繊月1

「きゃああああ」


闇をつんざく悲鳴が、回廊に響き渡る。

それが合図のように、物々しい気配が駆け抜けていった。金属のぶつかり合う音。甲高いそれが、そこかしこで鳴り響く。それが兵士の装備だとわかるのは、怒号が飛び交っているからだ。

低い唸り声、地面を揺らすような声。それは異常を伝えている。回廊の所々に、小さな赤い点がある。血の跡だ。それが途中で途切れて、兵士達は右往左往していた。


「あっちに逃げたぞ!!」

「いや、まだそこにいる、見ろ!」


兵士の目に留まることなく、少年は走った。抜け道を使っての移動はお手のものであったし、何より彼は夜目が効くのだ。


「今だ!」


ガシャン。金属が何かに刺さるような音がして、少年は音の方へと視線を走らせた。

回廊の向こうに、黒い、毛むくじゃらの影が駆けた。遠目には何の生き物か確認することはできない。

その先にあるのは、中庭だ。

影は、一心不乱に直線に中庭を目指した。中庭に躍り出たと思った時には、一瞬で端から端へ移動し中庭を囲む四棟うちのひとつ、両翼の境界となっている、低い棟へ飛んだ。


細い月の光に一瞬照らされたそれはブルーグレイ。詳細な形を捉えることは叶わなかったが、それが少年には確認できた。


「逃がすな!」

「弓引け、弓!」


一気に中庭が騒がしくなる。

兵士が雪崩れ込んで、槍を投げ、弓を引いた。風を切る音が嵐のようにうねる。ついで、地面を抉る音が断続的に複数、闇の中で不気味に響いた。

闇雲に放たれたそれらは獣に傷一つ与えない。予感がして少年は回廊の角を曲がった。

そうして彼は兵を避けて、目的の部屋の前にたどり着いた。一呼吸してからその扉をあける。


「お待ちください、姫様」


部屋に入った途端、叱責する声がして少年は柱の影に隠れる。


出てきたのは、亜麻色の髪を一つに纏めた、上質なお仕着せを身に纏う、しっかりとした印象の女性だ。

その横を少女がすり抜けた。白地に金糸のドレスに身を包み、ふわりと甘い匂いを周囲にもたらす。ドレスと同じ金の髪をさらさらと揺らす少女は、亜麻色の髪の女性から逃げているらしい。侍女は少女を捕まえようとしているようだ。


「いや、いやよ。マーサをさがすの」

「もうお休みになってください」

「けが、してるかも。さむがってるかもしれないわ」


他の侍女達ーー亜麻色の髪の女性の部下達ーーは、それをはらはらした様子で見守っている。彼女達が、普段と様子が違う。よそよそしく他人行儀。緊張感が漂っている。


「そういって、賊に遭われたではありませんか。夜は危険です」

「とにかく、だして」


勝ち気な瞳で正面をきって、少女が一際大きな声をあげた。亜麻色の髪の女性の目元がピクリと動く。


「こんな時くらい、聞き分けてください」


女性はいたって冷静な口調だったが、どこか違和感を覚える。

いつもなら。デイジーの我儘に、彼女は軽く受け流す余裕がある。今はそれがない。何が違うのか。声が、一段階高い。彼女の声色が苛立ちを含んでいるとわかったときに、室内の空気の悪さを感じる。

慌てて、少年は柱の影から出た。


「マーサは僕が探しましょう。リアのいう通り、デイジーはお休み」

「にいさま!」

「まあ、イエライ様。こんな夜更けにお越しになるなんて」


少女、デイジーがイエライに飛び付いてくる。それを受け止めながら、イエライは苦笑した。張りつめた空気が、若干薄らいだ。


亜麻色の髪の女性、リア・コールダー。この部屋の責任者である彼女に、イエライは頭を下げた。


「すみません。騒がしかったから、気になって、つい」

「御身を厭ってください。賊に出くわしませんでしたか?」

「中庭で獣と兵士がやりあっていた、あれですか」

「そんな、ああ…!ご無事で良かった」


リアは胸の前で手を組み、一瞬息を飲んだ。実際に襲われたわけではないのに、リアの様子は大袈裟だ。イエライは何となく申し訳ない気持ちになる。

リアとイエライのやり取りの傍ら、デイジーが放置されて、不満げに侍女に詰め寄った。


「だから、マーサをさがすのよ」

「デイジー、君らしくない。マーサがいなくなるのなんて、しょっちゅうでしょう?」


イエライはやんわりと制した。

リアとデイジーの他に、室内の端に侍女が数名。兵士はいない。柱の影から出て、部屋の全体が把握できたことでイエライは気づいた。よく見知っている侍女の姿が足りない。


「リア。リリーはどこに」

「遠出から帰ってきたところを賊に襲われて。今は救護室で手当てを受けています」


リアの眉が僅かに動いた。このピリピリした空気の原因はそれだろう。室内は一見したところ、なんの損壊もない。回廊に続く扉の敷物に多少乱れがあるか。彼女たちが慌てていたことがみてとれる。


