眉月4


「何だァ?こいつら狂ってやがンのかァ?」


気が抜けるような、気を引き締めるような危険な色を纏った声が、地下水路に響く。


その声にイエライは骨の髄が痺れる感覚に襲われた。生殺与奪の凡てを刈り取るような、圧倒的な圧力。自分がその前にあれば抗う術などない、ただ蹂躙される。この気が抜けたような雰囲気に騙されて油断しようものなら、狂気のような殺意に飲まれるのみだ。


だが、その矛先は自分でないことは知れた。

それは一瞬ほどもない時間だ。

空気を引き絞る音。それが発せられて消える。瞬きの間に、一匹残らず、蝙蝠は地に堕ちていた。


「王子様よォ、無事かァ?」


真っ白な髪に紫の瞳。

真っ白の外套を纏った、ひょろながの男。背が物凄く高いわけではない、細いのだ。

病的にも思えるその男が腕をふるう。少しの明かりに、耳のピアスが妖しく銀色に光った。鞭のように他方に伸ばした武器がしなって、彼の手元に収束される。

返り血を一切浴びずに、それらは地面に落ちて朱い模様を描いた。まるで芸術作品を作り出したかのように、彼はうっそりと笑んでいる。


ぞくり、背筋に冷たいものが走る。彼に対するとき、まるで自分の命が刈り取られる錯覚に、何時までも慣れない。イエライは緊張を堪え、なんとか口を開く。


「ブリオンさん。どうしてここに」

「イーフェのやつに頼まれてよォ。俺ァ安くねェンだが。てェか、ちょっと目を離したら鉄砲玉だなァ、アンタ」

「イーフェさんが。ありがとうございます」


トントン、ブリオンは踵を鳴らした。地下水路の石畳を進んで、ブリオンがイエライに近づく。いきなり顔を覗き込まれ、イエライは少し後退りする。顔が近い。彼は何か匂いをかぐように鼻を動かす。

イエライはぎょっとした。この距離では、鼻がひんまがりそうな、酸味と垢の混じった悪臭、地下水路のどぶの匂いが強烈だろう。


「王子様よォ。お前、色んな臭いすんなァ」


やはり地下水路に落ちたのが不味かった。地上に上がって湯浴みをしても、臭いが取れないかも知れない。


「あァ、ここには縁がなさそうな、甘ったりィ臭いと、大型犬の臭いがするぜェ?」

「え?」


云われたのは予想外のことで、一瞬頭がついていかない。理解しようとする前に背後から水音がして、イエライの意識は音の方へと移った。


ほんのり光が灯っていて、小さな人影がみえた。身の丈の剣を難なく振り回し、光りに浮かぶ蝙蝠が次々切り伏せられ、消えていく。此方へ走ってくる小さな影は、息を切らしながら、蝙蝠を全て片付けてしまった。


「兄上、無事ですか」

「アスト」


アスト・ウェネヌ・カスラーン。

少年期特有の中性的な面立ちに、艶やかな青い短髪。イエライの胸ほどの背丈の少年。イエライとは母親が違う、第四王子だ。彼は青の濃い、明け方前の空色の瞳で、真っ直ぐに此方をみて、眉を潜めた。


「クロード卿、兄上が泥々じゃないか。怪我もして…兄上、痛いですよね?」

「その呼び方、ヤメロ。何度も云うが俺ァ王族じゃねェ。そもそも人間の規則にゃア、縛られねェよ」

「そうか。だが、此もけじめだ。で、早く兄上を治してくれ。兄上は繊細なんだ。破傷風にでもなったらどうする」

「糞ガキが」


ブリオンは犬歯をむき出しにした。頭をかきながら、見えない何かを操った。神器だろう。

イエライは身体が何かに包まれたように感じた。暖かい、そう意識した時には泥と臭い、傷が癒えていく。服にいたっては新品のようにパリッとしている。


「有り難うございます」


イエライはブリオンに礼を云う。すっかり臭いも消え、湯浴みをしなくて良さそうだ。しかも、昨日の痛みまで消えている。

アストがフン、と鼻をならした。


「流石。分解と再生はお手の物だな、師匠。あ、神器の力か」

「ったくよォ、こンのクソ弟子が。イエライ、テメェ、弟にどういう教育してやがンだ」

「アストはいいこですよ」

「兄上…」


ブリオンに対する態度はアレだけど。イエライは声に出さず、胸中で付け足す。

アストがキラキラと潤んだ瞳でイエライの手をとる。


「兄上。僕、兄上のこと守りますから」


怖いもの知らずの弟の手を、イエライは握り返す。

ブリオンはげんなりとした様子で、アストに胡乱な眼を向けた。


真っ直ぐ見つめるアストは、第三王妃の第二子だ。

第一子は夭逝してしまったので、第三王妃の唯一の子供。というのも、第三王妃は武芸に秀でた人で、今は王妃は名目で実質武官に戻っている、異例の王妃なのだ。アストはその血を濃く引き継いでいる。

それで、剣の扱いは九つにして秀逸。体格差をものともせず、大人顔負けの技量を誇る。アストはブリオンに認められている。ブリオンには動けないほどに稽古をつけて貰ってるらしい。たまに母親にも叩きのめされているらしいが。

有り難いことに、何故か異母兄弟のイエライに、デイジー同様に懐いてくれている。


(かわいい)


