第78話
彼女から連絡が来たのは、ちょうど駅の改札をくぐろうとした時だった。
まさにICカードをかざそうとしていたから、後ろに居た人からすれば急ブレーキに感じられたと思う。実際あまり良い顔はされなかったが、今の俺には申し訳なさそうにして
このまま帰ってゴロゴロしようとしていた頭から、一瞬で眠気を飛ばした。それは一種の魔法である。
「ご、吾朗さん」
「あ、う、うん。どうしたの?」
電話越しとは言え、下の名前を呼ばれた時はドキッとした。久しく呼ばれてなかったこともあるが、あの山元美依奈が俺のすぐ隣に居てくれてるという実感がそうさせた。
目の前にあるのは、ただ慌ただしく行き交う人々だけ。でも流れてくる彼女の声は、昨夜の熱を思い出させてくれるようで。
「これから会えないかなって」
想定していたわけではないけど、不思議と心は落ち着いていた。電話が来た時点で、なんとなく察することができたからだと思う。
けれどそれは、昨日までとは違う。二人で会うことが持つ意味が大きく変わってしまったのだ。無論、俺は今まで通り彼女と接するつもりではある。ただ本当にそれでもいいのだろうかと疑問に思う自分が居るのも事実。とにかく、美依奈の思うことも聞いてこれからのことを考えよう。
「もちろん。会いたいと思ってた」
「ふふっ。そっか。どこで待ち合わせる?」
「美依奈は今どこに居るの?」
「いつもの喫茶店出たとこ」
てことは、俺が宮さんに会っている間、彼女はマスターと話をしていたわけか。
つまり、彼女の口から交際の事実を告げられた可能性は極めて高い。まぁ彼にも世話になったから言うつもりではいたけど。少し恥ずかしいと思う自分が居た。
「カラオケとかどう?」
俺の気分としては、喫茶店とかでゆっくり話したいのが本音ではあった。けれど、さっきまで居た彼女をまた違う喫茶店に連れ出すのは気が引けた。
思い返してみれば、彼女と遊びに出かけた記憶が無い。いつも喫茶店でゆっくり話すか、居酒屋で酒に呑まれるかの二択に近い。
じゃあなんでカラオケなんだと言われると、俺としても返答に困る。だが悪い案では無い筈だ。個室だし、誰かに見られる可能性は低いだろうし。それに、彼女の歌声を間近で聴けるなんて幸せでしか無い。
「おーカラオケかー」
目から鱗みたいなリアクションだった。
何というか、頭の片隅にはあったけれど、完全に意識の外に追いやられていたことを実感したみたいな声。感心しているようにすら聞こえる。
「二人で行ったことなかったし。遊ぼうよ」
「うん。賛成」
思わず笑みがこぼれた。恋人とカラオケに行ったことはあるが、ここまで心が躍るのは初めてかもしれない。
自身の彼女とは言え、かつての推しである桃花愛未でもある。それに美依奈はまだマイクを持って舞台に上がっていない。桃ちゃんの残像がチラチラ映るのは容易に想像出来た。
結局、近くで一番都会な駅前のカラオケ前で待ち合わせることになった。電車ですぐの距離であるが、今はそれがもどかしい。
片手を伸ばすだけで届くといいのに。なんて考えていたら、電話越しの彼女がクスクス笑っていることに気づいた。
「どうかした?」
「ううん。楽しみだなって」
「何がさ?」
「……もうっ。一つしかないじゃん」
あまりにもザックリしていて分からない。彼女の口ぶりは俺が察していないのが気に食わないらしい。一つしかないと言われてもなぁ……。
「シンプルに会うのが楽しみってことだよ。もうっ、言わせないでよ」
「ぶぇふ」
ひどく気持ち悪い笑い方になった。仕方ないだろう。そうさせたのは君なのだから。
「え?」
「俺はすごく幸せ者だな」
「まだ一日しか経ってないのに。えへへ」
天使ですか? あなたは私をそのまま空に連れてってくれる唯一無二の存在なのではないですか?
