孤月2

気がついたら白い天井があった。

日が暮れる前に目が覚めたらしい。窓の外は青空だが、青々しているというよりは、白く霞んでいた。救護室だろうか。白いカーテンに仕切られた部屋で、寝台から身を起こす。


「イーフェさん」


酷く掠れた声だ。イエライは寝たまま首を動かして、その漆黒の髪に身が引き締まる。

イーフェ·フィリアーニア。

緩やかに波打つ髪、深い青の瞳。アウローラの王の補佐官として、ネムスの森から派遣された実力のあるマーガ。2年前にはイエライと共に西大陸で起こった内乱の鎮圧に助力した。圧倒的な火力を誇る妖精術のために、《歩く戦車》とも云われている。

イーフェはイエライの耳飾りに触れた。耳飾りがほんのり光った。妖精術を仕込んだようだ。多分守りの類いか。


「ブリオンにアストを守れと言ったらしいな。だが、未来視で死を予期されたのはお前だ」


海の底の色をした瞳が、静かに、波紋を立てることなくイエライを射ぬく。薄絹で覆われた彼女の肢体は妖しくも艶かしい。


「僕は、死にますか?」

「どうやら二度目の機会も失敗に終わったようだ」


その意思の強い瞳に、イーフェは愉しそうな灯を点す。


「二度目も?」


イーフェが水差しを口に含ませてくれる。イーフェの指示に従い、イエライはそれをゆっくり飲み込んで、大息をついた。


「蝕の訪れるこのモールタの月に、そなたは三度命を狙われる。私は経験した。そのうち二度は、そなたも経験したであろう。一度目は蝙蝠。そなたの飲んだ甘い茶に、奴らを引き寄せる効果があった。二度目の茶は、そなた自身が解決していたな」

「イーフェさんも、経験した?」


少し喉の掠れがましになっている。

ブリオンが匂った甘い匂いに、蝙蝠を引き寄せる効果があったという。イエライが触れてしまった雛は、もしかしたらその匂いがついてしまったのかもしれない。


「起こりうる確率の高い未来を体験したかのごとく視せる。未来視とはそういうものだ。といっても、私も初めてみたのだから良くはわからんがな」

「あと一度あるんですね」

「そうだ。そんな時にブリオンとアストを遠ざけおって。命知らずな奴よの」


イーフェの薄絹がさらりと揺れた。組んでいた足を組み替えたらしい。艶かしい肢体が揺れて、ボディラインがより際立って薄絹に皺を作った。


「イーフェさんは、未来視を変えたいんですか?」


イエライは、イーフェの瞳を真っ直ぐに見つめた。


「そなたに謝らねばならぬ」

「え?」

「ロヴァルを遠ざけてしまった。ロヴァルがいればそなたの生存率は上がるやも知れぬのに、すまないが逃がした」


突然のことに、イエライは戸惑う。

父がいないのは、ルテオラへの召集があったからではなかったか。2週間ほど留守にして、全権はバレリアンとイーフェに任されていた。その状況を、イーフェが作り出したと言うのか。


「察しがいいな。召集はない。嘘をついたのだ」

「父は未来視のことは」

「知らぬ。今ごろルテオラでばれた頃か。怒っているであろう」


あっけらかんと、悪びれもせずイーフェがのたまう。

そして、あやつが帰ってからが大変だとぼやいた。彼女自身が撒いた種なので、イエライが関与することでもない。むしろイエライに未来があるかどうかも危ういというような話しぶりだから、そんなことに神経を割く余裕はなさそうだ。


