第66話



 宮さんの言っている言葉の意味は、ひどく単純なモノであると分かっていた。けれど、今の状況やこれまでの関係を鑑みて、素直にソレを飲み込むことが出来ない。


「歌詞……? え? それを、マスターに?」


 そのせいで頭の上にクエスチョンマークが浮かんでしまった。宮さんはクスッと笑って頷いてみせる。


「ええそうよ」

「……なぜ?」


 俺の疑問を認めただけでは、根本的な解決になっていない。追撃のクエスチョンを彼女にぶつけてみると、それを聞いていたマスターが大きなため息をついた。


「別にいいだろ」

「よくないっすよ。気になるし」

「はぁ。全く」


 その呆れ顔は俺じゃなく、宮夏菜子に向けられていた。そりゃそうか。彼女が居なきゃ話題にすらならなかったのだから。少し同情すらしてしまう。

 そもそもの話、俺はプライベートのマスターをあまり知らないのだ。余計なことを知ってしまえば、居心地の良かったこの空間が、そうじゃなくなってしまう気がして。

 というより、あまり興味が無かったと言うのが本音だ。自分から話そうともしなかったし、俺から聞くことでもないだろうと。


「そういう仕事をしてたってこと?」


 試しに聞いてみる。話の流れを考えればそういうことだろう。実は過去に作詞家だった、と考えるのが自然なカタチである。

 でも確かになぁ。言われてみれば、独特な言い回しをすることも少なくなかった。それで納得できるだけの材料とまではいかないが、彼の持つ雰囲気が俺の思考をそう結論付けていく。


「そういうこと。冴えてるじゃない」

「あぁなったら誰でも分かりますよ……」


 宮さんは相変わらず俺のことを馬鹿にしているようだ。別にいい。もうここまで来れば慣れたモノだし。

 チラリとマスターの顔を見ると、苦そうに笑っている。恥ずかしい過去を曝け出された子どもみたいに。隠していたのかどうかは分からないけれど、俺に言わなかったということはあまりポジティブな意味合いは無い気がした。


「マスターにそんな裏顔があったとは」

「うるせ。ほら、コーヒー冷めるぞ」

「分かってますって」


 あからさまに話を逸らすあたり、やはり触れられたくない話題なのかもしれない。そこにズケズケと踏み込んでいくのが宮夏菜子なのだが。

 言われた通りコーヒーに口付けると、もうすでに少し冷たくなっていた。お陰でマスターと顔を合わせづらくなって、視線を下に向けるしかなかった。

 宮さんが吸う電子タバコの匂いが漂ってくる。紙に比べてタバコ感の無い香り。吸ってみたいとは思うけど、どうも俺には合わない気がする。なんとなくだけど。


「というか、お二人って知り合いだったんですか?」


 彼女に向けて疑問をぶつけた。ここに入って来た時点で聞こうと思ったことでもあった。

 ただの知り合いにしては、軽口の度合いが強い。顔見知り程度、というわけではないだろう。客観的に見てもそう思える。


 電子タバコの煙を天井に吐きながら、彼女は横目で俺の顔を見る。黙っていれば美人なんだけど、いかんせん口が悪いからなぁ。それにしても、本当にいくつなんだろう。藤原との会話を思い出しては、込み上げる笑いを必死に堪える。

 マスターは俺たちから少し離れた場所でグラスを拭いている。会話は聞こえる範囲らしく、チラチラと俺たちの方を確認する素振りを見せた。


「そうね。昔から知ってる」

「……どういう関係なんです?」

「どうって、仕事仲間よ」


 となれば、気になるのはマスターの前職だ。でもこれを宮さんに聞くのはどうだろう。彼に直接聞かないと、あまり良い気はしないんじゃないか。


「あの、昔何してたんです?」


 俺の右斜め前に立っている彼に問いかけると、拭き終わったグラスをコトンと置いてため息をついた。チラリと宮さんに目配せをして、それ以降は何もしなかった。


北條 輝ほうじょうてるって知ってる?」


 おそらく人の名前だろう。と言うのも、初めて聞いた名詞だったからそうなったわけで。彼女の問いかけに首を横に振ると、少し残念そうに笑った。


「それが彼の名前。もう一つの」

「もう一つ……ペンネーム的な?」

「そういうこと。まぁでも、本名を少し変えてる程度なんだけどね」


 それを本人じゃなく、宮夏菜子から聞いているこの状況も可笑しい。その北條さんは目の前に居るというのに。

 彼はどこか観念した様子で、ため息をついている。彼女の強引さは本当に末恐ろしい。でもまぁ、あんな会話を聞かされたら言い逃れ出来ないだろうが。


「……作詞家だったんだよ。僕」


 ここでようやく、マスターが口を開いた。彼にそんな過去があったというのに、不思議と驚きは無かった。

 彼の持つ独特の感性や言葉遣いを、僅かながらに知っていたからだと思う。年の割に若々しい見た目をしているのもあるだろうけど、俺の胸の中にいた違和感がようやく具現化したみたいな気持ちよさすらあった。


