第74話
風が止んだというのに、空気が震えている気がした。寒くない。むしろ暖かい。すごく、すごく。
星々にも負けない輝き。私の目の前に立つ彼は、ただただ瞳の奥を覗き込もうとしている。見ないでよ。そんな顔で私の心を見つめないで。
「………あ……え、えっと……」
私が口を開かないと始まらない。それだけは理解していたから、ままならない思考をそのまま言葉にしてみる。案の定、それは意味を成さなかった。
ここで私に出来ることは一つ。彼の言葉に私の意志を示す必要があった。それは、イエスかノーか。その二択。単純だけど、すごく複雑。今の私にとっては、ものすごく。
瞳が揺れる。彼は私を覗き込む。目線を逸らしたいのに、この人の顔から目が離せなかった。離しちゃうと、どこか遠くに行っちゃいそうな気がしたから。
「君が好きだ」
二度目の告白は、一度目よりもハッキリと聞こえた。全身に広がっていく麻薬のよう。震える感覚。この独特の緊張感は、彼にしか出すことが出来ない。
熱が、じわりじわりと蝕んでいく。やがてそれは、私の白い頬を染める。熟れた果実のよう。ただあなたに見惚れるしか出来なくて、頭を回すだけの余裕なんて無くなっていた。
自分が今どんな顔をしているのかも分からない。きっと、すごく間抜けな表情をしているに違いない。だからようやく視線を逸らした。
面と向かって告白されたのは初めてだった。学生の頃から芸能界への憧れがあったから、周りの男子たちは近寄ってこなかったし、私も近づこうとしなかった。
慣れていないと言えばそれまでだけど、こういう時はどんな顔をするのが正解なんだろう。そもそも正解というのが存在するのかも分からない。
「……美依奈?」
彼が名前を呼んでくれた。それは沈黙が長くなりすぎたことを私に知らせてくれる合図にもなった。
思考の海から顔を出すと、また彼と目が合う。熟れた顔を見られるのは恥ずかしくて、つい苦笑いをして逃げる。
チラリと合う彼の瞳は、私の心に寄り添ってくれる。そんな優しさをうっすらと纏っていた。鼓動が高鳴る。これでもかと言わんばかりに。
「ご、ごめん………び、びっくりして」
「お、おう……」
謝った時点で、彼の口元がピクッと動いた。他意は無かったけれど、告白に対する返事だと思ったのかもしれない。
それでビックリしたのかな。そうだったらすごく可愛いな。そういうところを含めて、彼なんだ。私が離れたくなくなった彼。
「びっくりした?」
「……うん。すっごく」
まるで動揺を誤魔化すみたいに、彼は同じことを聞いてきた。でも、私は私で気持ちが少しだけ落ち着きを取り戻している。
だから何も言わずに、そのまま肯定した。でもそれに続く言葉は出てこなくて、この夜はまた黙り込んだ。瞳を伏せて、一生懸命に思考を紡いでみる。
本心は自分でもよく分かっている。だからこそ、苦しかった。ここで私が頷いてしまえば、彼のことを巻き込んでしまう。面倒で、一人の力じゃどうしようもならないところまで。
だから、だから。首を横に振らないと。彼のためにも、ここで無理やりにでも突き放さないと。でも、私の喉から込み上げてくる感情を誤魔化すので精一杯だった。
「……君自身の答えを聞かせて」
「え……?」
彼の言葉は、今の私によく染み渡った。
「私の……答え?」
「うん。正直な気持ちを聞かせてほしい」
顔を上げて、また彼の瞳に甘える。その目は、私のことをどう見ているの?
