第76話


 歩き慣れているというわけではないが、この道を進むと思い出す。あの子を呼び止めたあの冬のことを。

 あの時の行動に正解も不正解も無いのは分かっている。でも、結果的に俺が動いたことで今があるのは明らかだ。だから後悔していない。

 彼女は何を思ってくれてるのだろう。おんなじようなことを考えてくれていたら、すごく嬉しいな。


 恋人としてのこれから。

 楽しみでもあり、不安でもある。一晩経ったら不安の方が勝っているのが本音だ。でもそれは決して彼女から逃げるとかじゃない。どんな現実からも逃げない。彼女を独りぼっちにはさせない。分かっている。

 この不安というのは、あまりにも読めないこの先にあるモノ。どんな現実が俺たちを待っているのか分からない空気に怯えているのだ。


(………好きになっちゃったんだから)


 この感情は紛れもなく、俺の中に生まれた純粋な想い。誰にも文句は言われたくないし、言わせない。たとえ世間からバッシングされたとしても、俺はただ不器用ながらに君を愛し続けるしかないんだ。

 その第一関門が宮夏菜子。そう考えると我ながらしっくりくる。事務所兼自宅のマンションが見える。美依奈の家とはまた違った味のある外観をしている。入り口に立って、部屋番号を入力すると呼び出し音がよく響いた。


「はいはい。どうぞ」

「……どうも」


 そこでの会話は呆気ないモノだった。

 別に何かを期待していたわけではない。これから話すのだから、画面越しで話す理由もない。開いた自動ドアをくぐって、エレベーターに乗り込んだ。

 ため息というわけではないが、吐いたソレには色々な感情が込められていたように思う。自分でもいまいちピンとこないが、美依奈が隣に居たら「ため息だよ」と言われるのかな。


「会いたいなぁ……」


 誰も居なかったから、彼女に対する想いを言葉にしても問題ない。目の前に居たらまた告白していた気分だ。居ないから会いたい。ただそれだけ。君が居たら言うだろうな。「誰よりも好き」だと。

 エレベーターのドアが開いて、宮さんの部屋の階に着いた。降りて少しだけ近くなった空を見る。よく晴れた春の色をしている。もう少し経ったら、爽快感のある空に変わるんだろう。それをあの子と二人で見上げるのも悪くない。綺麗な星空を二人で。


 インターホンを押すと、割とすぐに扉が開いた。顔を見せた彼女は、俺の顔を見るなりため息をつく。全く失礼な人だな。


「なによその顔」

「文句は俺の親に言ってください」

「そうじゃなくて。もういいわ。とりあえず入って」


 どういう意味だろうか。彼女がつぶやく言葉が無意味だとは考えられない。きっと思うことがあったのは事実だ。ソレが何なのかは分からないけれど。

 靴を脱いで廊下を踏み締める。ここに来るのも随分と久しぶりだった。それこそ、さっき思い返していたあの冬の日以来じゃないか。

 リビングに抜けると、あの日から変わっていないテーブルが視界に入る。彼女は適当に座るよう促してきた。遠慮すると逆に色々言われる気がしたから、その通りに腰を落とす。


「コーヒーでも飲む?」

「あ、いや、お構いなく……」

「そう」


 彼女は力無く呟きながら、俺と向かい合うように座った。何というか、電話越しで話した通りの印象を受ける。

 今の彼女は、間違いなく機嫌が悪い。どういう理由でかは知らないが、人と話すのすら嫌がっているようにすら見えた。

 これまでにも同じような場面に遭遇したことはある。けれど、その時とは明らかに違う何か。上手く言葉に出来ない苦しみを抱いているような。何となくだけど。


「……で? 話ってなに?」

「あー……まぁ……その」


 ウェルカムな話だとは思っていないが、俺が思っていた以上に話しづらい雰囲気だった。いつも通りの宮夏菜子であれば、こんな狼狽えずにハッキリと言っていただろうに。

 くそっ、どう言い繕っても彼女から言い返される未来しか見えない。でももうここまで来てしまったんだ。間違いなく、隠していたっていいことは無い。


 覚悟を決めろ。自分。

 ソレを言うため、ここに来た。彼女のためだ。あの子を俺が守るために。そのためには、宮夏菜子の協力が不可欠になる。



「山元美依奈さんと、お付き合いすることになりました」



 両手を膝の上に置いて、しっかり敬称を付けて報告する。その様はまるで実家への挨拶じゃないか。まさか彼女の両親よりも先にする相手が居るとは、一年前の俺に言ってあげたいぐらいである。

