第77話
体のキレも少しずつ戻ってきていた。
体重が増えたわけでもなかったから、取り戻すのは感覚だけ。それも私が思っていた以上に早く帰ってきてくれた。
スタジオでのレッスンを終えた頃には、昼時を過ぎていた。14時。昼前から始めたとは言え、完全にランチを食べ損ねちゃった。
ビルを出ると、春の暖かな空気が肌を包み込む。ぽかぽかと太陽に向けて手を広げたくなるぐらい。思いっきり息を吸うと、都会の味がして少し後悔した。
同時に、一人になると口元が緩んで緩んで仕方がない。その理由はたった一つ。私の大好きな彼のおかげである。
「うふふ。ふふっ」
周りを行き交う人に見られないように、手で口を抑えて笑う。すごく気持ち悪い笑い方。こんなの彼に見られたくない。
そうやって笑うのは仕方ないとは言え、問題はこれから先。私の口から説明しないといけない人が居る。そう、夏菜子さんだ。
そう思って電話してみたんだけど、全然繋がらない。事務所に居るのかどうかも分からない。もしかしたら出先で取れないのかもしれないな。
今日は夜に打ち合わせがあるぐらいで、今からは完全フリーの空き時間だ。だからそこで説明したかったんだけど、そうもいかないらしい。
「……吾朗さんに連絡しようかな」
今日は日曜日。世間的には休日だ。
彼にメッセージを送ろうと思って、画面を開く。これまでのやり取りが目に留まる。
『ありがとう。俺もだよ。幸せにするから』
でゅふ、と気持ち悪い笑い方になる。
私が朝早くに送ったメッセージに対する彼の返信。これを見たのはレッスンの休憩中だったから、それから顔に出さないよう我慢するのに必死だった。
今から会えないか、と言葉を打ち込む手が止まる。
ふと、彼以外の男の人の顔が頭に浮かんだのだ。無論、それは恋とかそういうのじゃなくて、私にとって背中を押してくれたあの人のこと。
ふふっ。それに、コーヒーが飲みたくなっちゃった。
一旦、吾朗さんへのメッセージは保留。マスターに会ってからでも時間はある。それに、ここから電車ですぐの距離だし。色々と都合が良かった。
それからすぐに電車へ乗って、揺れる車内の空気を浴びる。日差しが眩しいぐらいに入ってくるから、日焼けしちゃうと錯覚するぐらい暑かった。
降りてからは歩き。必然的に彼の会社が近くなるけど、会えるはずもない。ここで会えたら一石二鳥だったんだけど、そう上手くもいかないか。
そして視界に入る見慣れた外観。昨日ぶりのソレは、いつもにも増してレトロ感を醸し出しているようにも見えた。
「こんにちは」
ドアを開けると、タバコの香りが鼻を抜ける。不思議なモノで、電車の空気よりも味があって魅力的に思える自分がいた。間違いなく吾朗さんのせいだ。別に良いんだけど。
「お、随分ご機嫌じゃない」
入ってきた私を見るなり、マスターは笑いながらそう言う。つられて私も口元が緩んだ。
店内はいつものごとく、閑散としていた。私以外におじいちゃんが奥の席でタバコを吸っている。妙に様になって見えるのだから、喫茶店パワーを感じる。
カウンター席に促されるままに。無意識のうちに跳ねているような歩き方になっていたらしく、私が腰掛けるや否や彼はまた笑った。
「何かいいことあった?」
「ふふーん。まあ色々ですよー」
自分でも笑っちゃうぐらいに気持ちが高鳴っていた。彼との
自分で言うのもアレだけど、今の私はまるで子どもみたい。要は、はしゃいでいるだけ。すごく良いことがあったコトを、お父さんお母さんに言うだけの子ども。
「ははっ。今日は一段と綺麗だね」
「……薄化粧なのであんまり見ないで欲しいです」
「いやいや。それが君の魅力じゃないか」
「コーヒーでいい?」そう聞いてくるマスターの言葉を飲み込む。頷くと、彼は笑って私に背を向けた。
普段はあまり濃い化粧をしない。単に面倒だから。でも、辛いことがあった時は無意識に濃くなる。自身の本心を隠せるような、そうであって欲しいと願う自分が居るせいで。
吾朗さんはどっちが好きなんだろう。彼が濃くして欲しいって言うのなら考えちゃう。でもそれだと、普段の私じゃ満足出来ないって言われてるみたいで悔しい。
