眉月5

喧騒と矯声、鼻につくアルコール。

男も女も入り交じり犇めきあったホール。黒ずんだ木目に油染みやらが残る年季の入ったそこに、風が吹いた。

一人の男が扉を開けたのだ。外気が入り込んで賑やかしい酒場に一瞬の静寂が訪れる。

男は身形こそここに馴染むものの、とても場末の酒場には似つかわしいと云いがたい良い匂いがした。森を連想させるコロンの香りだ。

およそ動物臭に程近い、薄汚れた身形の男達は、彼を遠巻きにして見守った。


彼はバーカウンターで鍵を受けとる。二階の鍵だ。数刻前に、女が裏口から入っていって、同じように鍵を渡されていた。

一階は酒場、二階は従業員のためにいくつか個室があるのだが、客に頼まれて貸し出しをする隠れ家としての役割もある。どこかに宿をとるより安く、しかし時間辺りの単価は高い。下が酒場ということもあり、そういう目的に利用されることも少なくない。


何人かの男達が好奇の眼で彼をみている。上流階級が、ここでそういうことをするのであれば、一目を気にするものだ。だが、彼のコロンの香りは、今から会う女性の為だろう。それを客達はわかっていた。それほど足しげく彼らはここに足を運んでいる。周知の事実と云うものだ。

一人の酔っぱらいが彼に近づく。


「よぉ、兄ちゃん。何か恵んでくれよ」


口止め料の要求だ。

彼らはこれをすることで、男女の利用を口外することはない。もし口外すれば、それをする機会を失うからだ。彼らには永くここを使っていただきたいのだ。だから男も、彼らにイイモノを与える。彼らに利があればあるほど、漏れにくいのだ。そして、彼らも男にしか集らない。なぜなら女に何かあれば、男の機嫌を損ねては、集れなくなるかもしれないからだ。

髭の薄汚れた男に渡されたのは、銀の塊だ。


「おお」

「兄ちゃん俺にも」


男は二、三人にそれを渡した。男は他のものたちの接近は手で制した。


「次回にしてくれ。今は急いでいる。失礼」


約束だぞ、擦りきれた作業着の男達はもとの席に戻って飲み始めた。銀の塊を手にいれた男のところには、数人が集って、彼に酒をせびっている。手にいれたものから酒をおごってもらう、そういう風習が生まれているようだった。


「アタシにも、くれないかい?」


そういって進み出たのは、白いフードで顔を隠した女だ。声が低く、落ち着いている。高いヒールをならし、長い紫の髪がこぼれている。


「とっておきをあげるからさぁ」


袖から紙の包みを出して、フードは男に寄ってくる。男はすり寄るフードに、男は金貨を持たせてやる。フードは満足そうに去っていった。

お祭り騒ぎを始める酔っぱらいを横目に、男は二階に急いだ。


小さなベッドと、小さな机。二つの椅子がこじんまりと置かれただけの部屋に、彼女は椅子に座っていた。

それを確認するや、男の目尻が弛む。一階で見せていたような強気な瞳はそこにはない。男は上に羽織っていた薄汚れた服を脱ぎ捨てると、小綺麗な身形となり、大股で女性のそばに駆け寄った。


「待たせてごめんね」

「ううん、待ってないわ」


覆い被さるような男の腕の中で、女性は微笑んだ。女は男に身を預けて、背中に手を回す。


「ああ、やっぱり君の香りは落ち着くよ」


男が女の首もとに顔を埋めた。女が擽ったそうに身を捩る。男は逃げる女を追いかける。


「ダメですわ。あの方にばれたら」

「今さらだ。僕のせいにしたら良いんだよ」


首もとに噛みついて、男は女を持ち上げた。そしてベッドに放り投げる。安いスプリングが軋んで、男が女に覆い被さった。女の太股がへこむくらい強く押さえつけ、体をそこに滑り込ませる。その時には女はもう抵抗らしい抵抗は見せなかった。

あられもない声が漏れ出ても、従業員達は何も云わない。客達は自分等の大声でそれに気づくこともない。

僅かな逢瀬を楽しむ男と女の邪魔をするものは存在しなかった。


「頼んだこと、やってくれた?」


ひと心地ついた男が、気だるげな女に水を手渡す。女はそれを受け取って、口に含んだ。嗄れた喉に水が染み渡る。


「ええ…でも、大丈夫かしら」

「大丈夫だよ。僕がついてる」


男が甘いマスクで笑いかける。女は不安げに男を見つめるが、男が気づくことはない。


「またお願いできるかな」

「またやるの?無理よ」


女が困惑した顔で男をみた。男は女のその様子に何故損な顔を見せるのか、心底不思議そうにしている。それは幼子のようにも思えた。


「好きだったら、出来るだろう?」

「え?」


女が瞠目する。


「そんな。私、貴方のために出来ることならしたいわ。でも、好きだからって、出来ないことだってあるわ。貴方の要求は何処までも上がっていくから、私、どうしていいか」

「そうか、僕のことがもう好きじゃないんだね、君は」


淋しそうにする男に、女は焦った。


「僕は君のことが好きだから、君の言う通りにしているだろう?君も、僕のことが好きじゃなかったら、乗り越えられないよ」


男のその物言いに、女は愕然としているようだ。だが、男の要求は女には受け入れがたい。だからこそ、女は男を諦めさせようと言葉を紡ぐ。


「私、貴方に頼まれたからちゃんとしたわ。これ以上は、私、怖いわ」

「それは君が僕を愛していないからだよ」

「そんな」


男は何も動じていなかった。女性と男性の力関係がわかる。女は明らかに男に依存していた。そして男は、自分の方が女より余裕があるとわかっているのかわかっていないのか。

子供のような理論を振りかざしている。


「他の皆は、僕のことを理解しているよ。それは僕のことをわかろうとしてくれているからだ。愛している君なら、僕のことを一番に理解してくれるはずだよ。君が僕をわかろうとしないのは、僕を愛してないからだ」


彼のいう他の皆とは、誰を指すのかわからない。だが、それが誰であろうと、男が言いたいのはそれが普通だということだ。

普通が普通でないことは、女にはもう理解できなかった。女はそれほど男に傾倒している。男が黒といえば、白も黒よりのグレーにはなるだろう。ささやかな抵抗を試みる位しか出来ない。そして男は、普通の人だってそうしてくれるのに、特別な君はそれができないのか、と要求を呑まない女に迫っている。男はある種の確信があるのだ。この女が断れない女だと。だから無理難題がいえるのだ。

女の結論など、選択肢など一つしかないのだ。


「ねえ、今度の一回だけでいいんだよ。誰かに責められたら、僕が助けるから」

「…わかったわ」


女が折れた。彼らはいつもそうだ。いつも女が折れ、男は普段から自分が折れている振りをする。


二人の密会に、紫電がはしる。

いつもそれを観ていると、どこか胸くそ悪いものを覚えてしまうのは、誰にも責められないと確信めいたものがある。

男はゆっくりと立ち上がった。酒場の向かいの民家の屋根で、あり得ない聴覚と視覚をもった彼は、うんざりと呟いた。


「ったくゥ、人使いが荒れェよナァ」


耳が痛い。感覚共有なるものは便利でいて不便だ。


「イーフェに残業代請求決定ィ~」


月の光を受けて、白いなにかが屋根から屋根へ消えていった。


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