第72話


 それは本当に偶然でしかなかった。

 家でタバコを吸いながら彼女のことを考えていたただの一夜。一本吸ったところで、ストックが切れていたことに気づいた。

 時間も遅くて、もう外を出歩く気にはならなかった。普段なら絶対。でも今日は違った。どうしても無いと心寂しくて、部屋着のまま一番近くのコンビニまで足を運んだ。

 住宅街ということもあって、人はあんまり居なかった。土曜日なのにスーツ姿のサラリーマンや、大学生みたいな子がチラホラと居たぐらいで。タバコ以外に何も買わず、自動ドアをくぐろうとした。


「…………あ」


 それは本当に偶然でしかなかったのだ。

 だから、思わず言葉にならない声が漏れた。コンビニを出ようとした俺と入れ替わる形で入ってきたのは、見覚えがあって、誰よりも愛しいと思える君だったから。


 でも肝心の彼女は俺に気づいていないようで、そのまま隣を通り過ぎる。一人になりたいだけかもしれない。話しかけられたくないだけかもしれない。心の中に芽生えたそんな気遣いを無視するように。


「――美依奈?」


 恐る恐る。でもはっきりと。彼女の名前を呼んだ。間違いだった可能性も否定は出来なかったから。

 でもそんな心配は杞憂に終わる。彼女は俺の声にしっかりと反応した。振り返って、瞳が合った。誰よりも美しいその輝きは、俺の胸の中をハッキリと照らしてくれる。だから、思わず微笑んだ。


「奇遇だね。買い物?」


 自分でも驚くほど冷静な声だった。本当は舞い上がってしまうぐらい嬉しいのに。変に、カッコつけたいなんて思う自分が居て。

 彼女は少し考えていた。狼狽えているようにも見える。特に用がないのかもしれない。よく分からないけど、そんな可能性が頭に浮かんだ。


「もしこれから帰りなら送るよ。暗いし」

「あ……う、うん」


 本音だったけど、建前であることには変わりない。心の中をさらけ出すのであれば「君と一緒に居たいから帰ろう」となるはずなのに。それを面と向かって言う勇気は無かった。恥ずかしながら。


 くるりと振り返る彼女。思わず問いかける。


「買い物しなくていいの?」


 どもりながら「やっぱりいいや」と苦笑いする君を見て、俺はそれ以上なにも言わなかった。

 きっと、ここに用事なんて無かったんだろう。ただ明かりが見えたから。その惰性で寄ろうとしただけ。別にそれで良い。でも、その惰性思いつきが無かったらこうして一緒に帰ることなんて出来なかったから。


 コンビニを出て、二人で暗闇に出る。君が隣に居ると、不思議と明るく見える。

 思い返せば、ある意味で便利なのかもしれない。このコンビニという存在は。俺と彼女を繋いでくれた。絶対に会うことがなかっただろうに、これを運命と呼ぶのは少し恥ずかしいぐらいには繋がりを感じざるを得ない。


「コンビニで色々起こるね。俺たち」


 ただの歩道も、この子と歩けば虹のよう。今まで感じたことが無い気分で、俺よりも背の低い君に話しかけた。

 すぐ乗ってくれるかなって思ったけど、彼女は思いのほか考えて、そして首を傾げた。前を見ていてもよく分かるぐらいの疑問形だった。


「えっ? そうかな」


 一方的に意識してただけなのかな、なんて思う。でも別に。そうだとしてもいい。だからあえて、彼女に意識して欲しいから強く肯定する。


「そうとも。だって、俺が免許証落とした時もそうだろ?」


 その言葉を受け止めた美依奈は何も言わなかった。どんな顔をしているのかと見つめたかったけど、恥ずかしくて何も出来ない。

 あの夏の日。電話してきてくれた君の声。君の肩を抱いたあの冬の日。記憶のフィルムがぐるぐる頭を回り回って、彼女への思いを増長させる。そのせいで、余計に恥ずかしい気分だ。


「……良かった」


 フィルムが回転を止めた。彼女の声がそうさせた。状況的に、俺の言葉に対する返答には聞こえなかったからである。

 その一言にはどんな意味があるのか、考えても答えは出てこない。かと言って、そのまま聞かずじまいにするつもりもなかった。


「どうして?」


 無意識に彼女の方を見た。瞳が合う。優しく微笑んで、でもまた俺から目線を逸らした。


「……夜道は苦手だから」


 納得する自分は居たけれど、それを受け入れる気にはならなかった。なんというか。本心なのに本心じゃない。そんな気がしてならない。でも君を責め立てる気にもならない。だから肯定するしかなかった。