 多分、声は震えていたと思う。来るまでは全然緊張とかしなかったけど、いざ宮夏菜子を目の前にするとそのオーラに圧される自分が居た。

 案の定、彼女は盛大にため息をついた。普段よりもだいぶ薄い化粧に目が行く。そっちの方が綺麗なのに、とは気休めにもならないだろうから言わなかった。


「事後報告ってやつ?」


 ドキリとした。胸を太めの針で刺されたような不快感が全身に広がっていく。気持ち悪くて、えずいてしまいたくなる感情を抑える。


「え、えっと、まぁ……そう、なりますね」


 ただ、彼女の言う言葉の意味もよく分かる。多分、昨日あの子に会っていなかったら告白してなかっただろうし、すぐ想いを告げることもなかった。

 山元美依奈に会ってしまった時点で、俺の心は既に決まっていたのかもしれない。本来、約束して会えた日に想いを伝えるつもりだったのだ。例え会うのが予定外だったとはいえ、俺が心の中に抱いていた感情は揺らがない。

 まぁ、美依奈に会っていなかったら宮さんに相談ぐらいはしたかもしれないが。とにかく言えるのは、タイミングが悪かったということである。それで納得してくれるとは思えないが。


「全く……あなたらしいわね」

「そう、ですかね」

「ま、遅かれ早かれこうなるのは目に見えていたから。それを隠さないだけ偉いんじゃない」


 ところが、彼女のリアクションは俺が思っていたよりも柔らかいモノだった。思わず「えっ」と声を出してしまったぐらいには。


「なに? 意外?」

「いや……怒らないんですか」


 俺がそう言うと、彼女はまたため息をついた。まるで呆れているようだ。


「あなたから電話もらった時点でなんとなく察してたし。それに、さっき入ってくる時の顔も」

「……どんな顔してましたっけ」

「あんな堅苦しい顔してたらすぐ分かる」

「あ、あはは……」


 やっぱりそうだよな。電話した時点で「何かある」と思われるのは避けられない。いきなり突撃すればまだ気づかれなかったかもしれないが、結果的には良かった。電話したことで、彼女に心の準備時間を与えることになったのだ。


 でも――気になることがないわけじゃない。


「すごい今更ですけど」

「なに?」

「あなたとの約束は守れませんでしたね」


 「約束?」宮さんは疑問形を言葉にする。忘れたっていうのか。俺と喫煙所で話したあのことを。


「ほら、もう会うなって言ったじゃないですか」

「ああ、あの時の。随分と早めに破られた約束じゃない」

「そうですけど」

「……見る目が無かったのよ。私の」

「そんなことはないと思います」

「そうかしら」

「美依奈に声を掛けたのは、絶対に間違いじゃないです」


 彼女のソレは弱音であった。いつだろう。

 ……あぁあの日。美依奈を看病したあの夜。聞いた言葉に似ている。あの時のは弱音というか、宮夏菜子が抱えていた本音を聞いた感じに近かったけど。


「結果的に、あなたが居てくれた方が都合良かった」

「そんな……」

「分かりやすいほどに輝いてた。でもそれは、アイドル的な光ではない」

「……」

になっちゃうのが、心のどこかで怖かったのよ」


 なんとなく、その言葉の意味はよく分かる。同時に、あの夜に言われた言葉キラキラと輝くけれど、ダイヤモンド以上に眩しくての真意に気付けた気分だ。恋をしているあの子は綺麗だけど、それはアイドル的な魅力に直結するのかは分からない。

 手が届かないからこそ、人々はその輝きに見惚れる。誰のものでもない。ただ目の前のあなただけを見てくれるアイドル。


「あの子にとっては、あなたが居てくれた方が良い。客観的に見てそれは事実ね」

「……ありがとうございます」

「もちろん私も協力する。でも、これから先は、あの子次第」


 結局のところ、売れるか売れないかは本人の魅力。俺がいることでそれが半減したというのなら――。いや。それを考えるのは無しだ。俺が伝えた想いに、彼女は誠心誠意答えてくれた。あれは彼女の意志だ。俺がそう考える時点で、その想いを裏切るのも同義。


「足を踏み入れたのなら、逃げるのは許さないからね」


 いつの日か。藤原が言ってたっけ。宮夏菜子はヤクザだって。今その気持ちがよく分かるよ。ただ――不思議と嫌な気分じゃないな。


「どこまでもお付き合いします」

「そう。なら一つお願いしてもいいかしら」

「なんでしょう」

「あの子を守ってあげて。それだけ」


 当たり前だ。絶対に見捨てたりしない。分かりきって聞いてるな。この人も。


「……ふふっ。そういうのも悪くないわね」

「はい?」


 機嫌良く笑って、そんなことを呟いている。俺が聞いてみると、彼女は「まだ内緒」と悪戯っぽく笑ってみせた。でもやっぱり、今だけは嫌な気がしなかった。


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