第58話


 結論から言うと、山元美依奈の家はかなり近かった。歩いて10分ちょっとの場所に、俺の推しは住んでいたのだ。電話で住所を聞いた時は、それどころじゃなかったから気付かなかったけど。

 でも、なんとなくそんな気はしていた。この広い都内で免許証を拾ったのが自分の推しだった、なんてあまりにも奇跡的である。ただ家が近いとなれば、その確率は少しだけ上がる。色々と筋が通るわけだ。


 彼女が言った住所に辿り着く。そこは中々に綺麗な賃貸マンションだった。玄関はオートロックになっていて、家賃もそこそこしそうな雰囲気だ。それもそうか。安全第一。誰でも入れるような家に住むのは色々と不味いだろう。


 時刻は夜の11時半を過ぎていた。こんな時間にマンションの前に立っていると怪しさ全開だ。スマートフォンを取り出して、建物を見上げながら電話を掛ける。相手は思いのほかすぐに出た。


「はい……もしもし」


 さっきよりも声に力が無い。弱っていた。

 熱が上がっているのか、眠りたいけど眠れないのか。はたまた、その両方か。


「新木だけど。家の前に着いたよ」

「うん……さむい……」

「インターホン押すから。出られる?」


 彼女は弱々しい声で頷いた。衣擦れの音がする。布団から出たのだろうか。

 風邪引いた時の悪寒というのは、ひどく気持ちが悪い。生きていれば誰もが経験あると思うが、出来ることなら味わいたくない寒気だ。

 言われた通りの部屋番号を押して、呼び出し音を数秒聞く。それはプツリと途切れ、やがて自動ドアが開いた。


 エレベーターに乗って8階で降りる。上の方は風が良く当たって冷えるな。小走りで部屋の前に着くと、もう一度インターホンを押した。


「山元さんっ!」

「……新木………さん」


 ドアから顔を覗かせた彼女は、俺が思っていた以上に酷い顔をしていた。と言うのも、マスクをしていても分かるぐらいに青ざめていて、目は虚ろ。今にも倒れそうだったから、思わずその小さな肩を掴んでしまった。


「とりあえず横になろう。悪いけどお邪魔するね」

「うん……」


 さっきまでよからぬことを考えていた自分が情けなかった。こんな彼女を見て、変な気を起こすわけがない。

 家に上がるのだって、本当はもっと躊躇ちゅうちょしてもおかしくなかった。けれど、今はそんな余裕もない。とにかく彼女を寝かせないと、俺としても胸が痛む。


 部屋の中は、俺が思っていたより狭かった。キッチンがあって、その前に広がるリビング。テーブルとテレビ、あとはパソコンが置いてある作業机があって、女の子の部屋にしては地味な印象を受けた。

 寝室にはベッドが置かれていて、彼女はそこに倒れ込むように潜った。本当は俺に何か言いたそうにしていたけど、体が言うことを聞かないらしい。

 リビングからの明かりが唯一の光である。彼女の顔はよく見えなかったが、瞼を閉じている。苦しそうだ。


「夜間病院行った方がいいんじゃない? タクシー呼ぶし、俺も付き添うから」

「動きたくない……だるい……」

「……参ったな」


 具合が悪い時、病院に行くのも億劫になる気持ちはよく分かる。だがこのまま横になっていても、しんどいのは変わらない。寝付けないのだから、その辛さはなおさらなはずだ。


「とりあえずスポーツドリンク飲む?」

「うぅ……」


 だるそうに体を起こすと、虚ろな目で俺の顔を見てきた。少し固めのキャップをひねって彼女に差し出す。マスクを下げてソレに口付ける山元さんは、やけに色っぽくて。思わず視線を逸らしてしまった。


「……あれ。化粧落としてないじゃん」

「あ……忘れてた……」


 ふと、彼女が酔い潰れたあの夜のことを思い出した。この子は、あの日も同じようにそのまま眠りにつこうとしていたけど、宮夏菜子によってそれは阻止された。どういうことかと言うと、単純にメイク落とし。


「ダメだよ。化粧落とさなきゃ。肌に負担かかるっていうし」


 実際のところ知らない。肌に負担かかるのは本当かもしれないが、それっぽいことを言っただけに過ぎない。

 たったそれだけ。そもそもがガサツな俺は、特に気にしていたわけでもないし。宮さんの言葉が頭をよぎらなければ、黙っていた事実でもある。

 けれど――彼女の虚ろな視線に力が込められた気がした。どうしてか。


「……女慣れしてる」

「え、いや何言ってんのさ」


 熱で思考もやられているようだ。青ざめていた顔は変わらず、体調の悪さを全面に訴えているみたい。

 スポーツドリンクを力無く太ももの上に置くから、知らないうちにこぼれてしまわないか心配になる。そこはベッドの上だ。シミになったら面倒だろう。それを受け取って、しっかりキャップを締めた。彼女が自分で開けられるぐらいの緩さで。