「傷は…大丈夫なんですか?」


イエライが訊くと、壁に固まっている侍女たちの中から一人が走り出た。ショートボブで焦茶髪の女性だ。彼女は会釈して、口を開く。


「イエライ様。リリーは軽傷です。私、救護室につれていったんです。問題なさそうでした」

「ベラ。リリーは獣に噛まれているのよ。軽傷だからって油断できないわ」


飛び出た侍女、ベラを諌めるように、もう一人侍女が出てきて彼女の肩を押さえる。

ラーレだったか。

ストレートの細い髪質で、明るい茶髪をおろしている。侍女は髪を纏めるか、ショートボブまでの長さのものが一般だ。それは動きを制限されないためでもある。にもかかわらず彼女が責められないのは、女性らしい身嗜みを整えた美人であるからだろうか。男性からの意見として、放っておけないような、少し幸の薄そうな顔つきをしていると、誰かが言っていた。確か兄が議員だ。

ラーレがベラを諫める姿を目撃する場面は少なくない。彼女は少し神経質な嫌いがある。ベラはおとなしそうにみえて、快活な女性だ。彼女はしまったと、聞き取れるほどの小声を漏らし、俯いた。


「私、イエライ様を安心させてあげたくて。ごめんなさい」

「ありがとう」


救護室に運んだから安心できるものなんだろうかとか、軽傷だからどうとかも、あまり意味がないことだが、取りあえず気にかけてくれたことにイエライは礼を言う。

情報の真偽が人によって違うことは良くある。眼にしたこと以外は迂闊に信じるものではない。


「ラーレ、そんなにベラを責めないでもいいでしょう?」


予期せず他の侍女が口を挟む。イエライがベラを擁護したと捉えたのか。


「責めてません。私はただ、捻じ曲げて伝えるのはどうかと思っただけです」

「別に捻じ曲げてないでしょう?救護室に行ったのは事実なんだから」

「お医者さまでもないのに、勝手にリリーの怪我を大したことないとイエライ様に伝えるのはおかしいわ。獣にかまれれば破傷風になる恐れもあります」

「そんな細かいことを責められてもね、イエライ様も困ってしまうでしょう」


聞く耳を持たないラーレに味方するものがなく、彼女の風向きが悪くなった。空気がまた悪くなる。

突如勃発した口論に、リアが二回、手を叩いた。


「止しなさい。イエライ様にマーサは任せます。ラーレは私と部屋を整えて。ベラはエルム達と身支度を。姫様がお休みになれないでしょう」

「そんな、にいさまばかりずるい」


デイジーの批難に、リアは臆することはない。年上の女性らしい威厳でデイジーに対峙する。


「イエライ様も明日はお早いのですから、引き留めてはなりません、姫様」

「わたしだってさがせるわ。にいさまにたよらなくったって」


デイジーがぷうと頬を膨らませる。だが、それで終わりだ。彼女の意見は通らない。


リアがベラに指示をし、ラーレと共に隣の部屋に入っていく。寝室を整えるためだ。

ベラがデイジーの寝支度を手に持った。


「さあ、着替えましょうね」


侍女の一人がにこにこと笑いかけながら、デイジーを室内の隅の、カーテンで仕切られた支度部屋へと促した。デイジーは足取り重く、それに従う。

そのあとをついていく侍女は、なかなか入らないベラに、一度入ったカーテンを開けて顔を出した。それでもベラは佇んでいたので、外に出てベラの手を取って支度部屋へ促す。


「どうしたのベラ」

「私、悪いことをいってしまったと思って」

「そんなことはないわよ」


言いながら、ようやく二人は支度部屋へ入っていった。

イエライは退出の時期を逃してしまった。着替え終わってから失礼するか、と部屋の片隅に移動する。


「リリーが戻ってきたら、完治のお祝いをしませんか?そしたら、ラ-レさんも許してくれると思うんです」

「リリーっておとなしい子だから、大丈夫かしら」

「きっと喜ぶわよ」

「決まりですね。私準備します」

「んーーー」


おしゃべりが大事になって、なかなかに進まない着替えに、デイジーが不満の声を漏らす。はいはい、となだめる声が響いた。


「デイジー様。そんなにお転婆ではマーナガルムが来ますよ」

「わたし、こどもじゃないわ」


デイジーの不平と共に、香の匂いがした。焚いたのだろう。それから、衣擦れの音が室内に響く。


