第61話
ゆっくり瞼を開けると、徐々に意識が覚醒していく。普段の寝起きは悪い私だったけど、今日は違う。沼にハマったみたいに体が重くて、憂鬱な感情が胸の中に居座っている。
だから、早く逃げたくて体を無理矢理起こした。そこで違和感に気づいた。私の左手。すぐそばに、彼が座ったまま眠っていたから。
「新木、さん」
呼びかけても返事がない。肩がゆっくり上下に揺れているから、眠っていると判断できた。スマートフォンで時間を確認すると、朝の5時半過ぎだった。
体はだるいけど、昨日のような熱っぽさはない。朝だからかもしれない。でも少し安心感があった。
それよりも彼だ。昨日の夜はかなり
今の今まで、ずっと居てくれた。私のことなんか放っておいて、帰れば良かったのに。ずっとそばに居てくれた。今日も今からお仕事なのに。それなのに。
「……新木さん」
胸の前でキュッと握り拳を作った。
昨日とは打って変わって、心がぽかぽかと暖かくなっていく。孤独に、寒さに、震えていた昨日の夜なんて無かったかのようなぐらいに、私の全身を包み込んだ彼の優しさ。
嬉しくて嬉しくて、あなたを後ろから抱きしめたくなる。そんなことをしたら、彼はどんな顔をしてくれるんだろう。驚いて、飛び起きたりするのかな。考えるだけで、口元が緩んだ。微笑みが溢れていく。
枕元に置いていた体温計で熱を計ると、体感通り平熱に戻っていた。
何も羽織っていない状態で眠っている彼。申し訳なくて、音を立てないようにベッドから降りて、クローゼットから使っていない毛布を取り出した。それを彼に優しく掛ける。
「ん……」
起きるかもと思ったけど、そんなことは無かった。彼も疲れが溜まっていたんだろうな。そんななのに、ずっと居てくれたことが申し訳なくもあり、嬉しくもあった。
リビングに戻って、閉め切られたカーテンを開いた。朝日が顔を覗かせていて、綺麗な朝。彼と二人で迎えた朝。
……すごくいやらしい意味に聞こえるかもしれないけど、そんなことはない。実際はすごく綺麗で、清々しい気持ちだった。
冷蔵庫の前に立つと、見覚えの無いメモ書きが貼り付けられていた。
「あはは、夏菜子さん……」
彼女もわざわざ来てくれたみたいだ。
確かに化粧も落ちてる。多分だけど、夏菜子さんが落としてくれたんだろうな。
メモには綺麗な字で「彼を置いて帰るね」とだけ書かれていた。ということは、新木さんは彼女の指示に従っただけなのだろうか。
……いや。なんとなく違う気がした。根拠なんて無いけれど、私のことを考えてくれて、自分の意思で残ってくれたんじゃないかな。
分かっている。これは自分の願望であると。そうであって欲しいと願うだけのワガママだと。でも、いずれにしても彼が居てくれて良かった。寂しく朝を迎えることは無かったから。
冷蔵庫から水を取り出して、それを喉に流し込む。まさにゴクゴクと聞こえるぐらいに勢いよく。服も汗を吸い込んでいて、べっとりと気持ちが悪い。部屋着に着替えていた自分を褒めたいぐらいだ。とにかく着替えないと。
「……化粧どうしよう」
彼の前ですっぴんでありたくない自分と、メイクが面倒な自分が居る。こんな朝早くからしたところで、病院に行くまでもうひと眠りするのは目に見えている。
結論、マスクをして誤魔化そう。彼に風邪を移すわけにはいかないし。それが一番だと気づいたら、それからは早かった。寝室のクローゼットから服を適当に選んで、そのまま脱衣所に向かう。
彼の目の前で着替えるわけにはいかない。……色々見られたくないし。その、あまり自信もないし。
彼が私の更衣を見て、襲いかかってきたらどうしよう。それはそれで、えへへとニヤけてしまう私が居る。そんな願望はないのに。でも、胸の奥がチクチク痛くなる。嬉しくて。
「顔色悪いなぁ……」
脱衣所の鏡を見ながら呟いた。
熱は下がったけど、やはり本調子とは言えない。これから病院に行くつもりだし、夏菜子さんもそうしろと言うはずだ。
スウェットを脱いで、下着も替える。決してグラマーとは言えない体だけど。
新しい部屋着と言っても、同じくスウェットである。色が水色で少し明るくなっただけで、さっきまで着ていたモノと種類は同じ。この感触が好きだから別にいいんだけど。
キッチンに戻って、電気ケトルに水を注ぐ。私の分と彼の分。病人だけど、コーヒーぐらい淹れないと気が済まない。こんなんじゃ足りないくらいのことを彼はしてくれたのに。
沸騰するまで、少し時間がある。
その中で、思考は彼のことばかり考えていた。仕事のことでもなくて、夏菜子さんのことでもなくて、彼のことを。
「……新木さんって大きい方が好きなのかな」
ふとした疑問。別に気に留めていなかったのに、言の葉にしてしまったら気になって仕方がない。
いいや。彼は私のことを推してたぐらいだ。そんなことは気にしないはず。そうであって欲しいと願う自分が少し恥ずかしくもあった。仕方ないよ。病人なんだから。
