第86話


 ゴールデンウィークが始まったとは言え、見事なまでに予定が無い。地元の友達と遊ぶとしても、上京してきた自分には手間と時間がかかる。

 それに、慣れない仕事のせいで心に疲労感が溜まっているのも事実。帰省する気にはなれなかった。移動で色々と擦り減るのが目に見えていたから。


 連休初日の今日は、一人で飲み歩きたい気分だった。普段は誰かと飲みに行きたいタイプだが、昨日新木さんに連れて行ってもらったからその欲は無い。

 明日のことを気にしないでいいせいか、家でジッとするのは勿体無いと感じてしまう。仕事に忙殺されている自分の心を露骨に表す感情。充実していないと認めたくない自分とのせめぎ合いの中で、酒に逃げるしかないボキャブラリーの無さが情けなくもあった。


 いつの日か部長に連れてきてもらったバーで、片手にはよく分からないカクテル。単語帳に書かれていてもきっと馴染む。電車の中で暗記していたあの子学生時代のことを思い出した。ふと。いま何してんだろ。まぁいいや。

 一人で飲むのも悪くない。カウンターには俺と少し離れたところに女性二人組。カクテル色した甘い口内に身を委ねて声を掛けようかとも思ったが、今はそんな気分じゃない。

 ならどんな気分なのかと聞かれたら、何とも言えない。脳裏にあるのは、昨日話した新木さんと、その想い人である山元美依奈の顔。


「いいなぁ……幸せそうで」


 カラリと氷も落ちない。そんな程度の力しか無い独り言である。口は甘くとも、胸の内は相手が居ない切なさでため息だらけ。

 あんな振られ方をしたのは初めてだった。家に行ったら俺よりもデカい男が出てきて、思い切りメンチ切られて。そそくさと逃げてしまった自分もダサいが、裏切られたのだから彼女に対する恋愛感情が一瞬で冷めたのも本音としてある。


 とは言えだ。冷めたまま放置された感情は冬の冷気に当てられて氷の膜となって俺の心を覆い尽くす。それがようやく春の風によって溶けかけていた。

 そこにやってきた異動。忙しなく心が揺れ動いているせいで、最近はやたらと体の疲労が抜けない。若さはどこに行ったのかと問い詰めたくもなる。


「すみません。ビールありますか」


 甘いカクテルに悪酔いしそうになったから、飲み干す前にバーテンダーに声を掛けた。俺と同世代であろう彼は瓶ビールをグラスに注いでいる。ジョッキで飲みたいんだけどな。



「――私にも彼と同じのを頂戴」



 声がした方をチラリと見る。入り口から俺の方にやってくるその人は、まさかこんなところで会うと思ってもいなかった人である。


「今晩は。藤原さん」

「ど、どうも……」


 思わず吃りそうになったが、なんとか平静を装った。本当になんとか。


「一人なんて。寂しいのね。あなた」

「……お互い様じゃないですか」

「それもそうね」


 初めて会った時よりも伸びた髪が妙に色っぽく見えた。この夜に沈んだ空間には、少し明るすぎる色が気になるが。

 了承を得ることなく俺の隣に腰掛けた彼女――宮夏菜子は、春用のコートを脱いで椅子の背もたれに掛けている。香水の香りだろうか。仕事で会った時にはしなかった甘い匂いが鼻を抜けた。