「そう。それなら俺も良かったよ」

「うん」


 やがて訪れる沈黙。でも正直、これが全然苦にならなかった。むしろこのままでも良い。ただ君が隣に居てくれるだけで、心が穏やかになる。仕事のストレスなんて吹き飛んでいく。

 この夜に沈んでいく。月が浮かぶ暗闇に。星が散る夜に。君と二人でこのまま、どこまででも行ける気がして。君の家が見えて、締め付けられる胸から目を逸らして。


「着いたね。それじゃ、おやすみ」

「あ………」


 素っ気なかったと思う。

 痛む心臓は否定しない。でも、こうしないとダメだと思った。このままダラダラと、君を離したくなくなるから。だから、必死に取り繕って背を向けた。

 一人の夜道。暗闇。何も無い。さっきまで虹色に見えたのに。その理由はすごく単純で。分かりきっていた。


「もしもし?」

「……ごめんね。いきなり」


 やっぱり、君の声を聞きたくなった。

 スマートフォン越しに聞こえる君は、戸惑いの色を隠さないでいる。それもそうだ。さっきまで一緒に居たのに、わざわざ電話をしてくる男がここにあるわけで。


「どうしたの?」


 ストレートに聞いてくる。それもそうだろう。今この状況。それ以外に投げる言葉は無い。俺でもきっと、同じことを言っていた。


「いやその……なんていうか」


 理由を上手く説明出来るのなら、きっと電話を掛けていない。それを自分でも良く分かっていたから、思考を巡り巡らせることしか出来ない。そして導き出した結論。


「俺はその……美依奈のファンだから。誰よりも君のことを推している一人の男だから」

「……うん。そっか」


 俺も君のことを言えないな。

 本心であるのはそうなんだけど、本当はもっと言わなきゃいけない言葉がある。君に。君だけに。美依奈だから伝えたい気持ちがある。


 沈黙。さっきと同じ。でも、痛い。苦しい。何か言わないといけない、そんな圧迫感に襲われる。

 タイミングを見計らったみたいに、もう一度記憶のフィルムが回り出した。


 君を泣かせないと誓ったあの日。

 君としたデートの約束。

 君の部屋で伝え切れなかった想い。

 君に好きと言われての台本通りの演技で鳴った胸。


 その全てが、俺の体の中に染み込んでいる。夜だというのに。沈黙だというのに。体が熱く、熱く火照っていく。


 「切っちゃうよー」なんて揶揄う君の声。それが聞こえた時にはもう、俺はきびすを返していた。ただこのまま切られてしまっては意味がない。少し速く、足を動かして。

 マンションの入り口に戻ってくると、美依奈は鍵を回そうとしていた。早く言葉を投げないと、切り離されてしまう。


「ねぇ、美依奈」

「なに?」


 俺の存在に気づいていない。でも鍵を回そうとはしていなかった。タバコのせいで息切れが早い。だから悟られないように畳み掛ける。


「こっち見て」

「――えっ?」


 スマートフォンを耳に当てたまま、彼女と目が合った。驚いている。少し距離はあったけど、ここからでも分かるぐらいに君は。

 電話を切って、ポケットにしまう。でも彼女は耳に当てたまま少し考えていた。いや切るのすら忘れているみたいで、可愛くすらある。

 君との距離は三歩分。遠くて近い。手を伸ばしても届かない。でも、言葉なら君の胸まで突き刺さる。そうだろう?


「新木……さん……?」


 耳鳴りがする。キーンと痛む。でも、今はどうでも良い。ただ彼女のことを見つめられるのなら、それで良い。

 瞳が合う。今日何度目だろう。指に引っ掛けている家の鍵。カチャリと風に揺れて、独特の金属音が耳鳴りを増長させる。

 同時に、湧き上がる。心の奥に押し込んでいた想い。素直な感情がカタチを変えずにそのままに。誰にも負けない。誰からも傷つけてさせない。俺が、俺だけが君のことを守れる。


 やっぱり、君の声を聞きたくなった。

 今から告げる言葉に、何と言ってくれるだろう。その答えは全く分からないけれど。言いたい。想いを。叫びたい。


 受け止めてくれるかどうかは分からない。でも、伝えなきゃ始まらない。君がアイドルだとしても、僕が好きになったのは山元美依奈という女の子なんだから。だから、もっと近くで君のことを見つめさせて――。



「僕は誰よりも君が好きだ」



 ポロッと落とした鍵の音が響く。夜風を切り裂いて、春風がやって来る。星々が輝いて月を彩る。空が鳴く。強く強く。


 何度だって、何度だって。

 君のためなら、嫌というほど言ってやる。

 今はもう、君の声しか聞こえない。


 君しか、見えない。



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