも相も変わらずのようだった。


「そうだったんですね」

「あの。姫様のご様子は」


リリーは桶を抱え直して、顔を覆ってしまいそうな大きな分厚い眼鏡の位置を整える。そして桶をイエライのベッド近くのサイドボードにおいてイエライの傍らに屈んだ。


「元気だよ」

「怒ってらっしゃいませんでした?」

「怒る?」

「私、姫様のもとに戻れるのでしょうか」


リリーが俯く。右と左で括ってある髪が、太い束が、音を立てて前方に移動したようだ。それほど彼女の毛量は多い。ともあれ、彼女は落ち込んでいる。


「私、姫様のお側にいたいんです。姫様に嫌われたら、私、私…」


涙目になっていくリリーに、イエライは焦った。


「なんでデイジーが君を嫌うなんて」

「私があのとき余計なことをしたから、マーサがいなくなって。怪我までして、私が役立たずだから、姫様に迷惑をかけて…」


とうとうリリーは泣き出した。

これにはイエライもなす術がない。泣き終わるまで待つ。

一頻り泣いて、リリーは涙を止める努力をし始めた。そろそろ話しても大丈夫かと、イエライは彼女の呼吸が落ち着いた頃に話しかける。


「どうして怪我をしたのか、僕は知らないんだけれど」

「デイジー様が下がれと言ったのに、下がらなかった私が悪いんです」


リリーはデイジーを庇ったらしかった。デイジーはリリーに傷ついて欲しくなかったのかもしれない。それとも癇癪なのか。下がれと、逃げろと言ったようだった。

デイジーは罪悪感からリリーを避けてるのか、それとも。休めと言ったのならば言葉通り、怪我がなおる迄養生しろということかもしれない。


「デイジーは、君を嫌っていないと思うよ」

「そうですか?!」


パアッとリリーの顔色が華やぐ。

彼女の様子をみて、デイジーが慕われていることに何となく安堵する。デイジー付きの侍女達は、どこか自分達を主張するようなきらいがあったが、リリーはそうではないようだ。そういえば、リリーのことを最初に口にしたのはベラだったか。


「ベラが救護室につれていってくれたんだろう?」

「え...ええ」


ベラとリリーは仲が良いのかと思っていたが、歯切れの悪い返事が返ってくる。

いの一番に連れ添うのは、一番気の許せる人ではないか、だからリリーと親しげな様子を匂わせて、ベラが大した怪我ではないといったから、ラーレが怒ったのだと思っていた。


「もしかして、違う?」

「違いません、けど」


リリーは押し黙った。


「何といいますか。今、デイジー様のお部屋にいられるのが羨ましいなぁ、って思ってしまいまして」

「そうか。無神経で悪かった。今は彼女達の話をしても、もやもやしてしまうだろうね」


リリーはイエライに気づかれぬようそっと息をつく。


「はい。デイジー様が怒ってないなら、戻れる可能性もあるかもしれませんし。頑張ります」

「明日、もう一度デイジーに訊いてみるよ」


イエライがそう言うと、リリーは少し驚いた顔をした。そして、頭を下げる。


「有り難うございます」

「訊くだけだよ。解決にはならないかもしれない」


リリーは桶からタオルを出して絞る。濡れタオルでイエライの顔と腕を拭いてから、ランプの光を灯した。桶の水を捨てに行って、暫くすると滑車を引いてきた。

少しのおかゆに、ゼリーのようなものと、恐らくは胃薬やら炎症を押さえる薬を処方される。イエライはか噛みごたえのないそれをゆっくり時間をかけて咀嚼し、全て飲みきった。

ワゴンを片付けてから、リリーはせっせと仕切りを組み立て始めた。仕切りとカーテンで構成された小さな個室が出来上がる。リリーはそこに控えるらしい。何かあればベルを鳴らすように言ってリリーはカーテンを閉めた。


朱く暮れる夕焼けが、壁一面を染める。

綺麗な朱。だが何処か寂しい。


(今日は、怠いな)


イエライは胸中で嘆息する。


犠牲の月。

誰かが言った。

蝕が音擦れる。その時に犠牲はつきものだ。


アウローラには伝承がある。

稀に王族の中で、数十年から数百年の単位で身体のいずこかに太陽や月の形の痣が浮き出た子供が生まれる。それは、太陽と月に祝福された証とされてきた。同時に、どこからか貪欲なる獣、マーナガルムがあらわれる。マーナガルムの力は、蝕の時期に最大化する。

アジュガ戦記は、記録の一つだ。太陽の英雄譚。

太陽が隠れるなど、あり得ない。暁が消え去ることを、アウローラは認めない。その最たる由縁となった記録だ。当時は既に古語を使っていなかったのに、難解な古語で書かれたため、原本は一般に流布はしなかった。それを元にした絵本が流通した。それが教育用に残虐な部分を除き、端的に強調し、柔らかい表現になり、どんどん派生していった。


派生の段階で生まれたのか、二つの逸話がある。アジュガ戦記と同じ古語で書かれていたから、同時代かそれ以前の可能性があるとされる。

一つは、封印を担うのが月の役割だと明言され、犠牲の月という言葉の語源となったもの。王族の秘匿とされている。

もう一つは、星の痣を持つものが、マーナガルムを倒したもの。星は王族からは生まれない。かけがえのないものだという。

後者は、伝説のようなもので、星は、太陽の武器であったという扱いを受ける。というのも、アジュガ戦記の記述を第一ととらえるものは、星を比喩ととらえた。故に、武器を持つ姿、武器そのものの擬人化で描かれることも多い。美術家は絵になるからと好んで取り入れる傾向がある。庭の彫刻がいい例だ。ゆえに、絵本の中にも積極的に取り入れられた。

なぜ月の犠牲が秘匿されるのか。その記録の中に答えがある。他の記録には出てこない記述。匂わせるようなことはあっても、明記はされていない記述だ。


マーナガルムは、太陽と月を食べようとした。

そうして、月を食べた。月は食べられることで、マーナガルムを封印した、と。


そういえば、今日は早めに行くつもりだったのに、森に行けなかった。

マーサは一体どこに行ったのだろう。そしてヴォルフはご飯を食べただろうか。最近よく食べるようになって、しかも肉の減りが多いのは元気になってきているからだろう。あの凄い回復力はその食欲で生まれているのかもしれない。

今日はそれもあって、満足できる食事を用意したかった。いつもパンと干し肉では飽きてしまうだろうから。


鬱々としたこの感情を、何とかしたかった。それすらも自己満足にすぎないが、なにかをしていないと落ち着かない。悶々とすると寝れないかと思ったが、眠りは意外と早くイエライの意識を底へと沈めていった。




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