第59話


「あなた、私に取り憑いてたりするわけ?」

「酷い言い様ですね……」


 眠ってしまった彼女の代わりに応対した俺は、そんな露骨な嫌味を宮夏菜子から言われた。俺が山元美依奈の家に居ることに驚きながら、靴を脱いでリビングへと向かう。


「うん。眠ってるみたいね。熱は?」

「ここでは計ってないですけど、本人いわく38℃あるみたいで」

「そう。悪いことしちゃったな」


 山元さんの様子を確認し終えた彼女は、そこに居座るわけでもなく寝室から出てきた。表情は少し落ち込んでいるように見える。


「明日病院に行った方がいいと思います」

「分かってる」

「……あぁそれと」

「なに?」


 返事の仕方がそっけなかった。自分を責めているのだろうか。彼女の体調に気づくことが出来ず、仕事をさせてしまったことを悔いているのだろうか。


 いずれにしても、宮さんが責任を感じることではない。体調不良の予感があったかどうかは知らないけれど、管理は自己責任なのだから。


「化粧落とした方がいいと思いまして」


 チラリと視線を俺に向けて、彼女はまた寝室のドアをゆっくりと開けた。そろりそろりと眠っているに近づいて「あら」と声を漏らした。


「もう。寝る前に言わなかったの?」

「言いましたけど……。キツいから嫌だって」

「全く。そこはあなたが落としてあげるぐらいの気概見せてよ」

「お、俺がですか?」


 ここで言い争いになると眠っている彼女にも迷惑がかかる。彼女の声は小さかったけれど、思わず俺の声はそれを上回ってしまった。

 だから、宮さんは口の前で人差し指を立てた。その意味はこれ以上ないぐらいに分かりやすくて、俺も咄嗟に口元を手で押さえてしまった。


「落としたことないの?」

「そりゃないですよ……」

「え、もしかして……童貞?」

「違います」

「あらそう。それは失礼しました」


 相変わらず、俺のことを見下してくるな。この人は。なんというか、それに慣れてしまった自分が居ること自体変な話である。

 宮さんは自身のポーチからメイク落としシートを取り出した。


「世話のかかる子ね」


 そうは言うけれど、どこか嬉しそうだ。まるで娘を可愛がる母親みたいで、見ているこっちが微笑んでしまうような暖かい雰囲気。

 宮さんは再び寝室に入る。でも、体半分入ったところで立ち止まって、俺の方を振り向いた。


「すっぴん覗かないでよ」

「覗きませんから」

「ふふっ。前にもあったわね。こういうの」


 山元さんが酔い潰れた日のことか。

 確かに、同じような会話をした記憶が頭をよぎった。アルコールに染まった脳内だったけど、こうやってハッキリ覚えているのだ。やはりどこか緊張していたのだろう。


 あの日と違うのは、彼女たちがすぐ目の前に居るということ。扉は明かりを入れるために少し開いている。宮さんが彼女に声を掛けているのも聞こえる。流石に近づかないと言葉は聞き取れないけど、それをやったら色々と面倒なことになるからやめた。


「ひゃっ」

「我慢」


 でも山元美依奈の艶のある声は、ハッキリと俺の耳に届いた。冷却シートを貼った時のような声。メイク落としもまたひんやりとしているのだろう。

 立ち尽くしているのもアレだから、そろそろ座りたい。リビングを見渡すと、やっぱり質素な部屋である。そのまま床にあぐらをかいて、一つ息を吐いた。スマートフォンを見ると、もう日付が変わっていた。