『美依奈のファンだから。誰よりも君のことを推している一人の男だから』
一人の女として? それとも、あなたが推す一人のアイドルとして? あなたの言葉が私を混乱させているの。分からない。分からないよ。吾朗さん。
「それは――アイドルとしてって、こと?」
核心。そうであって欲しくない。頷かないで。お願いだから、首を横に振って。お願いだから。
ただずっと、そんなことを思いながら彼の瞳を覗き込んだ。心がどんな表情をしているのかまでは読めない。でも、すっごく考えてくれてるのは伝わってきた。
「――関係ないよ」
それはどういう意味? よく分からなかったから、私は意味を持たない言葉を漏らすしか出来なかった。でも、あなたは違った。
「君がアイドルとか、どうでもいいんだ」
ドキッとした。あまり良い意味じゃない感じがしたから。でも彼は、言葉を続ける。まるで最初から弓矢をセットしていたみたいに素早く。
「俺はただ、君の隣に居たい」
核心を優しく包んでくれる。暖かくて、ひんやりと冷たくもあって。でも、あなたに身を委ねたくなる心地良さ。
心の奥。一番深いところに沈んでいた感情が、スーッとせり上がってくる。瞳。揺れる。あぁ、涙が溜まってるんだと気づくのには、少し時間を要した。
「ずっとずっと、一番近くで見惚れていたいんだ。君が好きだから。だから――」
流れない。流すわけにはいかない。ここで感情を表に出すと、彼に揶揄われるかもしれないから。だからもう少しだけ。もう少しだけ。頬を伝うのを諦めて。
自身の気持ちを先回りして、そんな嬉しいことを言ってくれたあなたに言葉を投げかける。
「プロポーズみたい」
しんとしていた夜。それが少し揺らいだ。風が吹いたわけでもないけれど、彼が纏う雰囲気が一気に緩んだ感覚。でもそれは案外当たっていた。
「なっ……!」
「ふふっ」
狼狽えてる。可愛い。それと同じぐらいのことを言っているのに、自覚無かったんだなぁ。
それぐらい、私のことを想ってくれていた。彼は私と同じで、目の前にいる人のことを好きでいてくれた。
「そう捉えてもらってもいいよ」
彼は揶揄い返してきた。ムカつく。それを否定したくない自分が居るから、あまり強く言えないのが、なおのこと。
「うっ……。ばか」
「大ばかだよ。俺は」
「……ばーか」
こんなことしか言い返せない。だけど、彼はすごく嬉しそうにしていた。笑った顔。ずっとずっと見ていたくなる。格好良くて、可愛くて。その胸に額を当てたくなる暖かさ。
「――でも嬉しい」
「美依奈」
名前を呼んでくれた。
優しい声。低くて、落ち着く声。
「一人じゃなくなる」
「ああそうさ」
本当に?
私は面倒な女だよ。
「泣いちゃう時もあるよ」
「慰めるさ」
優しいね。
簡単に想像出来るや。
「怒る時もあるよ」
「ご機嫌取るさ」
どんなことして笑わせてくれるの?
楽しみだなぁ。
「甘えちゃう時だって……」
「抱きしめるさ」
うん。ギュッてして。
私がどこにも行けないように。
力強く、あなたの腕で包み込んで。
「――僕と、お付き合いしませんか」
あぁ、
ずっと、ずっと言われたかった。あなたからそうやって想いを告げて欲しかった。夢を見ているみたいに、足元からふらつく感覚に襲われる。
「あなたが居てくれることが、こんなにも幸せなんだって、心から思うの」
あなたは笑う。優しく微笑んで、ただ夜に消えていくこの言葉を必死に受け止めてくれる。
「こんな私でも、いいの?」
「もちろん」
「迷惑かけちゃうよ」
「迷惑だなんて思わないよ。一緒に背負おう」
あなたに迷惑を背負わせたくない。だから私一人で――なんて建前は、もうどこにも存在しない。
どんな夜も、あなたが隣に居てくれたら乗り越えられる。頑張れる。あなたのために、歌いたい。舞台に立ちたい。
「君の苦しみを半分にしよう。僕の幸せを半分あげるから」
あぁ、流れ込んでくる。
あなたの幸せが。私の心の中に。ゆっくりと、でも私のことを奪い取るみたいに強く。
うん。ちょうだい。あなたの幸せを。受け止めるから。誰よりもたくさん、あなたの想いを。この優しさは誰にも渡したくない。独り占めしたい。少しも
「私も、あなたが好き。あなたの、たった一つの幸せになりたい」
あなたの欠けた心に、私の幸せを半分あげる。私もあなたの隣に居るから。ずっと、ずっと。だから、受け止めて。吾朗さん。私の大好きな吾朗さん。
落とした鍵のことも気にならない。春風の暖かさにも今ごろ気づいた。
あなたのこと以外、今はどうだっていいの。だってすごく、すごく幸せなの。
ねぇ、伝わってるかな。
私の大切な大切な、恋人よ。
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