第89話
その夜を急に静寂が包み込んだ。さっきまで騒々しかったのは消え失せて、目の前にあるのはただ俺が美しいと思う唯一の人だけ。
腰掛けた椅子は、ふわふわと浮いている雲みたいな感覚。簡単に砕け落ちそうなのに、しっかり支えてくれている。
「吾朗さんも災難だったね」
「いいや。なんだかんだで楽しかったよ」
心配しているというよりは、少し俺を揶揄っているような声色。不思議と悪い気はしない。
ソレを言ったら美依奈だって災難だ。仕事終わりに立ち寄っただけなのに、宮夏菜子が帰ってくるのを待っていたなんて。律儀というか、何というか。
「美依奈こそ、こんな遅くまで」
「あはは……実は休憩のつもりで寝ちゃって」
「そういうことか。でも良かったよ。休めたみたいで」
「ありがと」
テーブルを挟んで向かい合って座っている。俺たちの間を流れる穏やかな空気には、疲労を忘れさせる不思議な力があった。
美依奈の表情を見つめてみると、やはり疲れているようだ。昼寝したとは言え、簡単に疲労は抜けない。年を重ねれば重なるほど。まだそんな年でもないけれど、精神的な疲れは肉体的疲労を増長させるから。
「でも良かった」
呟くと、彼女の頭の上にクエスチョンマークが浮かんでいた。随分分かりやすいね、とは言えなかった。怒られる気がして。
「どうしたの?」
素直な声だった。俺の声が穏やかだったせいか、変に不安がってはいない。
「連休中は会えないって思ってたからさ」
それは安堵に近い何かだった。
心の中に眠らせていた君への想いを吐露するみたいに、零れ落ちた感情。でも美依奈は、少し寂しそうな顔をした。イマイチ理由は分からなかったけど、それはすぐに解決した。
「ごめんね。ワガママに付き合ってくれて」
そうじゃないんだ。君のソレはワガママでもなんでもない。でもそうやって謝ってくることが、山元美依奈という人間の本質をよく表している気がした。
ふるりふるり、首を横に2回振る。視線が合う。目尻は下がっていて、本当に申し訳なく思っているようだ。そんな顔をしないでよ、と咄嗟に紡ぎそうになったが、あえて堪えた。
「おばかだな。美依奈ちゃんも」
「そ、そんなこと言わないでよ……意地悪」
目線を落として拗ねた様子を見せつけてくる。可愛い。本音を言えばこのまま押し倒したいが、ここは人の家である。流石にそこまで節操無しではない。
「ワガママなわけないさ」
「そう、かな」
「そうだとも」
と言ってはみたが、代わりに紡げるだけの語彙力は持ち合わせていなかった。
別にワガママだとは思っていないし、それが美依奈の仕事だと理解している。けれど「仕事だから」と簡単に割り切ることが出来ない自分が居るのもまた事実だった。
「でも……」
腑に落ちない様子を彼女を見るたびに、やはりこの子は自己評価が低いと感じる。全然そんなことはないのに、全て自分のせいだと思ってしまう。
そして、そんな君のことを支えたいと思ったから、俺はこうしてこの場にいるのだろう。
本当なら、手を伸ばして君を抱きしめたい。でも、そうしてしまったらもう、歯止めが効かなくなるのは目に見えて明らかだったから。
「それが美依奈の夢なんだから」
人間とは不思議なモノで、全く頭の中に無かった言葉が突然姿を現した。言霊となって美依奈の体に吸い込まれていくその様は、非常に心地の良い感覚。
夢、そうだ、夢だ。目標よりも少し先にある最終地。そこに向かって、いま彼女は努力を重ねている。仕事はその糧になっているだけで、決してワガママなんかじゃない。
「夢のために、あなたを蔑ろにしたくない」
でも、そうやって気にかけてくれることが何より嬉しかった。心臓は鼓動を早めて全身に血液を送り込む。比例するように体温が上がっていく感覚だ。
あぁ、そんな顔をしないでくれ。君へ手を伸ばしたくなるだろう。今はだめなんだ。今は。きっとこれから何度もやってくる困難。ここはどうしても乗り越えなきゃいけない場所なんだ。