「はい、コーヒー」
「ありがとうございます」
鼻を抜ける。そう、この香り。家じゃ絶対に出せない特有の苦味。コップはまだ熱い。熱いけれど、そっと持ち手を掴む。
伝わる熱。火傷しちゃうと思っちゃうぐらい。でも、それを離したくない。昨夜の方がずっと熱かった。彼の言葉を思い出すだけで、胸はこれでもかと言わんばかりに燃える。
「一日でこうも変わるんだね。人って」
「そう、ですか?」
「だって昨日は疲れてたし」
「……確かに。うん、確かに」
ぐうの音も出ない言葉だったから、コーヒーに口付けながら頷くしか出来なかった。
確かに昨日ここに来た時は、雪ちゃんと話して、打ち合わせして、疲れ果てた体だった。でもそのあとは――えへへ。
奥の席に座っていたおじいちゃんが会計を済ませて店を出て行った。客は私だけ。後片付けをするマスターの背中が目に入る。
「でも、マスターもそうじゃないですか」
「え?」
私がそう言うと、彼は振り返って顔を見合わせた。
「マスターこそ、昨日より元気そう」
「……そう見えるかい?」
「心なしか」
彼は笑った。私だって根拠は何も無い。ただそう思ったから口にしただけであって、否定されたらソレを否定し返す材料は持っていない。
空になったコーヒーカップを持って、カウンターに戻ってきた彼。カチャリとシンクに置く音がよく聞こえる。
「君のおかげかもね」
「……私?」
少し離れたところで、昨日と同じようにタバコに火を付ける彼。うん。やっぱり昨日より明るくなっている気がする。
「あの後、アイツと会ったんだろ?」
「へっ、え、えっと……」
ドキッとした。その反動で、思わず目線を逸らしてしまう。
「隠さないでいいよ。ていうか、隠し切れてないんだけどね」
「うぅ……」
マスターに隠すつもりは無かった。むしろソレを言うために来たようなモノ。でも先手を取られたから、結果的に隠してるみたいに思われたみたい。悔しい。
「それで! どうなったの?」
「……マスターには内緒です」
「どうしてさ」
「意地悪するから」
「僕、何もしてないけどなぁ」
そう言いながらニヤリと笑ってる。絶対分かってやってる顔だ。ムカつく。良い人であることには違いないんだけど、時々こうやって私を揶揄ってくる。
コーヒーを飲んで、少し気持ちを落ち着かせる。相変わらず彼は、天井手掛けて煙を吐いているだけ。その大人の余裕が今はすごくムカつく。
「吾朗さんとお付き合いすることになりました」
煙が消えかけたと同時に、私の声が彼に届いたみたい。天井を向いていたその顔は、私の方に向けられる。意地悪な表情はしてなくて、どこか心優しい柔らかいモノに変わっていた。
「覚悟、決めたんだね。二人とも」
「はい。彼もきっと、そうです」
「そっか。なら僕も――」
独り言みたいな声は、私の耳に届かなかった。別に追撃する理由もなかったから、半分になっていたコーヒーを顔に近づける。相変わらず香りは消えることがない。
吾朗さんは絶対に、私を見捨てたりしない。ずっとずっと私のことを見てくれている。だって、彼はいつも向き合ってくれた。私の手を引いてくれた。
「アイツのことが好きなら、それで良いじゃないか」
「え……?」
考え込んでいた私に気づいたようで、唐突にそんなことを言ってくる。まるで思考を読んでいるみたい。でも、彼の言うことは十分に理解できた。
「恋人になる理由なんて、そういうものさ」
マスターなんだけど、マスターらしくない。彼が時折見せる顔。抽象的で、ふわりふわりと舞うみたいな言葉を掴んで話すみたいな。
うん。好きだから。彼のことが誰よりも。だから、良いんだよね。夏菜子さんだって、許してくれるよね。もし怒られるなら、彼と一緒に怒られよう。
「アイツに嫌なことされたら言いなよ。僕がぶっ飛ばすから」
「……ふふっ。はいっ」
だから、私のことをずっと見ててね。吾朗さん。
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