弓張月3

西日に眠気を誘われる。

男は億劫に水辺に向かった。この前迄肌寒かったが、暖かい陽気に恵まれ、湖の縁には水仙が咲いていた。男の手には桶があった。数日前にイエライが置いていったものだ。それで水を汲み、布を水に浸し、絞る。それで体を拭いて、布を洗う。それの繰り返しで身綺麗にすると、再び木陰に帰る。


木陰には、籠が吊り下げられている。これまたイエライが持ってくる固いパンだ。そのままでは歯が折れるほどのカチカチに固まったそれを取り出す。

男は籠の横についている光る石に触れる。光の輪が広がって、固いパンが覆われ、次の瞬間には膨張し焼きたての湯気を出す。パンをつまんでちぎり、口内へ放り込んだ。小麦とバターの甘い香りが、口から鼻孔に抜ける。それを堪能しながら、咀嚼する。


「まったく、便利なモンがあるな」


これまた籠から干し肉をとり、別の光る石に触れると、今度は焼けた肉になった。


光る石、法石は生活必需品だ。

あらゆるエネルギー源であり、今のように対象を絞り込んで、水分を入れて温める、水分を入れて焼く、といったような加工を施した法石を作る。意思をもって触れると、その近くの対象物があれば、その一番近くにあるものに効果が表れる。単純な動力なら対象物はいらず、汎用性が高い。だが誤作動もあるので取り扱いは注意がいる。


汁の滴る肉にかじりつく。干すことで破壊された繊維が千切れやすく、柔らかい。タンパク質の芳ばしい香りと程よく弾力のある食感が、口内を刺激した。

木陰から何やら音がして、頭上から何かが降ってくる。辛うじて頭を避け、男のすぐ近くに、それは足音もさせずに草を踏みしめる。匂いにつられた、猫だ。黒と白の長毛、歩を進める度に柔らかに揺れる。それから、その猫はとうとう男の足元にたどり着き、すり寄る。


「お前、学習能力高いな」


催促だろう。パンをちぎり与えてやる。地面につくと食べないのは、ここ数日で実証済みだ。手の上に乗せて口元に運ぶ。どこのお嬢様なのか(確認はした)、人慣れしている。

イエライは毎日来る。

そうして男に食料を与える。身一つで何の荷物も持っていない男に、よそ者で居場所が無いから帰れないのだと思っているらしい。彼の質問にもあまり答えない男に、甲斐甲斐しく世話を焼いている。境遇に同情してか。

何となく、イエライの首の痣が脳裏を過る。


(言ってみりゃあ、外れ籤だ)


月の痣。アウローラは太陽信仰が強い。月はその次いでだ。伝承でも良いところはない。外れ籖。だから、男に身寄りがないと思ってやさしくするのだろう。


(確かに、頼るとこはねぇがな)


一度訊いてみたことがある。「いつまで世話を焼く気だ」と。すると、返ってきたのは「お前の傷が治るまで、かな」と随分あいまいな答えだった。だから、今日も彼は来る。もし来れなかったときのために、常に二日分の食料を持ってきて、補充していく。

御蔭で大分体力が戻ってきた。あり得ない回復速度だ。いざとなればウサギでもネズミでも捕まえて食べれるが。労せずして傷も治ってきているから、有難いことなのでそのままにしている。

だが、もうすぐ潮時か。

そこで、ちくりと胸が痛んだ。漠然とした空虚感。男は焦った。あり得ない。


(ちょっとした同情か。付き合ってやってるだけだ)


そこで、猫が男の手を叩いた。手の中が空っぽになっていた。そして不満げに一鳴き。肉の催促か。矢張り育ちがいいのか、食べかけは食べない。新たに火を通したものを、満足げに食べ終えると、猫は伸びをしてころりと転がった。

そういう訳で肉の減る量が多いのだが、イエライは男が全て食べていると思っているため、先日持ってきた量は肉が多めだった。これに関しては猫に感謝かもしれない。

イエライの持ってくる肉は、城から持ってくるだけあって市場品とは一線を画している。肉の質がいいというか、脂身にまみれていない赤身肉。保存法も工夫があるのかもしれない。兎に角、ヴォルフの口に合った。ヴォルフは最後の一口を齧った。


『随分と餌付けされてるねぇ』


その声は、思ったよりも近くで聞こえた。

何処からともなく聞こえたそれに、周囲を警戒する。だが、どこにも誰もいない。空耳、にしてははっきり聞こえた。そして、その感覚には古い既視感がある。


「ヴォルフ―」


思考を遮る、弛い声。

男は声の方を視認する。小走りでかける少年は、仕立てのいい服に身を包み、いつも通り背に大きな荷物を背負ってる。その大きな荷物は、彼が着ている服にはひどく不似合いだ。といっても彼自身気づいていないだろう。

