第80話
「今日は楽しかった。ありがと」
「こちらこそ。仕事、無理せず頑張ってね」
「うんっ」
彼女の歌声を間近で聴くことが出来た俺は、本当に幸せ者だと思う。サクラロマンスの曲も歌ってくれたし、リクエストにも答えてくれた。良い子だなあ、としみじみ思う。
カラオケを出た俺たちは、そのまま駅へ直行した。本当なら一緒に晩飯を食べたかったが、彼女の仕事をほったらかしにするわけにはいかない。別に今日でさよならじゃないんだからと、自分自身に言い聞かせた。
「そうだ。マスターに顔見せたら?」
改札を目の前にして、彼女が突然そんなことを言い出した。なんの前触れもなかったから、思わず目を見開く。
「どうしてさ」
「会いたがってたよ」
「昨日も会ったんだけどね」
「……そうなの?」
「うん、まぁ」頷いてはみたものの、何処となく後ろめたい気分である。別にやましいことはしていない。むしろその逆だ。
君に連絡しようかしまいか、あるいは君からの連絡が来ないかジッと待っていただけの昼。実りがなかったといえばその通り。だからこそ、いま彼にどんな顔をして会えば良いか分からなかった。
常連だからこその恥ずかしさ。要は、それが全身に広がるのを毛嫌いしているだけなのだが。
「にー」
「ちょ、なにさ」
彼女の細い指が、俺の右頬を少し伸ばした。全然痛くはないんだけど、心に染みる。抱いていた恥ずかしさのベクトルが、マスターから美依奈に移ったようだ。
「ふふっ。恥ずかしがらないでいいのに」
「いや人目があるし……」
「そうじゃなくて。マスターは気にしてないと思うよ」
「……そんなモノかね」
「うん。そんなモノだよ」
そう笑うと、伸びていた右頬が戻った。回らなかった滑舌が帰ってきた嬉しさよりも、細い指が離れていく寂しさがある。
「明日からまたお仕事だね」
「うん。行きたくないけど」
「無理しないで頑張ってね」
「ありがと」
人間とは不思議なもので、やりたくないことでも好きな子から背中を押されるとやり切れる自信が芽生える。久しく味わっていなかった感覚は、気持ちをほんの少しだけ若返らせてくれた。
「それじゃあ、またね」
「うん。また連絡するよ」
反対方向だったから、一緒の電車には乗れなかった。階段を登って彼女の居ないホームに降り立つと、猛烈な寂しさに襲われた。
これまであの子と会っていた時には姿を見せなかった気持ち。たったの2時間ぐらいでお別れするのは、やっぱり苦しい。
向こう岸は電車のせいで何も見えない。乗り込んでスカスカの車内に安堵した。
(……晩飯食って帰るか)
このまま自宅の最寄りまで帰ろうかとも思ったが、美依奈からあんなことを言われたら妙に気になる。
それに、何処となくカレーの口になってきた。このままあそこに寄って、明日の仕事に備えるか。
電車の揺れが心地良くなって来た頃に限って、目的の駅に着くものだ。閉じかけた瞼を擦って、そのままホームに降り立つ。通勤で使っている駅だから、新鮮さはどこにもなかった。
改札を抜けて、少し歩く。日曜日の夜だからか、車の通りが少しあるくらいで、いつものような活気はなかった。その空気がよく似合うのが、彼の喫茶店である。
「うーす」
カランと鳴るベルに、俺の気怠そうな声は全くと言っていいほどマッチしない。相変わらず、店内はガラリとしていた。
「……なんだお前か」
「一応、客なんですけど」
「はいはい。カレーでいいか?」
「あとコーヒーも」
客の要望を聞こうともしないのはどうかと思うが。まぁマスターとの付き合いも長いから、別に気にすることもない。彼も俺だからそんは態度を取ったのだろう。
老眼鏡を外して、ダルそうに俺の前から姿を消す。何か書いていたらしく、彼が腰掛けていた場所には万年筆と紙が乱雑に置かれていた。カウンターから覗き込むのは気が引けたから、それ以上何もしなかったが。
(……歌詞書いてたのかもな)
