第69話
宮さんが出て行ってから、妙に気まずい空気に包まれた店内。この店は寂れているのが魅力の一つなのに、今はその静けさが苦しかった。
おかわりさせられたコーヒーも飲み終わって、惰性でタバコに火を付ける。煙が体の中に侵入してくる。それが自身を
マスター、いや北條さんは俺から少し離れた場所に腰掛けて新聞を広げている。話しかけるなと言わんばかりの空気感を纏って。
「……あの」
俺が声を掛けると、彼は新聞を広げたまま口を開いた。「なんだよ」と機嫌の悪さを隠そうともしない。ソレが客にする態度かよと口に出してしまいそうになる。けど、なんとか堪える。そうなってしまう彼の気持ちも分からなくはない。
「コーヒーのおかわり」
三杯目になる。正直あまり飲みたい気分ではない。けれども、この空気の中を長居する理由が欲しかった。ほんの僅かな時間かもしれないが、十分な理由になるだろう。
「……もう売り切れだ」
「絶対嘘じゃん」
要は「出て行け」ということだろうか。ハッキリと言わない辺り、俺に気を遣っているのかなんなのか。いずれにしても、ここで俺が折れるつもりは無い。
「頼むよ。飲みたいんだって」
「……ったく。はいはい」
なんで呆れているんだ。それがあなたの仕事だろうが。全く。コレに限っては、呆れるのはこっち側だぞ。
新聞を雑に畳んで、憂鬱そうに立ち上がった。その表情はどこか力無い。気疲れしているようにも見えた。
それぐらい嫌なのだろうか。彼にとって、作詞家という仕事はもう死んだモノなのだろうか。あの宮夏菜子があそこまで絶賛しているのだ。それだけで只者ではないと分かる。
タバコの煙が喉を変に刺激したから、思わず
「タバコ止めたらどうだ?」
「出来たら苦労しないな」
「ま、確かに」
人を茶化す元気はあるらしい。そこに元気を使うのなら、もっと違う場所に使えばいいのに。ソレを言ったらまた面倒なコトを言い返されそうだから、グッと飲み込んだ。
喫煙者にしか分からない同意を得た俺は、気を取り直してタバコの煙を体の中に取り込んだ。
中々に長居しているが、気楽すぎて帰ろうとは思わなかった。マスターは
「……宮さんと知り合いだったんすか?」
作詞の件じゃないから良いだろう、と思って問いかけた。空気を悪くする感じじゃなく、本当に軽く投げかけた。
彼は何も言わなかった。でもそれは少しの沈黙であって、黙り込んでいたわけじゃない。自分なりに考えて、やがて呆れたように話始めた。
「一緒に仕事したことはない。僕が引退した頃、彼女は学生だったはずだよ」
「……じゃあ追っかけとか?」
「ふっ、そんなんじゃない」
表舞台に立っていたわけではないから、さすがにソレは無いか。そうだとしたらかなりのマニアだ。でもあんな彼女を見たらそうだとしても不思議ではない。
「あぁ、いや。でもそうか」マスターは独り言を空間に飛ばす。俺にギリギリ聞こえるような声で。自分の言ったことが気に食わなかったのか。彼は一人で考えて勝手に納得している。
いい加減ではあるが、マスターにとってもよく分からない存在であることには違いなかった。
「マスターの目から見て、彼女はどう見えますか」
ふと気になった。作詞家だったのなら、きっと色んな人物を目の前で見てきたはずだ。
だから、ファンとは違う視点で彼女のことを見ることが出来るのではないか。つまり、売れるか売れないか。その目線で。
そう思っていたのに、彼は俺を茶化す時の顔をしてみせた。あまり良い予感はしなかったから、彼に分からないように身構えた。
「すごく可愛い子じゃないか。お前には勿体ないぐらいに」
「そうじゃなくて」
心の準備をしていたから、割と食い気味で反論することになった。それが彼は気に食わなかったようで、その不満を思い切り表情に出している。俺は遊び道具じゃないぞ。
「北條輝が見て、あの子は大成すると思うかってこと」
名前を出してしまうと、拗ねると思った。けれど、こうやって揶揄われてばかりでは何も生まない。
