第63話
朝イチで病院に行って、診察を受けた。
結論から言えば、ただの風邪だった。疲労から免疫が落ちていたみたい。少し出てきた熱も、処方された薬を飲んだらすぐに下がった。とりあえずは一安心だった。
昼前に帰ってきて、それからずっと眠っていたせいか体が重い。でも熱っぽさも無くて、昨日に比べたら全然楽だ。
「はい、お茶」
「ありがとうございます。いただきます」
夕方になって、夏菜子さんが連絡をくれた。体調のことを告げたら、私にも分かるぐらいに安堵していた。それだけ心配をかけてしまったと申し訳なくなって。
そんな私を尻目に、彼女は家にやって来た。特製の梅おかゆを作ってくれた。今日だけは自炊も面倒で、インスタントのおかゆを温めただけなんだけど、それとは比べ物にならないぐらいに美味しかった。
「食欲も戻ってきたみたいね」
「はい。昨日より随分楽になりました」
「よかった」
おかゆを完食したからか、彼女はそう言う。ガッツリは食べたくないけど、だいぶ戻ってきているのは事実だった。
薬を飲み終えた私と向かい合うように、夏菜子さんは座った。
「で、昨日はどうだったの?」
「へっ。な、何がですか?」
「何って、彼と二人きりだったんでしょ」
「そうですケド……。そ、そんなんじゃないですから」
「あらそう。てっきり一線越えたと」
揶揄われてるのは分かってた。言い返してやろうと思ったけど、元気な時に比べて頭の回りが鈍い。あまり良い言葉が浮かばなかった。
一線を越えた。彼女はそう言うが、言い換えれば、やったかやってないか。何をか、と疑問に思う純粋な私は思春期に捨ててきた。
でも、恋愛経験がほとんどない私にとってその感覚は分からない。恋はしてきたけど、同時にアイドルを目指していたから心のどこかでブレーキを掛けていたんだと思う。今になって考えれば。
サクラロマンスとして活動することになってからは、本格的にそういうのとは切り離された。したいって思う以前に、忙しくて面倒だと思ってしまう自分がいたから。
「病人に手出しするほど彼は酷くありませんよ」
「ヘタレとも言えるけどね」
「……もうっ。夏菜子さんはどうして彼に意地悪ばっかりするんですか」
客観的に見ても、彼女の彼に対する態度は異質である。まるで上から試しているような、そんな雰囲気すら感じるぐらいに。
「そう見える?」
「すごく」
「あなたが彼を好きだって分かるぐらい?」
「も、もうっ! そうじゃなくって!」
あははと笑う彼女。いつもこうだ。こうやって私のことを揶揄ってくる。意地悪してくる。こんな男の子居たなぁ。子どもの頃、好きな女の子にちょっかいかける子。夏菜子さんもそうだったりして。喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
「昨日の動画が話題になれば、
「……そういうモノでしょうか」
「そういうモノよ」
悪い意味で熱くなった喉を温めるように。お茶を飲んでいた私に、彼女は真面目なことを言ってくる。この独特なペースにも随分慣れたモノだ。
「あなたは実績もあるし。辞め方は悪かったケド」
「……ごめんなさい」
申し訳なくなって視線を落とした。何度も同じことで謝っている気がする。その度、夏菜子さんは慰めてくれる。その繰り返しだ。
「あぁそういう意味じゃなくて。単に、そうだとしても声を掛けるところはあるってこと」
最大級の褒め言葉だとは思う。でもそれを素直に受け入れる気にはなれなかった。
それはやっぱり、彼に対する感情を捨てきれなくなっていたから。そして、歌デビューの声が掛かるということはすなわち。彼との関係に決着をつける必要が出てくるのだ。
私の一方通行かもしれない。そうじゃないとしても、彼に「アイドルの恋人」という十字架を背負ってもらうことになる。
彼が芸能人であれば、割り切れる要素もあるけれど。全然そんなことはない一般人だ。そんな彼が世間から好奇な目線で見られるのは、正直言って嫌だ。自分のことのように苦しい。
ただでさえ、あなたには迷惑ばかり掛けているのに。大衆の目に晒すなんて真似は、もう。
