第70話


 仕事が終わった時には、もう夜の9時を過ぎていた。雪ちゃんと話した後、夏菜子さんと合流して打ち合わせ。コマーシャル効果でモデルの仕事も増えつつあった。

 自身のスタイルに自惚れたことは無いけど、細いと言えば細い。洋服を邪魔しないと言えば邪魔しない。褒められてるんだろうけど、あんまりそんな気はしないのが本音だ。

 夏菜子さんと別れ、その足で向かうのはあの場所。疲れた体を休めたいとは思わなかった。


「こんばんは」


 カランと鳴るドアベル。ガラリとした店内。見慣れたあの人が、私の顔を見て少しだけ驚いている。


「あら。一人?」

「はい。あの……まだ大丈夫ですか?」


 この時間。普通の喫茶店なら店じまいしていてもおかしくない。ここもそんな雰囲気があったから問いかけた。すると白髪がよく似合うマスターは、優しく微笑んでみせた。


「もちろん。君のためなら朝まで開けてるよ」

「あはは……ありがとうございます」


 タバコの匂いが染み付いている店内。でも今日は、ほんの少しだけ匂いが弱い気がする。私の気のせいかもしれないけど、そんなことが気になってしまうぐらいに疲労感があった。

 カウンターの丸椅子に腰を落として、小さく息を吐いた。ホットコーヒーをお願いすると、彼は素直にそれを受け入れた。


 仕事に疲れたと言えばそうだけど、脳裏によぎるのは雪ちゃんの顔だった。一緒になって、彼女の紡いだ言葉が再生される。

 遅かれ早かれ、こうなることは予測していた。下手したら現場が一緒になることだってあり得たわけで。そう考えると、今の段階で夏乃雪音に会えたのは良かったのかもしれない。


「お疲れのようだね」


 苦味のある香りを差し出してきた彼は、私の顔を見てそう言った。否定する気にもなれなかったから、苦笑いを返答とした。そのままコーヒーを口元に近づけた。

 鼻を抜けて、体全体に張り付く香り。疲れがほんの一瞬だけ消え飛ぶ感覚。口付けると、舌先に残る苦味が筋肉をほぐしてくれる。美味しい。気づけば私も、すっかり常連となっていた。


「君は本当、面白いコトを連れてくるね」

「え?」


 私の斜め前に立っている彼は、わずかに口元を上げてそう言った。その意味は分からなかったけど、消し飛んでいた疲労感が戻ってきたせいで、理由を問いかける気にはなれない。でも、彼はお構いなしに口を開いた。


「いや、君たちって言うべきかな。アイツも入れて」

「……もしかしてご迷惑をおかけしましたか?」

「あぁいやいや! 全然そういうんじゃなくて」


 コーヒーを優しく置いて、彼の表情を見る。戸惑っているような、何か考えているような。あんまり見たことがない顔をしている。

 疲労感が戻っていたけど、そこまで言われたら変に気になってしまう。「ならどういうこと?」と問いかけようとしたら、先に彼が話し始めた。


「僕が自分の意志で背中を向けたのに、いつの間にか僕の目の前に立っているんだ」

「……はい」

「君たちが居なかったら、こんなことにはならなかっただろうね」


 怒っているような言葉に聞こえる。でも声色や表情はそんなわけではない。むしろ優しくて心地の良い雰囲気ですらあった。

 なら、どうしてそんなことを私に言ってくるのだろう。一体なにがあったのだろう。彼の言う「目の前に立っている」存在というのは何なのだろうか。疑問が矢継ぎ早に頭の中をぐるぐる回っている。車酔いみたいな独特の気持ち悪さがあったけど、私にはどうすることも出来なかった。