結局のところ、彼がソレを引き受けたのかは知らない。宮さんに聞かないと分かりようのない事実であったが、なんとなくそんな気がした。
「コーヒーは食後でいいかい?」
「えぇ。それでお願いします」
「はいはい」
ポケットからタバコとライターを取り出して、火を付ける。カラオケに居る間は全く吸う気が起きなかったから、別に吸わなくても良いんだろうけど。でも、そもそもこの店の空気がタバコの味がするわけで。鼻を抜けると、忘れかけていた欲が顔を覗かせた。
(タバコ、辞めようかなぁ……)
彼女がどう思っているのかは知らないが、タバコの匂いはよく思われないのが普通。これまでは友人として接していたから気にしてなかったけど、恋人になってしまえば話は別だ。
そう思い始めると、火を付けたばかりのタバコも気が進まない。時間とともに短くなっていくだけで、いつもみたいな勢いは無くなっていた。
カラリと鳴った。その音色は、俺がついさっき奏でた音に似ている。グラスに詰め込まれた氷が崩れた音ではない。ただ来客を知らせる店側にとって良い音色である。
ドアの方に視線をやる。そこに立っていたのは、一人の女性だった。髪の長い、丸眼鏡の女の人。妙に見覚えがあったが、それに気づく前に彼女はカウンター席に腰掛けた。
「……いらっしゃい。お一人?」
「はい。コーヒーを」
俺の二つ隣に座っている彼女は、肩に掛けていたトートバッグを空いていた隣の椅子に置いた。やはり見覚えがあった。そう、それもすごく最近の記憶。この人は、俺のICカードを拾ってくれた人ではないか。
――けれど、ここで声を掛けたところで何になる。俺がそう思っているだけで、ただ雰囲気が似ているだけかもしれない。加えて、ナンパっぽくなるのが嫌だった。
(まぁいいや)
余計なことだ。美依奈と出会う前だったら、それこそナンパしていた可能性もゼロじゃない。でも今は全くそんな気が起きなかった。極論を言うと、山元美依奈以外の女性に興味がなくなっていた。うん、健全だな。きっと。
妙にストレスっぽく感じたせいか、薄く伸び切っていたタバコの欲が少し厚くなってきた。灰皿に落ちる灰が大きくなるたびに、心のメッキが剥がれていきそうな錯覚に陥りながら。
「――あの」
2時間前と同じだった。どうでも良いとポイ捨てした胸がざわついていく。
するりと落ちていく灰。人差し指にこびりついたその苦味は消えないまま。声に反応すると、彼女は横顔を俺に見せるだけで、何も言葉を紡ごうとはしなかった。話しかけておいて。
「……あの?」
彼女と同じ言葉を繋げた。けれど、その意味はまるで正反対。少し苛つきながらも、だいぶ優しく言い切った自分を褒めて欲しいぐらいだ。
横顔は揺れることもない。反応が無い。何かを言いたいのはそうなんだろうが、それは俺に対して気を遣っているのかなんなのか。いずれにしても進展は無い。
タバコの煙に逃げると、さっきより味が重く感じた。ほんの30秒前なのに。それだけ強いストレスを感じたとでも言うのか。
こういう時に限って、マスターが戻ってこない。居心地が良いからここに居るのに、こんな気まずさを味わう為に来たわけじゃない。
根元まで吸ってしまったタバコを灰皿に押し付けると、曲がりどころが悪くて指に熱が伝わった。思わず漏れた声。お手拭きに触れて誤魔化すけれど、絶対火傷してるなこれ。痛いもん。
「――あなたは」
「はい?」
痛い。指が熱くて、それが心臓にまで達しそうなぐらいに血管を痺れさせる。
指にこびりついた苦味は、その熱で消え失せようとしていた。美依奈との甘い記憶がどうにかしてくれるんじゃないかって思ったけれど、現実はそう甘くはないらしい。
「桃花愛未、いや、山元美依奈さんとどういうご関係なんですか」
そうやって、カラオケの前に居た俺たちの写真を見せてきたのは、夢だと思いたい。
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