弓張月2
「あれは、にいさまだったのね」
「?」
デイジーが呟いた意味が分からず、しかし、分かる必要はあるのかと、アストは浮かんだ疑問を追求するのをやめた。
「いいの?」
「は?」
すると、デイジーがアストに訊く。唐突な妹に、アストは今度こそ首を傾げる。
「デイジーしってるもの」
「何を」
「アストにいさまは、イエライにいさまがしんぱい。いっしょにいかなくていいの?」
「それがどうした」
「このまえの、こわいいきものとかんけいがある?」
五歳の妹とは思えないその確信めいた言い様に、アストは何と答えれば良いのか思案する。
適当にはぐらかすか。別の話題に変えるか。五歳ということもあって、何も気づかないかもしれない。ならば何も知らない方がいい。
「そうだな」
偏見もあるだろうが、女性は男性より比較的お喋りだ。
男社会と違って力で解決するわけではない女性社会を、アストはよく知らない。知らないが、男のように、喧嘩が強い、走りが速い、石を遠くに飛ばせる、などといったことで上下関係が決まるものではないと、師匠に習った。全くもって面倒くさい。
単純な力では男に敵わない女性の知恵なのだろう。彼女たちが上下関係を作る際に、社交性や社会性というものがついてまわると、ブリオンは言っていた。
デイジーは我儘で有名だ。侍女などと付き合う手前、つい口が滑ることは考えられなくはないか。
「にいさま、むちゃばかりするのよ。ほんとうはデイジーがマーサをさがすのに」
そのデイジーの発言に、アストは誤魔化しの選択肢を捨てた。
妹は、何もかもわかっているわけではない。だが誤魔化そうとすれば見抜くだろう。何もない、関係ないといえば解決はするだろう。だがそれをすれば、今後の関係性に皹が入る。例えば、アストは彼女の協力を得たいと思っても、彼女がアストを信用しなくなる危険性がある。
アストはイエライが大事だ。
デイジーもそうだろう。デイジーもイエライを心配している。アストは、デイジーがイエライを利用しているのかもしれないと疑っていた。自分自身の保身と、甘えた子供でしかないとレッテルを貼っていた。デイジーの問いは、アストの穿った見方を正してくれた。
イエライを大切に思っているなら、協力できる。同じ目的と方向を持っている仲間ともいえるか。
ならば、言える範囲で真実を語るべきだとアストは結論を出した。
「行先は解っている」
「あ、ブリオンさま?にいさまは、びこうにきづいてるの?」
「…お前、変なところで鋭いな」
本当に五歳か疑いたくなる。妖精に愛されると精神性も高くなるのか、よくはわからないが。
「ブリオンさま、わたし、こわいわ。にいさまもじゃなかったかしら」
「師匠が怖くない人は少ない」
「あのおめめがこわいのよ。もうちょっとかわいく、まあるくしたらいいのに」
アストは吹き出した。
師匠の鋭い紫電がアーモンドのようにまあるくなった状態で頭に浮かんだせいだ。
間抜けだ。とことん間抜けだ。目を変えられた師匠が怒って口をひん曲げている。傑作だ。ここ五年で最高の傑作だ。
一頻り笑って、アストは表情をひきしめた。
「良いことを教えてやる。師匠は不死身なんだ」
アストがニヤリと嗤う。デイジーは眼を丸く、ぱちくりとさせた。それがかわいくて、アストは眼を細めた。途端にからかわれたと思ったデイジーがプンスカする。
「尾行の件、兄上には、内緒にしろ。そしたらお前のわがままを、ほんの少し容認してやってもいい」
「でも、わたし、おこられたくないわ」
眉を寄せるその姿は、しっかりと五歳の少女だ。
アストは笑った。イエライがデイジーに優しくする理由がわかった。兄が妹に向ける眼を、今自分がしているという自覚はあった。アストはデイジーの頭を優しく撫でた。
「知らないふりでいい」
「アリストロにいさまは、ほんとうにイエライにいさまがきらいなのかしら」
嫌なやつの名前を耳にして、アストの眉間に皺が寄る。デイジーはその皺を伸ばすように手を当ててきた。
「あれは馬鹿だ。期待するな」
アストは、額を揉むその小さな手を払い除けることはしなかった。
「にいさまとは、こうはなしたらよかったのね」
デイジーが達観したように息をつく。アストの視線に気づいてか、デイジーは小さな手をアストに重ねた。
「わたしのとっておき、おしえてあげる」
いたずらっこのそれで、デイジーは微笑んだ。
☆☆☆☆☆
「まずい、今日は森に行く時間を多めにとれる予定だったのに」
デイジーの部屋を飛び降りて、中庭に降り立つ。
マーサを探しに森に行くついでに、あの怪我をした男のところへ、食料を持って行っている。
聞けた情報は少ないが、男はヴォルフガングと名乗った。少し訛りのある発音で、城下での訛りとは違った。アウローラの事も、昔の事しか知らないようだ。恐らくは他所から来たのではないかと考察する。手当てをして、翌日の薬を渡す。その繰り返して、男の傷もよくなってきていた。
中庭は広場の部分と、庭園であったり、木々や畑が密集している場所がある。
イエライが降りたのは丁度庭園の噴水の前だった。
