第62話
結果的に、定時よりも早く出社していた。家に帰ってシャワーを浴びて、この現実から逃げ出すように仕事の空気を浴びている。
でもオフィスはガラリとしていて、俺以外に誰も居ない。仕事を始めるには、少し気が抜ける。だから会社の喫煙所で時間を潰すことにした。数十分ぐらいね。
ドアをくぐり抜けて、嗅ぎ慣れた部屋の空気。落ち着くな。職場で一番リラックスできる場所に違いない。
タバコに火を付けて、煙を体の中に染み込ませる。思えば、昨日の夜から吸えていなかった。無意識のうちに我慢していたせいか、いつもよりガツンと来る感じがした。
(……眠い)
盛大にあくびをする。それに座ったまま寝てしまったせいか、俺が思っていた以上に体にダメージが残っていた。
まだ若いから大丈夫だろうと余裕をぶっこいていた。世間的にはどうか知らないが、俺はまだまだ若いつもりだ。うん。この首や背中の痛みはすぐに引くだろう。絶対そうだ。そうであってくれ。頼むから。
「新木さぁーん……」
「どわああああ!?」
タバコの灰が落ちた。俺の声で。それぐらい大きなモノだと理解した。自分で。あまりにも予想していなかったから、喉を思い切り痛めるような使い方をしてしまった。
誰も居ないと思っていた喫煙所。その奥にひっそりと影を被っていた男。藤原である。
「ふ、ふ、藤原。お前居たのか……?」
「ずっと居ましたよ……ひどい……」
「い、いや。なんつーか。オーラ無さすぎて」
「いいんです。どうせ俺なんて」
背も高く体格も良い彼であるが、今日はやけに萎れてみえた。言葉に力が無いし、自身を蔑んでいる雰囲気。影を被っているように見えた彼は、どうやら本当にそうらしい。
そもそもタバコを吸わないのに、なんでここに居るんだ。色々おかしいな。
「……なんでここにいるんだ?」
俺の叫び声で落ちて行った灰を取り戻すみたいに、思い切りタバコを吸い込んでは吐き出す。
眠気が全身に広がるのを、煙が必死に繋ぎ止めているような。そんな感覚。もう一回。もう一回と吸ったら、火はあっという間に根元までやって来た。
「一人になりたかったんです」
灰皿にタバコを押し付けると、ジュワリと音がした。藤原の声は力無いのに、それに負けないぐらいにはよく聞こえた。不思議である。
「なら別にここじゃなくて良いだろ」
特に何も考えず言葉にした。タバコをもう一本取り出して火を付ける。少しだけ藤原に近づいて。
すると彼は、力無い瞳で俺を見つめてきた。そんな目で見るのは止めてくれ。
「オフィスって広いじゃないですか」
「うん」
「それを宇宙だと仮定しましょう」
「うん?」
「僕なんて微生物なんですよ。結局」
「うん」
「一人取り残されるのって寂しいんです」
「うん」
「だからオアシスを求めるんです。喫煙所という名の地球へ、人類は手を伸ばしたわけです」
「うん」
「……聞いてます?」
「聞いてるよ。理解はしてないけど」
「ひどいです。あと俺は微生物じゃありません」
「自分で言ったろ」
「否定してくださいよ」
面倒くせぇなコイツ。言ってる言葉の意味も分からないし、だけど共感だけは求めてくる。理解出来ないのに共感もクソもない。
呆れた感情を助長させるタバコの煙。これを吸ってる時は本心で居られる。タバコというのはそういうモノだと分かったのは、つい最近だった。
「何があったんだよ」
とりあえず一つ言えるのは、何か良くないことがあったらしい。喫煙者じゃない藤原がここに居ること自体おかしな話。「なんで居るのか」じゃなくて「何があった」と最初から聞けば良かったと後悔に近い感情がある。
藤原は、虚な目で空気を見つめている。喫煙所全体の空気が悪くなるからやめてほしい。うん。
「広いって寂しいんだなって」
「……何が?」
聞いたけれど、彼は答えようとしない。
昨日、解散した時は至って普通だったのに。ここに至るまでの7時間弱の間に何があったんだ。真夜中だったことを考えると、ある程度は絞られてもおかしくないが。
いかんせん、俺も眠くて思考が回らない。早めに来てしまうぐらいだ。始業までデスクで仮眠しようか。
「新木さんってこんな経験あります?」