恐らくは彼の中では一番質素で動きやすく、簡易的な服だからだ。平民が着る服を模した、綿の素材でできているものだが、平民のそれより上品な作りになっているのだ。

ヴォルフは彼を確認してから、足元に視線を戻した。猫が消えている。どこにいったのか。不思議な猫だ。上品な面持ちをしているためなのかどうかわからないが、気配が辿れない。そのうちに、イエライが近くまで来ていた。


「小僧」

「違う、イエライだ」


木陰に座るヴォルフを、イエライが上から見下ろす。少し怒ったような、拗ねたようなその表情に、おかしくなる。ヴォルフはその頭を乱暴にかき混ぜた。イエライは微妙な顔をする。


「随分元気になったな」

「もう、てめぇの世話はいらねぇだろうな」

「うん。期待しているよ」


イエライはヴォルフの隣で、背の荷物を下ろす。地面がどんと音を立てた。相変わらずすごい荷物だ。法石で軽くしているらしいが、音はしっかりと重さを主張する。

イエライは布を敷いて、その上に中のものを取り出していく。まずは食料。そこそこの大きさの箱を三つ取り出すと布全体が埋め尽くされた。箱ごと近くの木に括り、それぞれに法石で結界を張る。動物に食べられないようにしているのだ。そうして布の面積があくと、次に清潔な布と薬草などを出していく。


「ああ、本当だ。塞がってきているな。エーテルも使ってないのに。お前の回復力も凄いなぁ」


当たり前にヴォルフの服をめくりあげ、包帯をとる。包帯の下は切り口が薄く盛り上がっていて、周囲が少し濃い肌色になっていた。

すごい、小さく呟いてイエライは感心した。

はじめはヴォルフの強靭な体躯に驚いていた彼は、しかし今はもう見慣れている。だが、彼の肉体が傷を埋めるように盛り上がるその様は、尋常ではないと、まじまじと観察しているようだ。どう鍛えたらこうなるのか、羨ましいと、前にうっかり口にしたことを、イエライは気にしているらしい。それ以降はあまり口に出さなくなった。


イエライの長い睫毛が斜陽を受けて長い影を落とす。

頬に当たる光が暖かみのあるオレンジだ。真剣な表情で検分していたイエライは、不意にヴォルフを覗き込んだ。


「どうかした?」

「いや、何でもねぇ」


ヴォルフはイエライから視線を外した。


「うん。完治までもう一週間かかると思ったけど、もっと早く塞がりそうだね」


それから、てきぱきと薬草を出して治療を進めていく。全ての工程を終えると、慣れた手つきで彼がさっさと包帯を巻きなおしていく。治療は終わったらしく、片づけ始めたイエライを確認してから、ヴォルフは衣服を整えた。


「お前の半端ない薬草の知識はなんだ」

「街の医者に教わってる」

「なんだそりゃ。医者になるのか?」


薬草を調合した皿や瓶を洗うイエライに、ヴォルフが問いかける。イエライは一瞬弾かれたように顔をあげたが、皿や瓶を片づける手を止めない。


「なってみたいけど、どうかな」

「はは、そりゃあいい」


思わず笑った。またいじけるかと予想したのに、ヴォルフがみたのは、笑っているイエライだった。


「はじめて笑ったな」

「そうか?」


柔らかい眼差しが擽ったくて、ヴォルフは顔を背ける。


「仏頂面で、気難しい顔ばかりしてるから」

「あながち間違っちゃいねぇな」

「そこで肯定するなよ」


云われたことに素直に返すと変化球がきて、ヴォルフは頭を掻いた。


「どうしろってんだ」

「憤るとか、色々あるだろ」

「そうして欲しいのか?」

「うーん。なんだろう。憤って欲しいわけじゃなくて」


濁すイエライ自身、何が云いたいか考えが纏まっていないように思えた


「まあ、うまい飯もくれるから、懐いちまったんじゃねぇか?」

「嘘」


何となく、どこかで耳にしたような台詞を吐く。それが、さっき聞いた幻聴の影響だろうと、じわりと思い当たっている間に、イエライが小さいながらも鋭い声を出したことを認識した。


「あ?」

「それは嘘だよ。お前はいつも何かを警戒しているよ」


何でもないようにイエライが言って、ヴォルフは呆然とした。それに気づいているだろうに、イエライは踵を返した。


「肉、好きだろ。多めに持ってきたんだ」


イエライは食料の残りを確認する。

籠を覗き込みながら、イエライが何かぶつぶつ言っている。思ったより消費されていたのだろうか。箱から補充したほうがいいかな、とつぶやいて、木に括った箱の一つを開けた。