「いやぁ……」

「我慢」

「ふえっ……あぁ……」

「我慢ッ!!」


 ていうか、さっきから何してんだ。メイク落としだけでどうしてそんな声が出るんだよ。

 そんな疑問を抱いていると、宮さんがひょこっと顔を覗かせた。


「うるさいんだけど」


 彼女の視線は、まるでゴミを見るみたいである。流石にそれを受け入れるつもりも無いので、反論することにした。


「い、いや! 宮さんこそ、どんな手つきしてるんすか」

「はぁ? 何言ってるの。普通にメイク落としてただけなんだけど」

「にしてはその、なんていうか……」

「はいはい。良からぬ妄想でもしてたんでしょ。いい年して」


 しかし、あまりにも否定する材料が無さすぎて、そのまま彼女から視線を逸らした。宮さんは呆れたように寝室に戻って、しばらくするとリビングに戻ってきた。


「色々とありがとうございます」

「いいの。やっぱり熱は高いわね」

「眠ってますか?」

「ええ。本人的には、疲れで気絶してる感覚かもしれないけど」


 その表現はしっくりくるな。寝ているのに眠った感覚がない。夜中に目が覚めた時のダルさというのは異常なまでに独特で、呼び起こされる思春期の記憶。


「さて。とりあえず水分補給もさせたんでしょ?」

「はい。スポーツドリンク飲ませました」

「ん。それならいいわね」


 そう言って、彼女は自身が買ってきた飲み物を冷蔵庫に押し込んでいく。


「後はあなたに任せるから」

「えっ!?」

「なに? 問題?」


 問題か問題じゃないかと問われたら、間違いなく前者である。普通、ここで残るとするなら同性の宮さんの方が適任であることは明白。

 けれど、彼女は俺のそんな思考を読んだみたいに呆れてみせた。


「あの子が最初に助けを求めたのはあなた。それじゃ理由にならない?」

「いや……」

「それとも何? 一人にして帰る?」


 この人の聞き方には一々毒がある。俺がそんなことを言うわけがないと踏んで、少し語気を強めてくる。だから、その圧に狼狽えてしまうのが本音である。


「分かりました。朝まで様子見ます」

「悪いわね」

「いえ……」


 ポーチを肩に掛けて、そのまま玄関に向かう彼女。俺はその背中を少し見つめて、やがて追いかけるように一歩、二歩と足を進めた。


「宮さん」

「なに?」

「あの、どうして」

「……なにが?」


 疑問形だったけど、この人は俺の問いかけの意味を理解していると思った。常に思考の一歩先を行っている彼女だ。こんな単純な質問の意図が分からないはずがない。

 ジッと目を見る。これが俺の答えだと言わんばかりの力を込めて。すると宮さんは、また呆れたようにため息をついた。


「トップアイドルっていう夢を見てた」

「え?」

「あの子なら時代を変えることが出来るんじゃないかって、一目見た時からずっと思ってた」


 宮夏菜子のその言葉。初めて本心に触れることが出来た気がした。同じようなことは言われたことあったけど、今の彼女の口から出てきたのは紛れもなくそのもの。

 だから、下手に相槌を打たない方がいいと判断した。彼女が言いたいことを、今ここで聞いてしまった方がいいと。


「でも。あなたと一緒にいるあの子を見てると、私がプロデュース出来ない輝きを放ってたの」

「………」

「あの子にとっても、アイドルは諦められない夢だってのは分かってる。だけど、私は傷つけたくない。山元美依奈っていう女の子が、また言葉の槍に刺されるのを、私は、社長という立場なのに、見たくないって思ってしまった」


 それを弱音と呼ぶには、少し虚しい。

 本音。優しさ。その狭間で葛藤していたのだ。この人も。俺が山元美依奈と仲良くなってしまったせいで。

 でもそれを、申し訳ないと思えない。俺は俺で山元さんと知り合いになれて良かった。それは声を大にして言える。だから、俺は今どんな顔をして宮夏菜子と向き合えばいいのか、分からなかった。


「今のあの子は、良くも悪くも。普通の女の子になってしまったの。キラキラと輝くけれど、ダイヤモンド以上に眩しくて。いえ、眩しすぎて、こちらが目を瞑ってしまうぐらいの」


 普通の女の子。後に続く言葉は、それを修飾するわけではない。だから日本語として変な感じがしたけれど、なんとなく、本当になんとなく意味が分かった。

 今のあの子は、俺みたいな一般人の色に染まりつつあるんだ。かつてサクラロマンスを引っ張ってきたカリスマ性が薄れて、良い意味でも悪い意味でも、雰囲気が柔らかくなった。


「それは――」

「だから私は、提案したの。あの子に」

「提案?」


 彼女の口からそんなことを聞いたことは無い。一体なんだ。普段メチャクチャなことしか言わない宮さんであるが、今この瞬間は違うと察した。俺たちに関わる重要な。


「アイドルを続けるかどうか」

「なんてことを……!」

「もちろん続けて欲しいわよ。でも、その場合には条件を付けた」

「……条件」

「そう。分かる?」


 なんとなく分かるから、頷いた。それ以上は言わないで欲しかったから、目線を逸らして。

 そんな俺を見て、宮さんは申し訳なさそうにため息をついた。


「ごめんなさい。あなたを巻き込む形になってしまって」

「やめてくださいよ。気にしてないんで」

「そう。ただ一つ覚えていて欲しいの」

「何をですか?」

「あの子には幸せになってもらいたい。これは紛れもなく、私の本音だから」


 部屋を出ていく彼女は、そう言い残した。

 静まり返った部屋。無防備な彼女が居る。

 俺がここに居てもいいのだろうか。本当なら、もう会わない方がいいはずだ。彼女のことを考えるのなら。


 ――でも。気づいたはずだ。

 俺はもう――後戻りできないぐらいに。君に恋をしてしまったと。


 そうやって、ゆっくりと寝室のドアを開けた。


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