「ん?」
「帰ったら部屋に入れなかったって経験」
「うーん。無いな」
「良いですね」
「嫌味か?」
「違います。すみません。ただ悲しくなって」
なんとなくだけど、ピンと来た。
でも、これを口にしても良いモノだろうか。ストレートに言うと傷つけてしまいそうで。ただでさえ落ち込んでいるのに。
「俺、彼女に嫌われたみたいです」
「そ、そう……」
別れたとかフラれたとかじゃないんだな。嫌われた、か。
……と言うと、どういうことだ? 分かりそうで分からない。嫌われたから別れそうって話なのか? いずれにしても本人に聞かないことには分からないな。
「どうしてそう言えるんだ?」
「私、実家に帰ることにしたの――」
「はい?」
「帰るのはね、夢を叶えたいから。コーくん。私のずっと追いかけてた夢。だからコーくんにはコーくんの夢を追いかけてほしいの。大丈夫。だからもう、私の家には来ないでね。お願いだから。ごめんね。今までありがとう」
今にも明かりを失ってしまいそうな瞳。ただただ日本語を機械的に紡ぐだけの哀れな存在。
「一応聞くけど今のは?」
「昨日来たメッセージです。覚えちゃいました」
「忘れなさい。今すぐに」
藤原は盛大にため息をつく。今にも泣き出しそうな顔をしている。大男が弱っている姿を見ると、独特の感情が湧き出てくる。
「心当たりあるのか?」
「ないっす」
「どれぐらい付き合ってたのさ」
「3ヶ月」
「短っ」
「えっ」
「あ、いや、なんでもない」
3ヶ月で実家に帰る話になるか普通。冷静に考えて、ガールフレンドの言うことは嘘だろう。独断専行で恋人のことを切り離そうとしている時点で、いい子とは思えない。
「そのあと家行ったんすよ。昨日」
「まぁ納得出来ないもんな」
「俺よりデカい男が出てきました」
「……そうか」
「短い、恋でした……」
相当な大男だったんだろう。コイツが素直に引いてしまったところを見ると。
「まぁなんだ。これからこれから」
「しばらく恋愛はいいっす」
「合コンでも行けば良い」
「新木さんセッティングしてくださいよ」
「えぇ……」
言っといてアレだが、合コンなんて久しく行っていない。つまり、女の子のツテもないわけだ。男同士の飲み会ならいくらでもセッティングするんだけども。
「とりあえず飲みにでも行くか? 愚痴聞くぞ」
「ありがとうございます。連れてってください」
「おう。明日の方がいいか?」
「お任せします。フリーなんで」
「いちいち寂しいこと言うなよ」
なら明日だな。週末だし、時間を気にせず気兼ねなく飲めるだろう。こういう時はアルコールに溺れてしまうのが一番だ。
タバコの火を消して、喫煙所を出ようとする。その時、藤原が俺を呼び止めた。
「新木さん、宮さんって居るじゃないですか」
「宮さんって、あの宮夏菜子?」
「そうっす」
なぜコイツの口から彼女の名前が出てくるのか分からない。それに名を聞くだけで嫌な予感がするのも、ある意味すごい才能だと思う。恐るべし宮夏菜子、というところか。
「いくつに見えます?」
「なんだよいきなり。こえーよ」
「俺はその怖い思いをしたんです。新木さんにも共有しようと思って」
「いらぬ優しさだぞ。それは」
と言うと、彼女本人からそう聞かれたのか。はたまた、コイツが聞いたのか。いずれにしても、触れるべきではないな。
だが俺も気になってはいた。ただパンドラの箱すぎて。それに触ったコイツはやはり、営業向きなんだろう。
「それで、いくつに見えます?」
「絶対本人に言うなよ」
「もちろんっす」
信用出来ないなぁ……。まぁ男の遊びだと思えばいいか。お金のかからない遊び。傷心のコイツにとって少しでも元気が出ればそれで良いし。
「57」
意を決した俺がそう言うと、藤原は思い切り吹き出した。今日初めて笑ってくれた気がする。
「違った?」
「正解は俺も知りません」
「なんだそれ」
「ただ一つ言えることはあります」
「なに?」
「絶対本人の前で言っちゃいけないってことです」
それには同意だよ。本当に。
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