だから思い切って問いかけた。包み隠さず、ストレートな言葉で。俺が今いちばん気になっていることを。
北條さんは露骨に嫌そうな顔をした。でも誤魔化すのにも疲れたみたいで、盛大なため息をついた。胸ポケットから取り出したタバコに火を付けて、煙を天井に吐き出す。
「どうだろうな」
考えていないような態度に見えたから、思わずムッとしてしまった。一方で彼も言葉足らずだと気づいたらしく、すぐに言葉を付け足した。
「いや何とも言えないのが本音だ。良い子だし、個人的には大成してほしいが」
「……そうっすよね」
「何でガッカリするんだよ」
そりゃあだって。期待していたからに決まってる。彼が太鼓判を押してくれたら、俺の希望的観測とは比べ物にならないぐらいの確信を得ることが出来る。
言い換えたら、それだけのためだ。俺がそんな安心をしたかった。だから聞いただけ。その結果を得られなかったから、態度に表れてしまった。それを口に出して説明するのが恥ずかしくて、少し迷った。
でも、北條さんはニヤリと笑った。いつものマスターみたいに。それはまるで、俺の胸の中を理解したような。ムカつくけど、今は気分的に悪くない。
「――大成するには本人の努力だけじゃダメなんだ」
灰皿に落ちていく残骸を見届けて、彼は再びソレに命を吹き込んだ。作詞家だった過去があると知ったせいか、それだけの動作なのに妙に様になって見えた。これまで幾度となく見てきた姿なのに。
「と言うと?」
俺もソレに感化されて、長さが半分くらいになったタバコを吸う。彼のように様にはなってないけど、長く吸ってきた経験がある。妙なところで張り合おうとする自分が変で仕方がなかった。
「運だよ。最後は」
随分と抽象的な理由だと感じた。でも彼は言葉を続ける。さっきみたいに考えたわけじゃない。最初から言おうと決めていたみたいにスラスラと出てきた。
「芸能界、アイドル業界で生き残ろうとしたら一番大きな要素なんだよ。実はさ」
「そう、なんですか」
「ああそうさ。努力して努力して一流のパフォーマンスを身に付けたとしても、ソレを知ってもらえるかどうかも分からない。そんな世界なんだ」
それはどの仕事にも共通して言える気もした。けれど、芸能界は特にそうかもしれない。
よく聞くのは、彼が言うように「実力があるのに知られていない」こと。アイドルだけじゃなく、アーティストなら誰しも感じたことがあるはずだ。
「まずは知名度を上げることが最優先だったりするんだ。特に現代は、多様化してるから」
「……なるほど」
俺が思っていたより、この人は今でもあの世界のことをよく知っているみたいだった。……どこか忘れられないというか、後悔しているような。そんな感情が見え隠れしているようにも見える。
「でも今はネットがあるし、消費者の幅も広がってるんじゃ」
「うん。確かに。でもそんな人ばかりじゃない」
彼は続ける。
「いまはとにかく情報社会だ。行き交いすぎて、どれが本当なのか見極める力を求められているぐらいにね。これじゃまるで、吹き荒れる風の中に立っているみたいだ」
彼女の報道の件を言っているのか。そうだとしても、俺に言えることはない。
それに彼の言うことも否定しない。俺はそこまで詳しい方ではないが、多分事実だから。
「話を戻すけど、そんな中でチャンス自体を見つけるのは困難だ。だけどあの子は――掴みかけている」
「……コマーシャルで?」
「そう。だから、可能性はあるんじゃないかな」
「何とも言えないんじゃなかったんですか」
言うのは野暮だと思ったが、堪えることが出来なかった。彼はタバコを灰皿に押し付けながら、口角を僅かに上げた。
「これは僕の願望だよ。君もそうだろ?」
あぁそうだよ。笑って、ここでようやくコーヒーに口付けた。もう冷たくなっていた。
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