弓張月1
「ここは、書き換えられていますね」
「訂正があったのですか?」
「いえ、検閲のものが書き換えた印がないので。少し調べますね」
司書官が脇に置いていた資料をめくる。イエライは図書館で伸びをした。
帳簿の見方がわからず、司書官を捕まえて書類とのにらめっこを続けて、疲労がたまっている。この項目が最後なのだが、もう限界に近い。
「ああ、これは途中で荷おろしがあったみたいですね。この金額で計算があいます」
計算を終えた司書官が、ここはこれが支出されて、ここが収入なので、と丁寧に説明してくれ、いわれた通り書き写していく。慣れもしない帳簿作業をしていたのには訳がある。
朝一で執務室にバレリアンが押しかけてきた。彼は躊躇いなく大束の書類をイエライの執務机に置いて、のたもうた。
「イエライ様。この前の金の輸出入の報告書ですが、この書類をお渡ししてよいですかな」
バレリアンは飄々とそういって、ぐるりを見回した。
部屋はイエライ一人でいるには広すぎるくらいだ。執務室は、一人で使うことを想定していないからだ。
本来であれば、補佐の侍従がつく。そのために机が複数置かれる筈なのだが、部屋にはイエライの机しかない。イエライには最低限の世話をする部屋付きの侍従はいても、執務を補佐するものはいない。必然的に月例会の準備も、イエライ一人ですることになっている。事前情報は用意しなければ、議題についていけない。
状況を冷静に分析するバレリアンに対して、イエライは目を泳がせた。
「アリストロが任された件、ですよね?」
しどろもどろ、応える。
部屋に防音設備はないが、消え入るような声になってしまっていた。そうでなくても、月例会でアリストロとやりあわされた。出来れば関わり合いたくはない。
「私めと、ビデンスが任されたのですが。どうも計算が合いませんで。イエライ様は計算がお得意でしょう。少しこの年寄りを助けてもらえませんかな」
くい、と片眼鏡をはずし、バレリアンは胸ポケットのチーフを目元に当てる。泣き真似か。
「あの、僕は帳簿を見たことがないのですが」
おずおずと答えると、バレリアンはさっと身を翻し、捲し立てる。
「引き受けてくださるのですね!図書館に行けば資料はございます。イエライ様もおっしゃったでしょう。無駄ではないものが削減されては困る、と。我々に不正や不備があっては困ります。ですので、ダブルチェックも兼ねておるのですよ。いやあ、助かります」
綺麗な西大陸伝来の貴族式会釈をして、バレリアンはにっこり微笑んだ。非の打ちどころのない完璧な紳士の笑顔だ。決して内側の感情を読み取らせない。
狸じじいーーといってもそこまで年齢はいっていないーー確か四、五十だったか。この男は、父の腹心だ。
この件はバレリアンの判断なのか、父の判断なのか。
問いただそうにも材料がない。材料がなければ、バレリアンが正直に答えるとは思えない。
「...わかりました」
事程左様に、イエライは頷くしかなく、現在に至る。
「よく頑張られましたね。イエライ様」
「あ、もうこんな時間か。ごめん、君の勤務時間を過ぎてしまって」
イエライは時計をみた。
労う司書官に、イエライは陳謝する。
「いえいえ。お役に立てたなら。それよりデイジー様をお待たせしてるのでしょう?」
マーサが逃げてから、五日たっていた。
イエライは毎日森に行くが、マーサは見つけられていない。デイジーにその事を報告している。マーサのことを報告するために、イエライはほぼ毎日デイジーの部屋に行く。何も無くても毎日来て、と言われたので、律義に守っている。
「ああ、でも、もう昼食かな」
「そうですか。ああ確かに」
司書官を含め、城内の通常業務は昼までになっている。
急ぎの案件でもない限り、昼過ぎには持ち越されない。昼以降は、基本的には城外での社会活動に当てられるか、武芸などで切磋琢磨するように、公務やらはない。図書館は昼以降、自由閲覧で無人になるのだ。
「イエライ様、喉が渇いたでしょう。こちら、心ばかりです」
「有り難う」
司書官に渡された紙のカップの中身は、紅茶だった。
衛生的で洗わずにすむので、最近紙のカップが城内で流行っているらしい。会食や王族に饗されるもの以外をこれに変えることで、侍女達の仕事を減らしているのだとか。複数人が出入りするところで気軽にティーブレイクできると評判もいい。
喉が乾いていたので茶を半分ほど一気に飲んで、イエライはバレリアンのところへ向かった。
回廊を進む途中、議員控え室から出てきたらしい男たちが向かいから歩いてきた。フェンネルとジュニパーだ。談笑しているうちに、一人がこちらに気づいた。
「イエライ様」
近付くとフェンネルが声をかけてきた。
「デイジー様のところに行かれるのですか」
「いえ、昼食に。では」
人畜無害な顔に笑みに、心配するような口調。どことなくちぐはぐな印象に、引っ掛かりを覚える。手にもった書類を気にしているような。気のせいかもしれないが、探るような雰囲気に、居心地が悪い。イエライは端的に応え、一礼して通りすぎる。
「私に手伝えることがあればおっしゃってください」
通りすぎ様に、ジュニパーが口を開く。振り返ると、無表情な瞳とかち合った。
「何かと苦労がありましょう。特におなごは人を惑わしますゆえ、お気をつけください」
やけにその台詞が、耳にこびりつく。モヤモヤとしながら、先を急いだ。結局バレリアンは不在だった。机の上に書類を置いて、部屋を出た。
「捜索が難航している」
デイジーの部屋に着いて、イエライは開口一番そう告げる。デイジーは怒ってはいない。理不尽に、呆れたように大人びた表情を見せる五歳の少女だ。