「三度目は、何が起こるのですか」

「マーナガルムが現れるのだ。ロヴァルはお前を盾に取られて死ぬ。その未来が一番悲惨だった。アウローラの王族はアストのみ生き残るが、8年後には、誰も残らぬ」


ロヴァルがイエライを庇って死んだとしても、イエライの運命は変えられない。父がいようといまいと死ぬ、それもマーナガルムであれば仕方ない。

イエライは目を閉じる。そして記憶にある一節を諳じてみる。


「太陽と月を喰らう罪深き獣。その姿は闇夜のように暗澹たる、昏迷なる晦冥。無慈悲で傲慢、巨大で尊大な、秩序の破壊者。恐怖の化身であり具現。蝕の日にすべてを飲み込む暴食。犠牲の月なくして鎮めること能わず。…僕の命が危ういわけだ」


イーフェが目を瞠る。


「知っておったか」


意外そうにイエライの様子をうかがっているのも無理はない。

マーナガルムは神話やらに登場するが、今イエライが口にした後半部分は公然の秘密、暗黙の了解であり、秘匿されている事実だ。多くの記述には、太陽は沈まず、皆元通りになるとある。しかし、今イエライが諳じたものでは、はっきりと犠牲になるものが書かれている。元通りになる皆の中に、月は含まれないのだ。


「ええ。デイジーが生まれた時に。議員の一人に絡まれましてね。表向きは機密事項にされていますけれど、王族は皆知っていますよ。父は僕に遠慮して隠しているみたいですが。議員では周知の事実かもしれませんね」

「なんと。そのような時期から烏兎会は堕ちていたのだな」

「デイジーの《太陽》は眩しいですから」

「…何を言われた」


青い瞳が剣呑な光を揺らめかせた。その気迫は、並みの兵士なら腰を抜かすだろうが、イエライはベッドのなかなので抜かす腰もない。


「それよりも。皆死んでしまうなんて。何としても止めないと。手がかりは掴めているんですか?」

「ブリオンに探らせておる」


イーフェの瞳に明らかな憤怒の色が宿ったのは一瞬のことで、イエライが話を変えたことですっかり霧散する。


「本当にマーナガルムなのですか?」

「デイジーの部屋が襲われたであろう。あれがそうなのだ」

「薬なんてマーナガルムが使うものでしょうか?そもそも封印はどうやって解いたんでしょう。封じられた場所もわからないのに」

「矢張りそなたは知らないか」


イエライの言葉に、イーフェが残念そうに首を振った。


「ある場所に封印されていたのだ。もしかしたら、封印を解いた事実隠避のために、そなたを狙っているのだと思っていたが」

「心当たりはありません」

「犯人の目星はついている。だが、封印を解いたのかがわからない。やつらはその時間、別の場所で目撃されている。下手に動いて取り逃したくない」


イエライはベッドから半身を起こす。

少し目眩がしてふらついたのか、イーフェが支えにきた。それから再度ベッドに寝かしつけられた。

労るイーフェを横目に、イエライは問う。


「複数人なのですね」

「参ったな。これ以上は言えぬ。まだしっぽが掴めていないのだ」


何時もは傍若無人、我が道と思ったら全てなぎ倒していくイーフェにしては珍しく、眉を下げている。そもそもイーフェはまどろっこしい真似事は苦手なタイプである。その彼女にしては、いやに慎重だ。


「その人達のメリットを伺っても?」

「そなたを狙う理由が証拠隠滅でないなら、純粋にそなたやデイジーを殺して利があるということだ。ふふ」

「デイジーは兎も角、僕はありそうですね」


マーナガルムが現れる未来視を、彼女はいくつかのパターンで見ている。

未来は確定的ではない。

ロヴァルがイエライを庇って死ぬ未来が一番悲惨だった。その未来ではアストが8年後に死ぬ。ロヴァルがイエライを庇わない未来も存在し、ロヴァルが生きていれば、アストは死なない、そうも聞こえた。ロヴァルがいればイエライが生き残る確率が高まるのに、そうも言っていたように思う。イエライが生き残る未来が悲惨かどうかは解らないだが、ロヴァルが死ぬ未来が一番悲惨なのだ。