――すき
演技じゃなくて、本心。セリフじゃなくて、私の想い。それが彼に伝わったのかは分からない。でも、あんなに顔を真っ赤にして。必死に私から目を逸らそうとしていた彼を見たら。
あなたは私に好きと言ってくれるかしら。ずっとそばに居てくれるって見栄を張ってくれるかしら。
ねぇ、吾朗さん。私は、私は――。
パチン、と乾いた音が響いた。
お湯が沸いた合図である。思考は目の前のインスタントコーヒーに向けられて、あなたへの想いは一旦胸の中にしまうことにした。
グラスにお湯を注ぐと、嗅ぎ慣れた苦味が鼻を抜けて、頭をクリアにしてくれる。そんな感覚。でも、彼の行きつけに比べたら全然。タバコの匂いとコーヒーの匂い。あの雰囲気。その全てが揃ったあの場所は、私にとって心を許せるところになっていた。
時計を見ると、6時を過ぎていた。
寝室に戻って、座ったまま眠っている彼に声を掛ける。優しく。
「新木さん。朝だよ」
小さな力で肩を揺らすと、私が思っていた以上に彼はすぐ反応した。「んんっ」と声にならない声を漏らしながら、ゆっくりとその瞼を開ける。
そして、目が合う。彼は少し驚いて、慌てて姿勢を正した。
「ね、寝ちゃってた……?」
「ふふっ。おはよ」
「う、うん。おはよう」
「やっちゃったなぁ」なんて言いながら、苦笑いしてみせる。でも、私からすれば全然そんなことはない。
ずっと起きていられても、申し訳ないんだし。夜中に来てくれただけで、私は十分過ぎるぐらい嬉しいんだから。
「体の方はどう?」
「熱は下がったよ。でも、病院には行くつもり」
「そっか。良かったぁ……」
心の底から安堵する彼を見て、頬が緩む。そこまで心配してくれていたと知ることが出来たから。
二人で寝室を出て、リビングの適当なところに座るよう促した。ソファの一つぐらい買っておけば良かったな。こんなことになるとは、思いもしなかった故の後悔。
「コーヒー淹れたから」
「え、そんな無理しないでいいのに」
「ううん。熱もないし、これぐらいしないと気が済まないから」
彼の元へコップを持っていく。申し訳なさそうにそれを受け取ったけれど、素直に口付けてくれた。
「……美味しいや」
「あはは。マスターのには敵わないけどね」
「いや。そんなことないよ」
「そう?」
「うん。こんな美味しい朝のコーヒーを飲んだのは生まれて初めてだよ」
「……もうっ。揶揄わないでよ」
「本音だよ」
昨日の仕返しだろうか。彼の真剣な目つきに思わず視線を逸らしてしまった。悔しい。
マスクを下げると、すっぴんの私を向けることになる。だからコーヒーに口付ける気にはなれなかった。
「良かった。本当に」
「その……ありがと。来てくれて」
「いいや。お安い御用だよ」
「……優しいよね。新木さん」
「そうかな」
「うん。すっごく、嬉しいっ」
私が思いっきり笑うと、彼も照れ臭そうに笑った。それを見るだけで私の喉から下が暖かくなっていく。
アイドル。私はアイドル。それなのに、それなのに。目の前にいるあなたを手放したくない。そう思ってしまうのは、どうしようもない感情として済ませてもいいのかな。
「……仕事、行きたくないなぁ」
そう呟くあなたは、私が淹れたコーヒーに憂鬱さを溶かすみたい。そんなことをしても、甘くなんてならないのに。むしろ苦く苦く、あなたの中に居座るだけの、ただそれだけの安い感情。
「行かなくていいんじゃない?」
「あははっ。そういうわけにはいかないなぁ」
微笑む彼に見惚れていると、おもむろに口を開いた。
「美依奈は、アイドルをやりたい?」
「えっ……?」
名前で呼ばれてドキッとした。でもそれ以上に、その質問にも胸が痛んだ。
ふと察した。昨日、夏菜子さんが何か彼に吹き込んだのではないか、と。
私が彼女と約束したこと。それは――彼との関係に決着をつける。たったそれだけ。曲をリリースする日が決まるまでに結論を出す。それが彼女の言った条件。
「……うん。もちろん」
嘘。そんなの嘘。本当は、本当は――。
あなたと一緒に居たい。それでも、アイドルとして舞台に立ちたい。そんなの、ワガママなのかな。そうだよな。だって、そうやって辞めたのは私自身なんだから。
「君をもう泣かせない」
「へっ」
「大丈夫。決めたよ」
「な、何を?」
いきなりキザなことを言い出したから、少し狼狽えてしまった。私が聞き返すと、彼は笑った。悪戯っぽく。
「
その言葉にどんな意味が込められているのか、今の私には分からなかった。
あぁ、熱が上がってきたのかな。あなたを見ていたせいで、ぼんやりとしてきたよ。
そのまま抱きしめて。コーヒー味のキッスを私にして。
彼を見送った後、私はまた眠りについた。
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