第83話
家に帰ってきた時には、22時を過ぎていた。打ち合わせが長引いてしまったこともあって、体のよりも頭の方が強い疲労感を訴えている。
夏菜子さんは私の顔を見るなり、呆れたように笑った。その真意を聞くと「あなたより先に彼から教えてもらった」とまた笑われた。本当は自分の口から伝えたかったけど、彼なりにケジメをつけたかったのかもしれない。私より先に矢面に立ってくれた事実が嬉しくもあった。
お風呂を溜めようとも思ったけど、時間も遅い。その思考はすぐに消え去って、簡単にシャワーで済ませることにした。
ベッドに潜り込んだ時には、すでに23時を回っていた。お湯を全身に浴びて、石鹸に包まれたことで汚れと一緒に疲労感も浮き出てきたみたい。同時に、それは私を眠りに誘う格好の材料となって、瞼に重く重くのしかかってくる。
スマートフォンが鳴ったのはその時だった。どんなに眠くてもソレには反応してしまう。サクラロマンス時代の経験である。画面に表示された名前を見て、思わず口元が緩んだ。
「もしもし」
「あ、ごめんね。夜遅くに」
「ううん。どうしたの?」
夕方まで一緒に居た彼だった。こんな夜に電話をしてくるようなタイプじゃなかったから、少し驚いた。
「いや……ちょっと共有しておきたいことがあって」
「え……?」
さっきまでの眠気が吹き飛ぶ。そんな言い方をしてくる段階で、ポジティブな話題ではないとある程度察したからだ。でも心当たりが全くないから、どんな言葉が飛んでくるか全く予想できない。
ドクンドクンと心臓が鳴る。彼から告白された時は全然違う不快感。首元まで被った毛布を剥ぎ取って、上半身を起こす。枕元に置いていた電気を付けて、眠るモードだった体を叩くように。
「あのさ……ハナチャン居るでしょ?」
「ハナチャン……?」
私も知っていることを前提とした聞き方だ。たぶん人の名前なんだろうけど、いまいちピンと掴めない。
――実は華ちゃんと来る約束してたんです。
あぁそういえば。雪ちゃんに会った時もそんなことを言われたっけ。
彼が言うハナチャンが村雨華である可能性を考えた。彼は元々サクラロマンスのファンだったわけで、その厚意を私は利用したのだ。
だから、もしそうだとして。心がざわつくのを堪えられなかった。ただでさえ電話口の彼はネガティブな空気を醸し出しているのに。
「村雨華ちゃんのこと……?」
「うん、そう。その華ちゃん」
ドンピシャだった。冷静に考えれば彼の口から出てくることに何の違和感もないんだけど、やっぱり胸が痛い。私以外のメンバーの名前を出されたせいだろうか。
グループアイドルの宿命でもある。一緒に盛り上げていく仲間であることには違いないんだけど、同時にライバルでもあるわけで。心のどこかではファンを取り合おうと躍起になっていたのも事実である。
(あはは……意外と嫉妬深いんだな、私って)
けれど今は違う。一人になって、周りは全員ライバル。だからファンを取るか取られるかっていう身内の争いは少なからず存在しない。そこにあるのは紛れもなく、ただ純粋すぎるほどの嫉妬でしかないのだ。
私の好きなこの人が、私が知っている女の子の話を切り出しただけでムッとしてしまうぐらいに。私は――あなたのことを好きになってしまったの。
「華ちゃんがさ……俺たちのこと見てたらしくて」
「へっ?」
「カラオケの後、マスターに会いに行ったら尾けられててさ。問い詰められたんだ」
話が急展開すぎて、付いて行くので精一杯だった。
「え、華ちゃんに会ったの?」
「会ったっていうか、会いに来たっていうか」
「ふーん……」
「問い詰められたけど、誤魔化しておいたから」
私としてはそこまでして隠す必要はないと思っていた。というのも、やっぱり出来ることには限界がある。無理をしたところで、必ずどこかで歪みが出てくると直感的に感じていたから。
現に、彼にはひどいストレスを味合わせてしまったと申し訳ない気持ちが心の中を覆いつくしていく。交際を始めるにあたって、ルールを決めていなかった私たち二人の責任ではあるけど、それは私の方から気遣うべきだった。
華ちゃんがどうして私たちのことを勘付いたのかは分からないけれど、彼女の行動には納得する。だって昔からそうだったから。気になったことは自分の足で直接確認しないと気が済まない。何度か冗談で「ジャーナリストとか向いてるんじゃない?」なんて揶揄ったこともあるぐらいだから。
「ごめんね。巻き込んじゃって」
「いやいや。びっくりしたけどさ、覚悟してたことだし。いい予行練習になったよ」
「直撃される前提じゃん」
「あはは。確かにね」
タコ糸みたいな細い何かでキュッと胸を締め付けられた感覚だ。たぶんこの先も、あなたは同じことを言って笑ってくれる。でもそれが、その優しさがこんなにも苦しいモノになるなんて、告白された時は思ってもいなかった。
ねぇ、吾朗さん。あなたはずっとそうやって寄り添ってくれるの? 私は何もできないのに、そうやって笑いかけてくれるの?
