第71話
真っ黒な帰り道は疲労感を増幅させる。駅から自宅までの道のりは見飽きたぐらいなのに、今日は一段とその感情が姿を見せる。
街灯があるとは言え、一人で歩くのは少し怖いのが本音。だから自然と足早になる。道中にあるコンビニの灯りですら、私の心を落ち着かせてくれる。
特に用は無いけれど、何か買い忘れたモノがあるかもしれない。その程度の思い付きで、コンビニの入り口に足を向けた。すると、誰かが出てきたから思わず道を開ける。
「…………あ」
男の人の声だった。まるでファンが推しの芸能人を見つけた時みたいな、すごく素っ頓狂な声をしていた。
今は上手く対応出来る気がしなかったから、その人と目を合わせないようにして店内に足を踏み入れようとする。
「――美依奈?」
店内の雰囲気に呑まれる前に、彼に呼び止められた気がした。恐る恐る振り返って、見上げてみる。星が輝いているみたいに、彼が笑っていた。
「奇遇だね。買い物?」
「え、あ、えっと……」
彼の言う通り奇遇だった。奇遇過ぎたから狼狽えてしまった。まさか会えないと思っていた彼に、こんなところで会えるなんて思ってもいなかったから。
マスク姿の私に気付いてくれるのは、彼ぐらいだと思う。だからこそ、胸が高鳴った。
「もしこれから帰りなら送るよ。暗いし」
「あ……う、うん」
くるりと回って店内に背を向ける。「買い物しなくていいの?」と彼が聞いてきたけど、適当に理由を付けてコンビニを出た。
元々買い物することもない。それに、彼に会えたことでここでの目的は達成されたも同然。いま私が一番欲しかったモノを手に入れることが出来たから。
あの日看病に来てくれて良かった。家がバレて狼狽える自分が居ないから。いや、仮にそうじゃなくたって、別に今はどうでも良い。バレたところで恥ずかしくも何ともない。だって、私が大好きな人だから。
「コンビニで色々起こるね。俺たち」
「えっ? そうかな」
「そうとも。だって、俺が免許証落とした時もそうだろ?」
すごく懐かしい話を聞いた気分だ。もう一年近く前になる。すごく暑い夏の日のこと。アレが私じゃなかったら、いまもこうして連絡を取り合ってなかったかもしれない。
それに、コンビニで私の肩を強く抱きしめてくれたこともある。胸が痛い。良い意味で。体が火照っていく感覚。
私の左隣に立って、道路側を歩いてくれている彼。うっすらとタバコの匂いがする。彼の匂い。甘くて苦くて、優しい香りがゆらゆらと。
「……良かった」
思わずこぼれた言葉を、彼は不思議そうに聞いていた。
「どうして?」
「……夜道は苦手だから」
「そう。それなら俺も良かったよ」
「うん」
あなたに会えてよかった、という意味だったんだけどね。本当は。でも直接言うのは恥ずかしいから、言わない。ナイショ。あなたに一番聞いて欲しいのに、一番聞かれたくない。
沈黙が夜に溺れる。でも、何か話さなきゃとは思わなかった。ただ肩を並べて歩くこの時間すらも、私にはすごく幸せなの。ただあなたに包まれる。夜の空気が優しく体を覆う。
空を見上げてみると、思いのほか星が綺麗な夜だった。全然意識してなかったけど、こうして眺めるのも悪くない。むしろ、心のストレスが消えていくみたいで心地良い。
「着いたね。それじゃ、おやすみ」
「あ……」
彼はすごく素っ気なかった。出会った中で一番だと思うぐらい。私になんか興味が無いって言われてるみたいで。
マンションの入り口に私を置いて、彼はそのまま夜道に消えていった。残されたのは虚しさと寂しさ。少しの後悔。呼び止めて、少し話せば良かったと。でも追いかける気にはなれなかった。それを疲れのせいにしてる自分がすごくダサい。
オートロックの鍵を回そうとした時、ポケットに入れていたスマートフォンが震えた。
二回じゃ止まらなかったから、電話だと察する。夏菜子さんだろうと思った。一旦、鍵をしまってスマートフォンを手に取った。