「それは私もそうですよ」


 彼の言葉の真意は分からなかったけど、スラスラと思考がカタチになって空気を舞った。

 自分でも不思議な感覚だった。理解していないのに、。私の知らない所で会話が繰り広げられているみたいで、気持ちの良いモノではない。


「……そうなの?」


 マスターは驚いた様子だった。自分でも言葉足らずだと理解していたみたい。それなのに、私が知ったような返答をしたのが不思議なようだ。


に会わなかったら、今の私は無かったです」

「なるほどね」

「それはマスターともですよ」

「……僕も?」


 声のトーンは抑え目だけど、また驚いている。その様子がほんの少しだけ彼に似ていて、思わず口角が上がった。


「ここでお仕事の話を貰って、好きになっちゃったんで」


 顎の下にあるコーヒーから上がる煙。それが顔全体に当たって蒸れる。苦いのに甘い。すごくふわふわした感覚だった。

 私の言葉を聞いていたマスターは、クスクス笑っている。そんなリアクションをされるのは少し意外だった。


「好きになったって、アイツのことを?」

「う……。そ、そうじゃなくて」

「分かりやすいねぇ」

「……もうっ」


 どうやら揶揄いたかっただけらしい。ただそれを否定する気にはなれなかった。だって彼の言うことは紛れもない事実だったから。

 でも、いま私が言いたかったのはそういうことじゃない。彼のことも好きだけど、そんな話の流れじゃなかったのに。ムカつく。


「このお店のことですよ。好きなのは」

「……そう。嬉しいよ。素直に」


 彼は私から少し離れて、胸ポケットからタバコを取り出した。ライターで火を付けるその仕草。彼に次いでカッコいい。

 離れたのは気を遣ってくれてるんだろうな。意地悪する人だと知ってるケド、そういったところは大人だなって思う。本当にカッコいい大人っていうのは、こういった気遣いが出来る人だよね。やっぱり。


「もちろん、マスターのことも好きですよ」

「アイツに次いでだろ?」

「はい。もちろん」

「……ったく。素直になっちゃって」


 呆れたように見えるけど、その顔は柔らかいモノだった。嬉しそうにしているようにも見える。ただ私が戸惑わなかったのには残念そうだ。

 漂う。ゆらゆらとタバコの匂い。彼とは違う。会いたい。この疲労感を拭い去ってくれるあなたに。今すぐ。やっぱり、コーヒーの香りだけじゃ足りないよ。あなたが居てくれないと。


「連絡しないの?」

「……もう遅いから」


 会える時間が出来たら連絡するとは言っている。実際、今日はもう帰って寝るだけ。だから会う時間そのものはある。……けれど。

 こういう経験が無いせいで、夜遅くに誰かへ連絡するのは気が引けた。思い返してみれば、私はひどく真面目な人生を送ってきていた。別に悪くはないけど、ここに来て自身のうとさが腹立たしく思えた。


「アイツ、暇してるんじゃないかな」

「……そうでしょうか」

「他に女と会ってたり」

「う……」


 可能性が無いわけじゃない。そう言われると気になるのが人間のさがだ。少し考える。

 夜の9時半を過ぎている。まだまだ活動時間と言えばそうだ。でも、今からここに呼び出したところで彼は来てくれるのだろうか。時間も掛かるし、流石にそれは悪い気がした。


「遠慮してたら、スルスルとすり抜けていく」

「……それは」

「それを見届けるのか、キュッと掴むのか。それは君次第。そうだろ?」


 彼の言う通りだ。何でもかんでも受け身になっていたら、いつまで経っても進展しない。

 分かっている。アイドルとしてやり直そうとしている私が、彼との恋愛を望んでいる。その事実がどれほど都合の良いモノなのかを。


「良いじゃないか。アイドルが恋したって」

「……」

「恋してる女の子って、輝くんだから。きっと、活動にも良い影響を与えるはずだよ」


 胸が高鳴った。頭の中に浮かぶ彼。その胸の中に沈み込んでいく私を想像して、ジンジンと体が痺れる。そんなあなたのハートの海に、溺れてしまいたい。

 もうここを出ることにした。残っているコーヒーに視線を落として、カップを優しく握る。


「運命はきっと微笑む。君たちに」

「……保証してくれるんですか?」

「あぁもちろん」


 そう笑う彼を見て、コーヒーに口付ける。もう冷たくなっていた。


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