「――励ますよ。ずっとずっと」
「へっ……?」
言葉として投げかけたわけじゃないのに、私の胸の中を覗き込んだような声が飛んできた。やっぱり優しくて暖かい、それこそずっとずっと隣に居てほしいぐらいの。
「本当に気にしてないからさ。大丈夫。大丈夫だから」
「……うんっ。ありがと」
ずっと甘えっぱなしなのは良くないから、私もあなたを支えられるようにならないと。でも今はまだ、何もしてあげられないのが現状。こんなネガティブなことばかり考えてしまう面倒な女だから。
「あのさ」
「ん? なに?」
彼はそう言って少し黙る。ただ言葉を急かす気にはなれなかった。
なんとなくだけど、私に対する感情を丁寧にまとめてくれている気がしたから。私のこういう予想はたいがい外れるんだけど、不思議と外れる気がしなかった。
「華ちゃんを近くで見たけど――やっぱり美依奈が一番可愛いなって思ったよ」
大して大きくない胸が鳴った。痛いぐらいにジンジン響いて、体が鐘になったみたいに振動が心の芯まで伝わってくる。
告白とはまた違う嬉しさがあるなぁ。少し恥ずかしそうに言う彼が可愛くて可愛くて、あなたの胸に顔を埋めてしまいたい。そうしたら腕を背中に回してくれるかな? そうしてくれたら嬉しいな。なんて、枕に顔を埋めながらそう思う。
「可愛いだけ?」
「美依奈の方が綺麗だね」
「……ごめんやっぱなし」
「なんでさ」
「なんでも」
自分から求めておいて、何の恥ずかし気もなく言われたからだよ。私の方が恥ずかしくなって顔が真っ赤に染まっちゃってるんだから。化粧を落としているこの顔は、私が一番見慣れているはずなのに。それなのに、まるで別人みたいにキラキラしていた。化粧をしていないのに。
電話して10分程度の会話なのに、体感では2分ぐらいに感じられた。明日は彼も仕事だろうから、早めに切り上げないと迷惑をかけてしまう。だから終わるタイミングを見計らっていたけど、彼がそれを許してくれなかった。まるで終わる隙を与えないようにしているよう。
「少しビデオ通話しない?」
「……今はだめ」
「顔が真っ赤だから?」
「……ばか」
すっぴんだからだよ、とは続けなかった。彼の言葉を否定する権利は今の私には無いし。それでも、彼の提案を受け入れたい気持ちは少なからずあったわけで。
「終わりたくなくなるから」
「えっ?」
「ずっと話してたくなるから、だめなの」
「……可愛すぎだろ」
私の恥ずかしさを吸い込んだ枕は、どことなく熱を帯びているような気がした。少しの間だけ、と意を決してあなたの顔を覗き込む。いつもはしていない眼鏡を掛けていて、また心臓が鳴った。
「可愛い」
あなたも顔真っ赤じゃん。そう言うと「酔ってるだけだよ」なんて言う。そんな下手な嘘は通じないって知ってるくせに。
でも、こういうことをきっと、幸せと呼ぶんだろうな。
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