ほんわかと、自分の口元が弛む。

居てくれるだけで癒しだ。思わず手を握り返して何度も頷く。


「おイ」


ブリオンの冷めた声で我にかえる。

イエライはこほん、と咳払いをした。


「蝙蝠の死体、処分しないとまずいですよね」


云うと、ブリオンがキョトンとする。


「ねェよ」


思わず周囲をみる。

足元に飛び散ったはずの鮮血も、蝙蝠の遺骸も、何もない。イエライが汚した床があるが、それだけだ。元々そう綺麗な場所ではない。だが、蝙蝠の痕跡は一切なかった。


「アレは妖精術の類いだろうなァ」


妖精術とは、マーガが扱う力の事だ。


「ですがあの瞳。邪悪なものを感じました」

「《赤い瞳は闇の眷属。地下からの黄昏の使者》てかァ?」


ブリオンが喉の奥を鳴らす。それが笑い声だと理解するのに時間はかからない。


「迷信ですよ」


自分でも思ったより刺のある声が出て、イエライははっとした。恐る恐るブリオンを窺うと、紫の瞳に愉しそうな光が宿っている。


「ナンだぁ、随分アツいじゃねェか。ティールのとこのガキにでも惚れたかァ」

「兄上、彼女が好きだったんですか!?」

「手紙のやり取りィ、してんだろォ?」

「そ、そんなんじゃありません。何でブリオンさんが手紙のこと知ってるんですか?」


アストの直球とブリオンの暴露に、頬が紅潮する。興味津々な弟と、ブリオンを無視してイエライは深呼吸する。うわずった声を整えて、訊ねる。


「あれが妖精術ならば、誰が」

「さァなぁ。残滓は拾っといたが。イーフェに辿ってもらうかァ」


ブリオンの紫の眼が怪しく光る。新しいおもちゃを見つけた時のそれに似てる。イエライは嵐が過ぎるのを待つしかない。と、その紫電がイエライを捉えた。

嫌な予感しかない。


「あと、イエライ。テメェ肩が使えなくなったらどうするつもりだァ?今回は全部治してやったが、悪化したらどうするゥ?」

「どう云うことだ」


少し固いアストの声。ブリオンはそれを気づいているのだろうに、続ける。


「肩脱臼に背の打撲は、今じゃネェだろ」


昨日の怪我がばれてた。そしてアストに知られた。イエライは止めどなく流れる汗に、気が急いた。無性に居心地悪い暗いこの空間が耐えれない飛び出したくなる。だが、それは許されない。


「…兄上?」

「ごごごごめん、アスト。でもほら、大したことないから」


アストの圧に、イエライは早口になる。それ以上は続けられなかった。アストがあまりにも淋しそうな目をしたからだ。


「大したことないって、決めるのは兄上じゃないです」

「…はい」

「違うよ、怒ってるんじゃない。心配しているんです」

「ごめん」


四つ下の弟に諭される。情けなく思いながら、イエライは眼を逸らす。アストが肩を確認する。


「治ってるだろォが。俺はそんなヘマしねェ」

「今度からちゃんと診てもらって、何なら師匠使ってください」

「わかった」

「おィ聞けや、クズ弟子ィ」

「聞く必要があるのか、カス師匠」


無視を決め込んでいたアストが、急に攻撃する。

ブリオンがあっさり負けた。小さな呻き声をあげて、恨みがましくイエライに弱りきった眼を向ける。


「イエライ、テメェの万分の一ィ、ガキに恥じらいとか持たせろやァ」

「お手数お掛けします?」


何と答えて良いのかわからず、イエライは語尾をあげてしまう。

ブリオンが何とも情けなく眉を下げた。


「ナンだぁ、その疑問系はァ?コイツテメェの云うことしかきかねェンだぞ!?」

「よくわかったな。進歩したか、師匠」

「あああァア」


とうとうブリオンは頭を抱えてのけぞった。そうしてのたうつブリオンに、イエライは呆気に取られる。


「凄いなぁ、アストは」


小声だが心の声が口をついて出て、しまったと思う。アストはそれが聞こえていた。だが、咎めもせず笑う。


「あの人は慣れです。意外と懐広いですよ、師匠は。伊達に何百年生きてません」


何百年云うな、ブリオンの声が空しく地下水路に響いた。


それにしても。アストは傷一つなくあれらを切り伏せていたらしい。あの数を相手にかすり傷一つない。少し見習った方が良いかもしれない。彼が剣を習うようになったのは二、三年前だったか。記憶が朧気で、彼の年頃の自分は、そんなに剣に興味がなかったのだが。


「そういえば、アストってどうして剣を習うようになったの?」


何の気なしに、訊いてみる。自分の背丈ほどの剣を振り回すアストは、イエライの知らぬところで、鍛練を積んでいる。その小さな身体のどこにそんな力があるのか。単なる武官の血だけでは、説明できないような気もしている。


「昔、師匠が兄上をからかったことがあったじゃないですか」


アストの言葉に、イエライは嫌というほど心あたりがあった。

小さい頃、引っ込み思案だった自分は、ブリオンに追いかけられたことがある。

顔を覗かれるとびくびくしていた気がする。それを「小動物みてェでオモシれェー」とブリオンがしつこくやるので、誰かが諌めてくれていた。


「その時ですかね。強くなろうと思って」

「はぁ。情けない兄でごめんね」


イエライは肩を落とした。

地下水路の出口がみえる。ブリオンが先に上がる。続いてアストが上がった。

しばらくして安全を確認され、許可が下りてから、イエライは漸く地上に上がった。青い空に太陽が眩しい。久々の地上に思えて、空気を満喫する。


「よくいうぜ。テメェ、あのとき兄貴の背に隠れてただろうがァ。あいつ震えながら根性だけはあるからなァ」

「内緒ですよ、師匠」


そう、二人がいっていることなど、イエライは知るよしもなかった。

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