「大丈夫だ。それよりお前はこんなところに毎日来て、暇なのか」

「一応、用事はあるよ」

「どうだか。王子がサボってちゃあ、国が心配だ」


頬がピクリとひきつって、イエライが真顔になる。これは失言だったか、ヴォルフは頭をかく。


「サボりはいいすぎたか」

「違う。僕、王子だって言ってない」

「…名前聞きゃあ、分かるだろ」

「ヴォルフは、よその大陸から来たんじゃないのか」


そういえば、そんなことを生返事で答えたかもしれない。


「よその大陸に知れ渡るほど、僕は有名じゃないよ」

「…悪かったな。あれは嘘だ」

「嘘?」


イエライの表情が凍る。ちくりと何か刺さったような感覚に、ヴォルフは戸惑う。能面のような顔はヴォルフを責めているのか、諦念なのか判別ができない。

奇妙な感覚にヴォルフは居心地が悪くて仕方ない。


「本当は東大陸の出身だ」

「今度は本当なの?」

「ああ。嘘じゃねぇ」

「でも、法石は…」


ヴォルフは最初、法石が使えず、固いパンを食べられなかった。イエライはそれが言いたいらしい。

東大陸で、法石を使わない地域はないらしい。西大陸でも使わない地域はないのかもしれないが、イエライは西大陸に居住していないので、未知のことも多いから、よそからきたといって納得していたようだった。だから適当に生返事したのだ。だが、本当を言っても、イエライには理解できないだろう。


「あれは、俺がいたところには無かった。それだけだ」

「ふぅん」

「嘘じゃねぇ」

「...わかった」


イエライは言いたくないことを暴くほど子供でもなく、想像で相手を思いやるほど大人でもない。ましてや腹を割って話すなど、そういう環境でもない。何処か押し殺した感情がそこには介在して、彼自身に影を落としている。


ヴォルフはそれに気づかないふりをした。ヴォルフの計画に彼は必要で、邪魔な存在だ。

全てを彼に話すわけにはいかない。本来なら関わらない筈だった。それがこうして話しているなんて、全く計算違いだ。

ヴォルフが黙っていると、イエライが思い出したのか懐を探った。何か持っていたのか、手に握り込み、吊り下げられた食料に近づく。それを、ヴォルフはゆっくり目で追った。


「なにしてる」

「魔除けの法石だよ。ここに付けておこうと思って」


光る石が、そこには取り付けられていた。それを見た瞬間、ヴォルフは得も言われぬ感覚に襲われる。


「外せ」

「結界になるよ。妹の部屋に紛れ込んでいたんだ」

「いいから外せぇ!」


ヴォルフが叫んで、イエライの身体が揺れた。

震えた手で法石を外し、発動させるのをやめたイエライが、怯えた目でヴォルフを見ていた。


(そういう顔がさせたいんじゃねぇ。違う)


「ごめん。今日はもう帰るね。また明日来るから!」


走り去る小さな背を、ヴォルフは追いかけることができなかった。しばし佇んでいると、またあの声が聞こえた。


『あの子に近づくな』


脳髄に響くような、静かな声だ。

周りを見渡す。誰もいない。

違う。

湖の前に、猫がいた。


先ほどまで完璧に気配も何も消していたその猫は、突然、何も隠れるところがない平地にあらわれた。確認できる生き物は、その猫しかいなかった。


「道理で。変わった猫だ。俺に怯えないしな」


猫はヴォルフに近づく。しかし、ヴォルフがいる木の隣の木へとするすると登った。逃げるのかと思ったが、そうではない。暫くして枝の間から顔を出し、ヴォルフを見下ろした。そこが安全圏なのかもしれない。

長毛なのに器用なことだ。


『あの子に近づけば、身を滅ぼすぞ』


警告。

遥か彼方の時間を遡る感覚に、眩暈がする。間違いなく錯覚だ。全く時間は逆行しないし、巻き戻る予定もない。これは記憶だ。記憶が呼び起されているのだ。

鐘の音が聞こえる。けたたましいそれが、穏やかな響きを立てて、その訪れを告げる。


ーーーあなたにーーー欲しいのーーー


銀髪の、嫋やかな女性が綺麗にほほ笑む。凄絶な美しさだ。その呼吸に喘鳴が混じることなど、微塵も感じさせないというのに、なんという儚さ。それは彼女の命の輝きだ。未来を失った彼女の。違う。未来などないのだ。今が一番の未来なのだ。

だから彼女は“今”美しい。

手首をつかみそうになって、脳が見せるまやかしだと気づく。空をきる掌を握り込み、ヴォルフは苦い顔で猫を見上げた。


「言われなくても近づかねぇつもりだがな。もう潮時だろう」

『ならばいい』


猫はそれだけ言って、木から木へと飛び移っていった。


分かっている。潮時だ。イエライは気づいているだろうか。あの様子ならまだだろう。だからこそ、だ。今度こそ妙な情けを掛けられては困る。況や、こちらもだ。


(うまそうな匂いがする、なんて)


とんだ疫病神でしかない、ヴォルフは頭を抱えた。



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