第79話
駅前は随分と賑わっていた。明日から忌々しい平日が再開するというのに。いやだからこそ、この活気はまるで現実からの逃避行なのかもしれないな。
少し歩いて、約束の時間まで少しあることに気づいた。ちょうどいいや。ここでお金を下ろしとくか。
と言っても、近くに銀行がない。仕方ない、コンビニで済ませるか。休日だと手数料かかるからもったいないんだけど、財布が薄いと少し不安なのもあるから。
すぐ近くのコンビニに入ると、そのままATMへ直行。お金を引き出して財布に入れると、スマートフォンが震えた。相手は山元美依奈である。
「美依奈? どうした?」
「あ、今着いたんだけど。もう少しかかる?」
「ああ、いや。近くのコンビニ寄ってたからすぐ行けるよ」
「そっか。分かった。待ってるね」
そんな連絡を終え、その足でコンビニを後にした。美依奈のあの口ぶりだと、彼女もどこか寄りたい場所があったのかもしれない。それを察してやるべきだったと密かに後悔した。
すれ違う人々は、これから俺がアイドルとデートをするなんて知らないだろうな。世の中、本当に分かったもんじゃない。「まさかお前が!?」なんて言われるタイプであるのは間違いないから。
「ごめん! 待った?」
約束通り、美依奈はカラオケ店の前に立っていた。眼鏡とマスクをしていて、一見して山元美依奈だとは気づかない。まぁ知ってる人が見たら気づくぐらいの薄い変装であった。
「ううん。ちょうど今きたところ」
「よかった。入ろうか」
「うんっ」
ここに突っ立っていればそのうち気づかれるはずだ。というか、彼女は一人でここに立っていたわけで、もうこの光景を見られていても不思議ではない。
あぁ、少し軽率だったかなぁ。俺は彼女がアイドルということは気にしないけど、浮き足立っていたのは事実としてある。こうやって人目につくところで遊ぶのはまだ早かったかもしれないな。
日曜日の夕方ということもあって、カラオケ自体は混み合っていた。けれど、運良く待ち時間もなく入れそうだった。
「この後の予定ってどう?」
「夜から打ち合わせなんだ」
「なら……2時間ぐらいで?」
「うん。大丈夫」
腕時計に視線を送りながら、店員にその旨を告げた。俺の横に立っている彼女。チラリと視線をやるだけで胸が鳴る。山元美依奈であるのに、かつての桃ちゃんのように見えてしまうのも隠しきれない現実として襲い掛かってきた。
彼女と二人きりのカラオケなんて、ファンだった頃ですら想像したことがない。冷静に考えて、中々にマズい状況である。俺の理性にとって。
いやいや待て。俺だってもう大人だ。32歳、今年で33になるいい歳したオッサンだろう。こんなことで理性を維持出来ないなんて恥でしかない。
「吾朗さん?」
「え、あ、どうした?」
「どうしたって……部屋行こ?」
俺がボーッとしている間に受付が済んだらしい。懐疑的な店員の視線から逃げるように、苦笑いしながら彼女の背中を追った。
(………ん?)
ふと振り返る。また彼女から催促されると分かっていたけど、そうしたくなる明確な理由があった。
「もうー吾朗さんってば」
「あ、あぁごめん! すぐ行くから」
角を曲がろうとしていた美依奈が、呆れたように言う。半身振り返ってそんな詫びを入れるけれど、彼女を待たせるわけにはいかない。
でも、妙に気になった。なんとなく、背中に視線を向けられていたようで。
俺はそんな気が回るタイプではない。周りの人間が自分のことを見ていても何とも思わない方である。けれど、愛する彼女と二人で居るだけでこんなにも気が張るなんて。
(何ビビってんだ俺……!)
あんな大見得を切っておきながら、やはり根は変わらないのだと痛感する。実際のところ、振り返ったところで誰も俺のことを見ていないし。要は「お前の気にしすぎた」と言われているも同然である。
何事もなかったように、曲がろうとする美依奈に合流する。そして目的の部屋はすぐ近くにあった。
ドアをくぐると、カラオケ特有の籠った匂いが鼻を抜ける。心地良くなくて、美依奈の髪の毛に顔を埋めたくなったが、必死に堪えた。
部屋の電気を付けて、カバンをソファの上に置く。さっきまでの出来事を忘れるように背伸びをする。背骨は鳴らなかった。
「美依奈歌ってよ」と言おうとしたまさにその時、彼女は俺の隣に座ってキュッと袖を引っ張ってきた。
「え……?」
ウブな男子高校生みたいな反応しか出来ない自分がとても恥ずかしかった。けれど、彼女は少しだけ目を伏せて何か言いた気である。
「どうかした?」と聞く前に口を開いたのは美依奈の方だった。今日は先手取られてばっかだな。
「落ち着きない」
「あぁいや。なんでもないから」
「なんでもなくない」
「……美依奈?」
怒っているとは少し違う、でもその言葉にはマイナスな気持ちが込められていた。
言われて気付いた。彼女は純粋に俺と会うことを楽しみにしててくれたんだと。
いや、俺だってそうだ。君に会えることを心から待ち侘びていたし、今こうして隣に居ることが出来て幸せだと感じている。その気持ちに嘘はない。本心百パーセントの感情だ。
「ごめんな。確かに、ちょっと周りを気にしすぎてたよ」
「ううん。私もごめんね。気を遣わせちゃって」
ここで一つ言えるのは、美依奈が謝ることではないということだ。彼女の立場上、恋人の存在はマイナスポイントになりかねない。けれど、作ってはいけないというルールは無い。
それでも、心の奥底では戸惑っている自分が居るのだろう。アイドルは恋愛禁止という固定観念を見てきた経験があるとなおさら。
俺たちはそれを乗り越えると約束した。昨夜の告白は、その覚悟を示したと言っても良い。きっと美依奈にも伝わっているはずだ。
多分だけど、これから先もこうやって悩むことは無くならないと思う。俺たちだって人間だ。変なことを考えて、その輪廻に陥ることは誰だってあるのだから。
「ふぁっ」
俺が美依奈の頭に手のひらを重ねると、彼女は随分と可愛らしい声を出した。これぐらいしてもいいだろう。恋人なんだし。
「大丈夫。じき慣れるから」
「……うん」
「俺はそんなの承知で告白したんだから。絶対に君を手離さないよ」
「……えへへ。ばか」
目を逸らして、口元を緩ませる彼女。
いやでも――マジ可愛えぇ。可愛すぎるって。語彙力無くなっちまうぐらいにずっと見てられる。このまま押し倒してしまえば色々ともう歯止めが効かないだろうな。
「うし! 歌うか!」
「うん。久々だから緊張するっ」
「ははっ。そうは見えないけど?」
「これでも緊張してるんだよー」
部屋に入ってから5分ぐらいだろうか。ここでようやく、俺がマイクを握った。
ウキウキな彼女を横目に、俺まで顔が緩んでしまう。君の隣にずっと居ることが出来るのなら、これ以上幸せなことはない。だから俺は絶対に手離さないし、手離されないように頑張らないと。ねぇ、美依奈。
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