「もう、だからデイジーがいくっていってるのに。にいさまはマーサにきらわれてるのよ」
「ごめんね」
「いいの。にいさま、まだお時間はあるのでしょう?」
デイジーはここぞとばかりにイエライにお詫びだなんだと、色々わがまま放題した。
絵本の読み聞かせに始まり、ぬいぐるみの修理、おもちゃの片付け。デイジーは片付けや修理が苦手らしい。綺麗な石の中には、間違っていれたであろう法石まで混じっていた位だ。子供らしいそれを好ましく受け止めすぎて、彼女がダメ人間にならないかは目下の悩みだ。
平和すぎる。
そういえば、と、イエライは視線を部屋に巡らせた
「ねぇ、デイジー。リリーは」
「あ、にいさま。これ、これしましょう」
デイジーはイエライを遮って、次の要求を持ってくる。
ジグソーパズルだ。かなりホコリを被っている。多分僕らのお下がりがデイジーのところに持ってこられたのだろう。どうやら友情をテーマにした絵画のようだ。
賊の襲撃以降、リリーの姿はない。言うほど傷が浅くなかったのだろうか。思い耽っていると、硝子テーブルにカップとソーサーが現れる。女性の白く細い指先が残像のようにゆっくりと目の前から離れていく。その時に、視界を遮る形でそのカップが置かれたのだと意識した。
「イエライ様。お疲れのようですので。お茶はいかがですか」
ベラが可愛らしく頭を傾けた。可憐、といっていい類いのものだろう。そのベラを、デイジーがすごい目で睨みつけている。
出されたのはデイジーの部屋でしか出されない茶だ。
湯気を介してさわやかな香りが室内に広がる。デイジーは我儘姫といわれ、周囲の手を焼いている。それを緩和するために、藁にもすがる形で、あらゆることが試されている。飲み物は、常に落ち着くようにと鎮静効果のあるハーブが提供され、香もそういったリラックス効果があるものが焚き染められている。
例えば、部屋の色は薄い桃色だ。
寝室は淡いブルーで、小さな小物に柔らかなレモン色を使っている。飾られる花も配慮されている。基本的には香りでリラックスできるものが選ばれる。香との相性で、香りがない場合は落ち着いた色味が求められる。そう思っていた矢先に目についた花は、いつもと毛色が違っていた。
「綺麗でしょう?私、この花が一番好きなんです。明るくて元気になれて、可愛いんです」
イエライの目線を辿り、ベラが嬉しそうに笑った。花瓶には鮮やかな、派手な色のガーベラが活けられていた。
ノックの音がして、隣の部屋にいたラーレが部屋の扉を開く。
「ベラ。ここにあった布巾を知りませんか?」
一瞬ベラから表情が消えた。だが、見間違えかと思うくらい、にこやかになる。
「すみません。後でもいいですか?」
「今よ」
「では、ここでうかがいます」
その態度に、ラーレは怒りの感情も隠さずに近づいてベラの手を引いて行こうとする。
ベラがその手に掴まれる前に、身を引いた。
「どうしてここで話さないんですか」
「いいから」
「ここでは話せないんですね」
二人が回廊の方へ出ていく。
デイジーの持ってきたパズルを組み合わせていると、言い争う声が微かに聴こえてきた。
「ここの布巾は使わない筈ですよね」
「使いましたよ」
「どうして」
「一回封を開けてますよね。この布巾」
「そうよ」
「定期的に洗った方が綺麗だと思います」
「ゲンシツをとったつもり?」
「ゲンシツってなんですか?」
言質と言いたかったらしいラ-レに、ベラが疑問を投げる。イエライはため息が出る。
「にいさま?」
「デイジーはパズルに集中」
「うん!」
元気良くデイジーがパズルを探す。それと同時に部屋の外側から扉が開いた。
「兄上。こんなところにいたんですか」
「あ、アストもやるかい?」
呑気に言うイエライと、侍女達の言い争う声が重なった。アストが顔をしかめた。
「何なんですか、あの程度の低いのは」
イエライはへらりと笑った。
アストは正義感から見逃せないようではあるが、イエライが何もいわないでいると、隣に座って、それ以上は追求しなかった。
アストのそれに、イエライは心地よさを覚える。実のところアストはイエライが一番なので、イエライを困らせるようなことをしたくないだけだ。そんな行動理念をイエライは知らない。アストがイエライの手に持っているジグソーに触れる。イエライは大人しくそれをアストに手渡した。
いつの間にか隣の喧騒は消えていた。
パチリ、パチリ。静かにパズルを組む音だけが響いて、半分が埋まっていった。どうやら女性の絵のパズルのようだ。そこで三人は大きく伸びをする。
「今日は此処までにしよう」
日が傾いてきた。
パズルのピースが薄ぼんやりと判別がしにくくなって、イエライが中断の声をあげた。淹れてもらった茶は既に冷たくなっていた。どうやら熱中しすぎたようだ。
「そうですね」
「えー」
アストの賛同に、抗議の声をあげるデイジー。金の髪が意思を持ったかのように揺れた。イエライは時計で時間を確認したのか、眼を真ん丸にした。
「デイジー、兄上も忙しいんだ。そろそろ解放してあげなさい」
「アストにいさまがつきあってくれるなら」
「じゃあ、アスト。よろしく頼むよ。ごめんね」
アストが嫌そうな顔を見せる暇もなく、イエライは走って部屋を出ていく。アストはついていこうとしたのだが、少しの葛藤があって、判断がすっかり遅れてしまったらしい。デイジーと二人、取り残された。
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