「そう言ってくれること自体、蔑ろにしてないって証拠だよ」
「……ホント優しいよね。吾朗さん」
「君にだけ」
「うん。知ってる」
笑ってはくれたけど、それはただの照れ隠しであった。俺から視線を逸らして、少し俯く君を見て、相変わらず体の中心は鳴くのを止めない。
それにしても、壁時計の音がよく聞こえる。チクタクチクタクと刻む。残りの人生を切り刻んでいくみたいな音。いずれやって来る終わりを告げる音色である。
あぁ、変にセンチメンタル。夜中なのに、思考は朝を迎えたばかりの爽やかさがある。美依奈は何を思うか分からないけど、今日はこのままお暇するのが一番良いようだ。
「そろそろ帰ろうかな。長居すると宮さんにも悪いし」
美依奈は逸らしていた目線を合わせて、またすぐに逸らした。その意図は俺でもすぐに分かった。
「美依奈はどうする?」
「私は……泊まるよ。夏菜子さん、二日酔いしないか不安だし」
一緒のタクシーで帰ることも出来た。でも彼女の優しさというか、気遣いを無下にするのも違う気がする。それに美依奈が泊まるのは客観的に見ても普通。俺が居座るのは違うだろう。
「そっか。遅くまで付き合ってくれてありがとうね」
「ううん。私の方こそ」
椅子を引いて立ち上がる。床と椅子の脚が擦れる音が響いた。少し雑にやり過ぎたと反省する。
そのせいか、妙に足音を立てないように歩いてしまう。ゆっくり足の裏が床に着くたびに、見送りに来てくれた美依奈の甘い匂いが鼻を抜けていく。
靴を履こうと足を伸ばす。
その時だった。着ていた服の裾が何かに引っかかる。慌てて半身振り返ると、その原因は彼女にあった。
「美依奈?」
彼女の左手は、確かに俺の服に伸びている。問いかけても何も言わない。ただ指先に残る力はキュルリと回転数を上げていく。その熱で服を溶かしてしまいそうだ。
振り払うのは悪いと思ったから、その手を優しく掴んで包み込む。「どうしたの」と甘えた声で再度問いかけると、彼女は紅潮させた頬を俺にハッキリと見せつけた。
「――ギュッてして?」
ハートの波がやって来る。熱とともに。それはそれは俺の心を奪い去る。少し落ち着いていた体の中心は、エンジンを再加速させるみたいに鳴った。
脈打つ。頬の紅潮が伝染する。けれど、それを拒む理由はどこにも無かった。両の手を広げて、僕が誰よりも大切な君を体の中に包み込む。
手を締めると、その細い体が伝わってくる。腰に手を回してくれる君のその、小さくて大きな恋心を確かめるみたいに。
決して大きくはない胸も、スラリと伸びた黒髪も、白くて細い脚も。その全てが愛おしくてたまらない。
「どきどき言ってる」
「そりゃそうなるよ」
「うん」
俺の胸に顔を埋めている彼女は、まさに感情を把握しているのと同義である。不思議と今は悪い気はしなかった。
これもある意味、山元美依奈のワガママ。でもこれでいいんだ、これで。彼女が辛い時、素直に吐き出せる環境を作ってあげることが、なによりも大切だから。
つくづく、互いの家じゃなくて良かったと思う。じゃなきゃ、このまま押し倒していたに違いない。その代わり、彼女を包む力を強くする。
「痛い?」
相手の体がビクッとしたから、思わず力を緩めた。けれど、美依奈は首を横に振って否定する。
「すごく、暖かい」
心が満たされていく。この夜に。
あぁ、くそ。帰りたくなくなる。このままずっと、君のことを抱きしめていたいのに。
気持ちを押し殺して、名残惜しさだけが二人の空気を包む。紅潮した頬は変わらない。互いに近づいていく感情。でもそれは、ガラリと鳴った
苦笑いしながら介抱する君。俺に目配せして帰っていいよと笑う。その笑顔は、とても赤かった。
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