「え……?」
私の予想は外れた。そして、答えは想像の斜め上をいく。恐る恐るボタンを押して、冷たい画面を耳に当てた。
「もしもし?」
「……ごめんね。いきなり」
開口一番に謝ってくるのが、この人らしかった。何も謝罪する理由なんてないのに。すごく不思議。けれど、それが変にツボに入って思わず笑ってしまいたくなる。すごく変な感情。胸を覆い尽くそうとしている彼の存在。
つい10秒前まで一緒に居た彼の声。電話だと少し違って聞こえる。それでも私の好きなトーンだった。
「どうしたの?」と聞いてみると、彼は苦そうに笑った。まるで太陽に照らされてるみたいな自分を誤魔化すみたいに。
「いやその……なんていうか」
よく分からなかったけど、ひどく胸が高鳴った。夜はまだまだ肌寒いのに、それを感じないぐらいには体温が上がっていく。
どくん、どくんと脈打つ体。鍵を回すことを忘れて、ただ入り口で立ち尽くすしかないこの夜。さっきまで平気だった沈黙が、今はすごく苦しかった。
「俺はその……美依奈のファンだから。誰よりも君のことを推している一人の男だから」
「……うん。そっか」
嬉しい言葉であるのに、悲しくすら聞こえるセリフだった。本音を言えば、全然嬉しくない。寂しい。彼はやっぱり私のことを第一に考えてくれている。優しさなのに、今はソレが憎くて仕方がない。
その言葉のおかげで、少し冷静さを取り戻してしまった。ポケットにしまった鍵を取り出して、片手でオートロックを開けようとする。
「……新木さん?」
私がそう問いかけたのには理由があった。電話越しの彼は何も言わなくなっていたから。切れたのかなと思って画面を見ても、通話中のアイコンは消えていない。
もう一度、ソレを耳に当てて軽く咳払いをしてみる。反応はない。「切っちゃうよー」なんて脅してみる。精一杯の強がりではあったけど、電話越しの彼には伝わったらしい。少し息を吸う音が聞こえた。
「ねぇ、美依奈」
彼から名前を呼ばれるたびにドキッとする。良い加減慣れたいのに、彼の声はそれを許してくれない。
「なに?」私が聞き返すと、すぐに返事は来ない。焦ったい。すごく。相変わらず体温は上がっていく。不思議なモノで、この熱っぽさはとても心地が良かった。
「こっち見て」
「――えっ?」
そう言われて、視線を左にずらした。マンション敷地の入り口。
そこには、さっきまで一緒に居た彼が立っていた。右耳にスマートフォンを当てていて、私と目が合ってからソレをポケットにしまう。
あまりにも意味が分からなくて、ただ耳元から流れる機械音を受け止めるしか出来ない。
三歩分ぐらいの距離。すごくもどかしい。もっと近くに来ればいいのに、彼はそこから動こうとすらしない。耳元では流れていた機械音も終わりを告げた。
彼みたいにスマートフォンをしまうと、体に力が入った気がした。いや、強張ったような感じがした。
二人だけの夜に溺れたみたい。息が出来ないぐらいの不思議な感覚。あなたの優しい視線が私の心の中に入ってくる。それは火照った体をさらに熱く熱く。真夏の中に追いやっていく。
「新木……さん……?」
なんだろう。今の私は、今の彼は、なんだろう。ひどく変な感じがした。生まれて初めて味わう感触。キーンと耳鳴りがして、とにかく彼の中に飲み込まれていくみたいな、あぁ、上手く言葉に出来ない。
耳鳴りが
ねぇ、お願い。お願いだから、今だけは。聞き間違いなんてしたくないから、だからお願い――。
「僕は誰よりも君が好きだ」
ポロッと落とした鍵の音も聞こえない。風の音も聞こえない。星々が輝く声すらも何も。
もう一度。もう一度。
何度だって聞きたい。あなたのその言葉。
今はもう、あなたの声しか聞こえない。
あなたしか、見えない。
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