だから、イーフェはイエライではなく、確実にロヴァルが生き残る未来を選択した。


「マーナガルムが関わっているなら、僕が犠牲になるのは最初から決まっていることです。尚のこと、アストは巻き込めません」


覚悟ならもとから決まっている。


「仕方あるまい。そなたの決意は曲げられぬか」


イーフェが再び耳飾りに触れる。


「いつもより多めに細工をしておいた。そなたは頑張らねばな」

「ありがとうございます」

「さて、私はそろそろ行く」


イーフェが立ち上がると同時に、白い部屋のドアがノックもなく開けられた。


「あら、イーフェちゃん、来てたのぉ?」


真っ青なエプロンを身に纏ったその人が、ツカツカとヒールを叩き鳴らす。

ふくよかな胸が上着にフィットし、揺れによって存在を主張する。タイトな膝上のスカートから白い足が覗く。その足元で、イエライの手の親指から小指までの長さの尖ったヒールが大理石の床を傷つけないのは、奇跡だ。

その長身が、ストレートの髪をさらりと右手で払った。腰まで伸びていた紫の髪が、風をはらみつつ重力に従ってゆっくりと落ちていく。その芝居じみた仕草を笑うものは、この場にはいない。黒目の横の泣き黒子が艶かしい。その人が黒子のある方の右目をウィンクして、赤く張りのある唇に手をあててから、投げキッスする。


「イエライちゃんも起きたのねん。調子はどお?」

「ノーリ。後は頼んだ」


イーフェが席を立つ。それからノーリと入れ替わって扉の方へと向かう。


「やだ、つれなぁい」

「男なら男らしく。女なら女になりきったら仲良くしてやる」


イーフェは不敵に笑うと、部屋の外へ出ていった。

ノーリはくねくねと体を捻りながら、しかしあのヒールでバランスを崩すことなくイーフェにかわってイエライの傍らに座り、触診する。


「あの言い方はひどいわよね、イエライちゃん」

「先生、ここに勤務してるのですか?」


同意を求めるノーリについては後回しにして、イエライは訊く。ノーリはアウローラの城下街で薬草屋を営んでいる。城に薬草を卸してはいるが、主治医のような真似事はしていない。街では診療をたまに行っているらしいが、それは常時ではなく、ことごとく周囲の医者が出払っているときに仕方無しにという場合が主だ。


「やあねぇ、バイトよ。バイト。どうしてもって、イーフェちゃんに言われてね。昨日から入ってて、明日までの契約。薬草屋は閉めてないわよぉ。イエライちゃんの欲しがってたコカの実、手に入ったから今度おいでなさいな」

「ほんとですか?助かります」


コカの実は西大陸原産で、東大陸では入手がしにくい。麻酔の効果があるらしく、栽培に成功すれば治療分野でマーガにひけをとらないだろうと言われている。

実際、西大陸はそれによって、医療が躍進的に発展した。西大陸も、大昔は治療を神器の使い手に頼っていた。それと同様に、東大陸ではマーガにその分野は敵わないものとされてきている。しかし、西はコカの実を手にしてから、神器や加護に頼らぬ医療体制を確立した。なので、西大陸の医師の地位はかなり高い。

嬉しくてはしゃいでしまった。イエライは起き上がりかけた身体を押され、ベッドに戻された。


「うん、ずいぶん良さそう。今日は安静にして、明日からも無理は禁物」


そう言って、ノーリが扉とは反対側、ずっと閉められていたカーテンを開く。

突然カーテンが開いたことに驚いた見覚えのある女性が、こちらを振り返った。「頼んだわよ」、とノーリが女性の肩を叩くと、カチカチに固まった女性がこくこくと首肯する。


「じゃあ、また明日来るから。外には護衛もつけてるし、動いちゃダメよォ?イエライちゃん、放浪癖あるから」


笑うノーリに、イエライは固まる。小さい声で「はい」と答えると、ノーリは満足そうに頷いてから、軽快な音を立てて部屋を出ていく。

部屋が途端にしんと静まり返り、どことなく気まずい。

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