公共の場であるのに、俺の顔は限界まで破顔していると思う。いま鏡を見るのが怖い。行き交う人のたまに来る視線が痛くて俯いて逃げるしか出来なかった。
「それじゃ、また後で」
「うん。気をつけて来てね」
「ありがとう。美依奈も」
「うんっ」
そう言って電話を終える。疲労感みたいなのは無くて、どちらかと言えば安堵感に近い感情が胸の中を覆っていた。
心のどこかで、夢だと思っている自分が居たようだ。でもそれは、今この瞬間に完全に消え去ってしまった。紛れもなく、山元美依奈は俺の恋人である。こんなにも幸せな響きはこの世に存在しない。
さっきは抜けることが出来なかった改札をくぐり、ホームで電車を待つ。昨日よりも暖かいせいか、随分と体が火照っている感覚がした。
人はそこまで居ない。今なら思い切り背伸びをしてもいいぐらいだ。いざそうしてみると、背中がパキッと鳴っただけであった。
どうやらさっき一本前の電車が行ってしまったようで、次が来るまで少し時間があった。
ホームのベンチに腰を下ろしてスマートフォンに逃げることにした。イヤホンを持って来てなかったから出来ることは限られているが。
(……美依奈)
当然、芸能人の恋人なんて経験が無い。ネットで彼女の名前を入力すれば、おそらく多くの情報が入ってくるはずだ。
実際、ポスターやコマーシャル起用した時は俺もエゴサーチしたし。思っていたほど批判的な声は少なかったとは言え、やはりネガティブな意見が無いわけではない。
自分の大切な人が好き勝手言われるのは、やっぱりムカつくな。SNSで噛みつきたくなる人間の気持ちが少し分かった。
「――あの」
ものすごく細かったが、確かにそれは俺の耳に届いた。聞こえたソレは、女性の声である。
スマートフォンに落としていた視線を少し上げると、誰かが俺の前に立っていた。普通に考えると声の主であろう。
「はい?」
「これ、落としましたよ」
女性が差し出して来たのは、交通系ICカードだった。財布にしまったはずだと、尻ポケットから取り出して確認すると、確かに無くなっていた。
あぁやっちまったな。何かの拍子に落ちてしまったようだ。ソレを親切に拾ってくれたのか。
「すみません……助かりました」
立ち上がって軽く頭を下げる。背が低いその女性は妙に大人びてて、美依奈よりも長い黒髪が綺麗な人だった。
「いえ。偶然落ちたところを見てたので」
「そうだったんですか……ありがとうございます」
マスクと丸眼鏡のせいでよく顔が分からないけど、中々の美人だと思う。まぁ美依奈には到底及ばないけど。なんなら「俺の恋人はめちゃくちゃ美人だぞ」とアピールしたいぐらいだ。
ちょうど電車がホームに入ってきた。その勢いは風となってやって来る。揺れる。目の前の女性の髪が
「それでは」
「あぁ、ありがとうございました」
その人はそそくさと俺の前から去っていった。と言っても、少し離れた乗車口から乗るらしい。別にここでいいのに、とは思わないようにした。
俺よりも年下なのだろうが、えらく大人びていたな。高校生というわけでもなさそうだし、最近の若者はませてるなぁ。ホント。
電車に乗り込むと、幸いなことにあまり混んでいなかった。すぐ降りるとはいえ、なんとなく座っていたい気分。尻ポケットから財布を抜いて、手でガッチリとホールドする。立ち上がる時に落としたりするとそれこそ災難だ。
でもさっきの子、どこかで見た記憶がある気がするんだけどなぁ……。
頭の中で痕跡を探してみるものの、見つけることは出来ない。
(まぁ……いいか)
とりあえず今は、早く美依奈に会いたい。ただそれだけだというのに、中途半端な眠気が俺の瞼を揶揄ってきた。
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