「辛いかもだけど、化粧落とそうよ」

「いや」

「面倒かも知れないけどさ」

「いや。キツいもん」

「子どもみたいだな……」


 一度視線に力が戻ったが、それは一瞬で。そのまま仰向けに倒れて瞼を閉じてしまった。

 毛布をアゴのあたりまで被っていても、彼女の呼吸が浅いのは分かる。熱があるとどうしてもぐっすりは眠れないから。


 俺の「子どもみたい」という発言にも反応しなかった。やはり頭を使わせるのは得策じゃない。化粧の件はとりあえず置いといて、彼女の額に手のひらが伸びた。無意識に。


「う……」


 彼女は少し驚いたようだが、瞼を開けようとはしなかった。

 自身の右手。手のひらから伝わってくる熱。相当熱く、彼女の体をむしばんでいる。変われるなら変わってあげたい。


「冷却シート買ってきたから。貼るね」

「ん……」


 コンビニ袋からそれを取り出して、テープを剥がす。持ってるだけで手が冬を感じるぐらいに冷えているが、今はかえって都合が良い。


「ひゃっ……」

「我慢」


 今まで聞いたことがないような声を漏らした彼女に、俺はそう声を掛けた。客観的に見たらそう思うだろう。

 でも違う。これは俺自身に言い聞かせるようにそう言っただけだ。だってあまりにも甘い声を出すんだ。こんなのドキッとしない方がおかしい。


 冷却シートを貼って数秒経つと、冷たさに慣れてきたらしく。さっきよりは顔が穏やかになっているように見えた。とりあえず一息ついて、彼女に背を向けるように床へ腰を落とした。

 寝室に居座るのもどうかと思ったが、リビングでくつろぐのも変な話だ。帰るにも帰れないし、しばらくこうするしかないだろう。


「………宮さんにも連絡しとくか」


 彼女から直接連絡が行ったのならそれでいい。念のための確認だ。スマートフォンを取り出して電話かメッセージにするか悩んでいると、俺の肩を小さく叩く彼女に止められた。


「山元さん?」

「………ありが、とう」

「なに。お安い御用ですよ」

「うん……」


 一人暮らしで体を壊した時の不安というのは、彼女に限らずみんなそうだ。普段考えないようなことまで頭をよぎって、ますます体調が悪くなっていくような輪廻に落ちていく。

 彼女の手は、俺の左肩に乗っかったままだ。でも邪魔だから下ろして、とは言えなかった。言えるはずがなかった。こんな細くて、握ってしまったらすぐ壊れてしまうような綺麗な手を。


「大丈夫。大丈夫。君は誰よりも――」

「……あたたかい」

「ははっ。そうでしょ」


 優しく、優しく右手を乗せた。彼女の手を包み込むように、優しく。俺の呼吸に合わせて、ソレは上下に揺れる。完全に身を委ねているみたいで、可愛くもあり、切なくもあった。


 背中を向けているから、今の君がどんな顔をしているのかは分からない。苦しそうにしていたのなら、俺はとても見ていられなかっただろう。だから、こうして背を向けていて良かった。良かったはずだ。


「……?」


 名前を呼んでも、反応がない。耳を澄ましてみると、彼女の綺麗な息の音が聞こえる。眠ったみたいだ。

 彼女の左手は、俺の左肩に乗っかったまま。冷たくて、こんな僕が暖めてあげたくなるぐらいには。その弱った心を包み込む何かになれるのなら、僕は何にだってなれる。


 くそ、やっぱり君のことを見られないのは嫌だ。こうして居るだけで胸が苦しくなって、でもすごく幸せで。誰よりもあなたを近くで見ていたい。

 こんなことになりたくなかったから、ずっとずっと考えないようにしていたのに。それなのに。


 ――あぁ。もう後戻りなんて出来ないぐらいには、君に惚れてしまった。


 そんな思考を止めろと言わんばかりに、インターホンが鳴った。こんな時間の来客。なんとなく察しはついた。

 このまま二人きりで居たいけど、出なかったら倒れていると思われるかもしれない。だからそういうわけにもいかないのだ。


 さて、何と言い訳しようかな。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る