そっとしておいてくれるわけがない。あの週刊誌だって、私の彼の関係を掘り起こしてくるはずだ。だからこれ以上――。
「彼が居なくてもアイドル活動できる?」
夏菜子さんの問いかけは、まるで私の心を覗き込んでいるみたいだった。そして、思考を止めるように言ってるようで。
思い出す。あの日。彼を置いて飛び出したあの瞬間のこと。もう彼には会えないと分かって、溢れ出る感情を止めようともしなかった。今度、同じことになったら私は、私は、もう――。
「皮肉よね。色恋沙汰には厳しい仕事なのに、それが無いと輝けないなんて」
「……そっ、それは」
夏菜子さんは寂しそうに、でもどこか暖かくて優しい声で呟いた。思わず反応してしまったけれど、そんな私に気を留めていない。
本音を言えば、彼が居なくても頑張れる。これまで通り。サクラロマンスを抜けた一人の女性としてステージ上で輝きたい。
でも、彼が居たら。もっと、もっと、もっと。あなたのために歌える。踊れる。私に夢中にさせてあげたい。もっと。
彼女の言う通り、皮肉だった。そしてそれは、もう無視できないところまで来ている。決断をしないと、私たちは前に進めないところまで。
「昨日のミーナちゃんに手を出さなかったのでしょう?」
また話が戻った。もうその手の話はしたくなかった、というか聞かれたくなかった。
ただでさえ経験の無い私なのに、そんな深いことを言われてもどう反応して良いのか分からないのだ。だから、良い加減なことしか言えない。しかも、さっきより頭の回転が鈍くなっている。彼の話に酔っ払ってしまって。
「え、えっと……たぶん」
「さっきと言ってること違うじゃない」
「だ、だって……」
「もしかしてチューぐらいした?」
どくんと胸が鳴った。痛いぐらいに。
「し、してません!」
「じゃあなんで「多分」ってなるのよ」
「……わ、分かりませんっ」
「あらそう。ま、それはいずれ分かるわね」
「ど、どういう意味ですか」
「彼に風邪が移ってたら、そういうことでしょ?」
「決めつけないでくださいっ!」
プイッと顔を背けると、彼女はクスクス笑った。まるで子どもを揶揄う母親だ。私より少し年上なだけなのに、よくそんな雰囲気が出せるな。この人。
根詰めすぎて、その疲労感が顔に出ているだけだ。多分、あらゆるストレスから解放してあげたら、とんでもなく綺麗になるんだろうな。
「何よその顔。私のこと馬鹿にしてるでしょ?」
「そ、そんなことないですよ。考えすぎです」
「どうかしら。まぁ良いけど」
勘は鋭いし、怖いよ本当に。この人には隠し事は絶対に出来ないって言い切れるほどだ。
こんな会話が出来ることに安堵したのか、彼女は苦笑いして立ち上がった。帰るようだ。
「――後悔しちゃダメよ」
「えっ?」
玄関で靴を履き替えた夏菜子さんが、私に背を向けたままそんなことを言う。
「あなたが思うように、動いて良いから」
「……結果、人気出ないかもしれませんよ」
「うん。良いの」
これまでなら聞き返していたと思う。「どうして?」と。でも、彼女が背を向けたまま言うから、言葉が出て来なかった。
私に遠慮してるんじゃないかって、気を遣ってくれてるんじゃないかって、色々考えてしまって。だから、怖くて踏み込めなかった。
「暖かくして寝てね」と振り返った彼女の顔は、柔らかいモノだった。出て行くと、静寂に包み込まれる。まるで抱きしめられているみたいに。でもあまり、心地の良い感じでは無かった。
こうなっても、頭の中に居るのは彼。新木吾朗。
――てっきり一線越えたと。
夏菜子さんの声が再生された。そして頭のシアターには彼が映し出される。両手を広げて、私のことを受け入れてくれる。
あなたの腕の中で狂いながら、ただ踊って弾けて、その快感の海に溺れる。息が出来ないぐらいにキッスをして。
そんな私を浮かべて、熱を帯びた体をただベッドに沈めるだけ。そしてその果実は、甘く際どく、弾け飛んでいく。
ねぇ、あなた。
あなたは私のことを好き?
私はこんなにも、あなたが好きなのに。
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