「あら、お伽噺と思っておいでですね。史実にもマーナガルムが出るのですよ。そう、姫様みたいな可愛らしいお姫様がいる時に」


すっかり調子を戻したベラの声。滑らかに、言いよどむことなく饒舌だ。

ガタン、と衣擦れの音に混じった小さな音が、カーテンの奥から聞こえた。


「まあ、ベラって勉強家ですわね。流石、お父様も議員ですわね。アジュガ戦記でしたっけ。私、最後まで読んでませんわ」

「エルムはいつもそうね。少しはベラを見習ったら?ほら、姫様が怖がってるからお仕舞いよ。そっちの紐をとって。手元がお留守になっているわよ」


うふふ、と三人の侍女達がカーテンの中で笑いあう。笑いながらも、デイジーの難解な衣服を解いて、夜着に変えていく。


「でもマーナガルムは封印されたんでしょ、ちっとも怖くありません」

「やめなさいエルム。もういいでしょう」


とがめる声は、然し、何処か避難の色が薄い。ベラが他愛もないことのように笑った。


「まあ。でも血も涙もない獣よ。知ってるでしょ」

「そうだったかしら」


エルムが語尾をあげる。ベラは、教えてあげる、と勢いづいた。そうしてアジュガ戦記の一部を諳じる。


「マーナガルムはまず作物を荒らした。けれど飢えは満たされない。次に人間を荒らした。けれど満たされない。物はなくなり人は消え、国が傾きかけた。そしてとうとう《月》を食べてしまった」

「いやっ」

「デイジー様!」


カーテンからデイジーが飛び出した。彼女は端にいるイエライをみつけると、うるんだ瞳を隠すことなく走り寄り、しがみつく。デイジーの背中をイエライは優しく擦った。


「ほら、云わんこっちゃない」

「ごめんなさい」

「ベラも、エルムも、大概にしときなさい」

「すみません」


一人、二人。カーテンから侍女達は顔を出す。その顔は反省の色よりは、困惑の色が濃く浮かぶ。


騒ぎを聞きつけたのか、パタパタと足音がしてリアとラーレが隣の部屋から飛び出してきた。駆けつけたリアは、怯えたデイジーを真っ先に確認した。次いで、侍女を一瞥する。分かりやすく肩を震わせたのは、エルムだ。漸く不味いと思ったらしい。

リアは、侍女達がなにかをやらかしたと察し、ため息をつく。


「あなた達は。申し訳ございません、イエライ様」


リアは米神を押さえ、頭を下げる。

リアの態度に、侍女達は完全に萎縮した。彼女は憮然としたラーレにも頭を下げさせた。統制が取れている。この部屋はリアなしでは行き届かないのだ。

デイジーはすっかり怯えていた。


「大丈夫だよ、デイジー。僕はここにいるでしょう?」

「でも」

「怖い?」


返事の代わりにしがみつくデイジー。ずっとガタガタ震えている。


「消えたり食べられたりしない。約束するよ」

「ほんとうに?」


デイジーが顔をあげた。うっすら涙目で、すがるようにイエライの腕をつかんだ。

イエライはその手を握りしめ、デイジーの手首にある布製の腕輪に触れる。


「ぜったい。ぜったい、むちゃはしないで。あんまりとおくにいってはだめよ」


幼いデイジーが手を差し出す。それはゆびきりげんまんの形だ。イエライはそれに自分の小指を絡ませた。彼女の指は震えていて、絡ませるのに難儀した。


「ウソ、ついたらおこるんだから」

「うん、わかった。約束だね」


ゆびきりげんまんを解いて、ふう、とデイジーが息をはく。デイジーの肩口のリボンがほどけている。というよりは、数本結べていない状態で出てきたのだろう。イエライは、それらを結んでやる。

侍女達が気まずそうにその様子をうかがっている。ラーレは無表情で、不機嫌さを隠しもしていない。


「いいこでお留守番していて。デイジー」


デイジーの震えが収まっていた。イエライはぽんぽんと、頭を撫でてやる。

リアが進み出て、デイジーのそばでしゃがみこんだ。


「姫様。ホットミルクをお入れしましょう」


優しくリアが声をかけて、デイジーは漸く頷いた。しゃがんだリアの手をとる。デイジーはリアに手を引かれたまま、寝室に向かう間に一度振り返った。


イエライはそんなデイジーに笑いかけた。




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