「若手のホープだったの。案の定、1980年代の楽曲を彩る上で欠かせない存在になってね」

「本当に凄い人じゃないですか」


 感嘆していると、彼女は少し嬉しそうに笑った。


「そうね。でも、パッタリと書かなくなった」

「……どうして」


 この問いかけは宮夏菜子じゃなく、マスターに向けて。彼は紙タバコを吸いながら、カウンターに寄りかかるよう俺に背を向けていた。まるで顔を合わせたがらない子どもみたいに。

 タバコの煙が天井に上がっていく度、頭の中にある言葉が一つ一つ欠けていく。そんな輪廻に陥ってしまった彼の背中を見てしまったような、弱々しいマスターがそこには居た。


「分かりやすく言うと、ノイローゼになったんだ」


 声まで弱々しい。だから何も言えなかった。反応が無かったからか、彼は笑ってこちら側を向いてくれた。タバコの火はもうすぐ消えそうだ。


「ま、今は何も無いけどね。それを仕事にしなくなったから」

「……言葉が出てこないとかですか?」

「ん、まぁ、そういうの。眠れなくなったり、吐き気とかも酷かったな。あの頃は」


 要は精神的なストレスということか。ノイローゼ自体がそういうモノだろうし。ただ、そんな人に彼女はどうして話を持ちかけているのだ。しかも、あの口ぶりなら間違いなく知っていたはずなのに。


「彼しか居ないの」


 思わず彼女の顔を見た。案の定、俺の方を見ていて、心を読まれたとため息をつく。どうしても顔に出てしまうらしい。宮夏菜子に対するあまり良くない感情とやらが。


「でもマスターの体を考えると、それは」

「分かってる。無理を言ってしまうのだって、重々承知の上よ」


 作詞家こそ、別に彼じゃなくていいはずだ。有名な人も居るだろうし、それこそネットで募集掛ければそこそこの人数が集まることだってあるだろう。

 でも、それをしないだけの理由があるとしたら。それは――割と単純なモノなのかもしれない。


「彼の書く詩が好きなの。私は」


 「好き」という感情に勝るアクセルは無いのだな。結局、こだわりというのは人間の好意の集合体であって、そこに深い意味なんて存在しない。

 ただ好きだから。嫌いだから。直感と呼ばれる感情に身を任せて判断することだって少なくないのだ。たとえそれが、他人を動かす重大なコトだとしても。


「それはプロデューサーとしてかい? それとも――宮夏菜子として?」


 俺はマスターの詩を見たことがないから何も言えないけど、美依奈には合うんだろうな。きっと。

 宮さんは彼女のことを第一に考えている。個人の意見をここまで押すのも考えてのことだろう。その辺は全く心配していなかった。

 彼の問いかけに、彼女は口元を緩ませた。カバンを持って立ち上がる。


「両方よ。北條さん」


 そう言った彼女は、お代をカウンターに置いて、お釣りも受け取らずに店を出て行ってしまった。

 張り詰めていた糸が切れたみたいに、マスターは盛大にため息をついた。何度目か分からないソレは、見ていて清々しいぐらいでもある。


「………作詞、か」


 そう呟いた彼を見ながら、すっかり冷たくなったコーヒーを飲み干した。清涼感が喉を抜けていくと、火照った頭が冷えていく気がした。


 冷静になって考えると、俺の周りであまりにも色々なことが起きていることに気づく。常連の喫茶店のマスターが作詞家だったとか、推しと一緒に週刊誌に載ったりだとか。

 でもそのおかげで、今の俺は誰よりも君のことを好きになることが出来た。推していたあの頃よりもずっとずっと、見惚れるぐらいに。


 だからこそ見てみたい。彼の詩で輝く彼女の姿を。今それを言ったら、皿洗いとかさせられそうだからやめておこう。うん。



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