「ここでビール飲む人、初めて見たかも」


 彼女がそう言ったのは、グラスに注がれた黄金色が俺の手元にやってきたからである。


「いいじゃないですか。メニューにあるんだし」

「そういうことじゃなくて。空気が合わないでしょ?」

「……そうですかね」


 程なくして彼女の手元にも同じモノがやって来た。ジョッキじゃないせいか、並んでいるソレを見ると違和感しかない。彼女が言うことも分かる気がした。少しだけ。


「折角だから乾杯しましょ。不思議な出会いに」

「……そうっすね」


 甲高い音色は一人だと絶対に聴けない音だ。今日は耳にすることないと思っていただけに、変な感覚がした。

 喉を落ちていく庶民的な炭酸の味。やっぱ俺にはこういうのが合っている。変に背伸びするんじゃなかったよ。本当に。


「あなた、よく来るの?」

「いや。一回だけ連れてきてもらっただけです」

「なら今日はどうして?」

「……一人で飲みたい気分だったんですよ」

「あらそう。ならお邪魔かしら」


 意地悪な聞き方をしてくるなって思った。俺に何を言わせたいのか分からないけど、一人で飲むよりは幾分マシだろうと判断する。


「別に大丈夫ですよ」


 片手で数える程度しか会ったことない相手ではある。そこにはいつも、俺の隣には新木吾朗が居て、彼女の隣には山元美依奈が隣で輝いていた。

 けれど、今日はたった一人。見慣れていないせいか、妙な緊張感が襲ってきた。宮夏菜子は俺にとっても取引先と言っていい。無下にする理由はないのだ。途端に思考が仕事っぽくなったが、暇なよりはいいか。


「宮さんはよく来られるんですか?」

「ん、まぁね。それでも久々だけど」

「へぇ。今日はどんな風の吹き回しですか?」


 細い指でグラスを喉に向けている彼女は、俺のそんな質問に少し微笑んだ。


「あなたと同じ」

「……なるほど」


 誰にだって一人で飲みたい日はある。それが偶然重なったというわけだ。出来ることならもっと若い人が良かったな、なんて口にしたら会社に告げ口されるだろうからやめておこう。


「でもいいですか? 僕なんかと話してて」

「いいんじゃない? 適度に知らないぐらいの人だから」

「まぁ……確かにそうですね」


 なんとなくだったが、彼女の言う言葉の意味が分かった気がした。気を遣う相手ではあるけれど、何がなんでも話をしなくちゃいけないというわけでもない。

 要は、無害な相手ということだ。不思議だな、だって彼女は取引先であるのに、そう思ってしまう自分が居るのだから。でも、宮夏菜子の言葉に同調するほかないぐらいにしっくりときた。


「……よく分からないものね。人のために動くっていうのは」


 らしくないなと思った。全然この人のことを知らないのに、そんな言葉は似合わないと言いそうになった。


「あなたならどうする?」

「何がでしょう」

「どうするのが一番いいのか、迷った時」


 「随分抽象的な質問ですね」俺がそう言うと、彼女は「確かにね」と笑った。それ以上は何も言わなかった。

 気にする素振りを見せず、ただビールを飲み干す彼女。その態度を見れば、答える義理は無いということだろうか。ただこのまま話を切り上げるにしては、あまりにも中途半端な気がした。

 何より、言葉の真意が気になった。それはきっと、俺が知らない世界のことだろうから。あぁ変なところで新木さんに触発されてるなぁ。そう思ったところで、この感情は変わりそうにもなかった。


「まぁ……」

「あぁ答えなくていいの。忘れて」


 と言ってくれたが、喉までせり上がってきた意思はもう止められそうになかった。


「自分を信じますかね。とりあえずは」


 大層なことはしたことがない、その辺に居る若造の言葉である。自分でも思ったが、薄っぺらいったらありゃしない。説得力なんてどこにも無い。ただ表面しか見えない言葉。

 それなのに、俺よりもたくさんの経験をしてきたであろうこの人は、少し驚いていた。


「なるほど。良いこと言うじゃない」

「そうですかね……自分で言っておきながら説得力ないですけど」

「そんなことないんじゃない? 言われてハッとしたよ。私だって」


 何に悩んでいるのかは分からないが、言われてみると確かに顔が明るくなったような、なっていないような。

 灯台下暗しというか、原点に立ち返るというか。まるでそういう感覚を思い出したかのようだ。思いがけない反応だったから、妙に恥ずかしくなってビールを一気に流し込んだ。


「まぁアレですよ。新木さんが居るから大丈夫でしょう」

「あら、随分適当ね。それがあなたの本音?」


 「どうでしょうね」と笑ってみせると、彼女もまた笑った。色々抱え込んでいるらしい。俺の失恋なんてどうでもいいぐらいの大切なモノをたくさん、その胸の中に隠している。


 チラリと視界に入るまっさらなグラス。喉はまだまだ黄金色を欲している。


「ビールのおかわりを」

「ふたつね」


 この不思議な夜は、まだ終わりそうにない。


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