噴水の中には石像が三体彫刻されている。それぞれに、太陽と月と星を手に持った妖精達が、水辺で遊んでいるように配置されている。
マーナガルムの伝承において、稀に現れる星は、太陽と月を助ける友人だという。アジュガ戦記には現れない、マイナーな助っ人だ。
噴水の近くには迷路のように腰までの丈の植物が植えられている。花が咲き始めていた。先日まで冷え込みがあったのだが、ここ二、三日の間の陽気に当てられ、蕾がほころんでいる。
少し先には木々に囲まれた石碑がある。アウローラ建国の歴史を記したものだ。
その時、木々の間から見覚えのある司書官が、そそくさと回廊へ逃げていく。気になってイエライは司書官が出てきた方の木々を覗いた。
「なぜだ」
その声には聞き覚えがあった。
「なぜ俺ではなく。バレリアンは」
思ったより近くで響いた声に、慌てて木々に身を隠す。
「誰だ!」
足音が近づく。もうダメだと思ったときに、近くからガサガサと何かが飛び出した。
「…栗鼠か」
それ以上近づいてこなかった。足音が遠ざかっていく。
石碑に戻っていったのは、アリストロだ。いやに神妙な面持ちかと思えば、そこに身を落ち着けようとしてるのか、座ろうか迷っているような感じだ。彼はあてどなくうろうろとしている。誰かを待っているのかもしれない。
イエライは引き返した。
石碑の近くにある畑が見えはじめる。畑の方に出れば、背の高い木はない。もうすぐ噴水の前に出る、そう思ってイエライは安堵の息をついた時、再び人の気配がする。話し声だ。
先程の件もあるので、今度は隠れずやり過ごそうと移動を続ける。慎重に遠ざかっていると思ったが、急に近くで声がした。
出来るだけ近づかないように通りすぎようとしたが、向こうの方から近付いてきていたらしい。避けられなかった。チラリと、繁みの向こうが見えた。
逢魔が時。判別がしづらいが、一人は昼間デイジーの部屋にいたショートボブ。侍女のベラ。もう一人はきりっとした目鼻立ちの男。ビデンス・クワンだ。
「なあ、わかるだろう」
「何のことでしょう」
ベラがビデンスの前を通り抜けようとして、腕をつかまれた。ビデンスは逃げようとするベラを引っ張り、ベラはそのまま近くの木に押し付けられる。
「焦らすなよ。君の秘密を教えて欲しいのさ」
「そんなものはございませんわ」
彼女の顔の両脇に手をついて、ビデンスはベラの顔を覗き込んだ。
妙に色っぽい眼差しに、ベラの顔が紅潮する。ビデンスは目鼻立ちがはっきりしており、つり上がった目できつい印象を与えるが、整った顔立ちだ。それが綺麗に弧を書いた唇で甘い言葉を囁くのだ。無理もない。
城内ではビデンスの人気は高い。顔だけではなく、アウローラ随一の教育機関、多くの有識者を排出している白兎の塔出身である。勿論人あたりがいいことも影響している。
「満更でもなさそうじゃないか」
くっ、と小馬鹿にした笑みに、ベラの顔色がさっと引く。ときめいたなどと思われるのは、彼女のプライドが許さない。
「いい加減にしてください」
ベラはビデンスの手をのけようとするが、無理なようだ。文人かと思いきや、やはり男なのだろう。女性では敵わない。
「ふふ。そんな強情な君も素敵だよ」
「私、夫も子供もいますわ」
「つれないなぁ。僕の気持ちは知っているだろう。おや」
出来るだけ離れて移動し続けていたイエライに、ビデンスが気付いた。まずい、と思ったが、ビデンスの射抜くような瞳と、イエライの瞳がかち合った。イエライの足が竦む。ビデンスの意識が逸れる。ベラはその一瞬を見逃さなかった。
どん、と大きな音がして、ビデンスが撥ね飛ばされ、ベラが駆けていく。ベラが繁みを掻き分ける大きな音に、イエライの体も強張りが溶け、逃げる。だが、ビデンスは素早かった。体格差もあってか、距離が詰まるのが早い。逃げきれるか危うい。
「いけない子だね」
すぐ近くで声がした。ビデンスに腕を捕まれ、ぎょっとする。
イエライは腕を振り回したが逆に握りこまれて動けなくなった。何を考えたのか、ビデンスはイエライの顎に手をかける。鼻先が振れるほど近くに、その顔が迫る。
(うわあぁあああ!)
イエライは胸中で絶叫する。ビデンスはイエライの反応を楽しんでか、絶世の妖しい笑みを口元にうかべる。そして、イエライの耳に唇を寄せた。
「いいかい。ここで見たことは他言無用だよ」
ビデンスは耳元でそう囁いた。コクコクとイエライが素早く頷く。満足したのか、ビデンスの顔が遠退いていく。顎からビデンスの手が離れる。腰が抜けてへたり込むイエライに、ビデンスは瞬いた。
「おや。脅かしすぎたかな」
イエライが座り込んだことで持ち上げる形になっていたイエライの手を、ビデンスは解放する。動けないイエライに満足したように、クスリと笑いを洩らす。それからお茶目にウインク一つして、茂みの向こうへと足早に去っていった。
(そういうの、いらない。ホントにいらない)
イエライはほぼ地面にうつ伏せた状態で、項垂れる。身体が重い。だるい。起き上がれそうにない。イエライは、どっと押し寄せてきた疲労に逆らわなかった。
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