第57話


 自宅の空気を吸うと、人間の気持ちはプツンと切れるモノなのだと痛感した。

 ベタついている体なんて関係ない。そのまま古びたソファに倒れ込んだ。力が全く入らない。頭はバカみたいに山元美依奈のことしか考えられなくなっていた。


 ――好き。


「だあああああっ!!」


 頭をぐしゃぐしゃと掻いて、一人悶絶する32才独身男。なんだこれは。まるでその辺の男子高校生みたいじゃないか。恋愛経験が豊富とは言えない点を考慮しても、あまりにもウブすぎる気がした。自分でも。


 第一、あの監督も彼女もひどいよ。撮影始まってたなんて俺には一言も言ってなかったし。

 彼いわく、それが狙いだったと笑ってたけど、笑い事ではない。おかげで絶頂しかけたのだ。今ここで生きていることがある種の奇跡だと思う。

 何も考えずスマートフォンをタップする。時刻は夜の11時。晩飯だって食いそびれたし、明日は通常通り仕事だ。もうシャワー浴びて寝ることぐらいしか出来ない。


「……あぁやべえ」


 その呟きは、時間が無いという意味ではない。

 動く気になれず、スマートフォンで桃花愛未のことを無意識に検索する自分がいた。そして彼女がサクラロマンスだった頃の写真見るたびに、ムカつくほどに胸が高鳴った。

 この高鳴りは、あの頃のドキドキとは全く違うモノである。ひどく毒々しくて、桃のように甘い感情。彼女の体のラインを指で撫でるだけで下半身が痛む。であの子を見てしまう。


 その瞬間、俺はもう純粋なファンと呼べなくなった。明らかに見る目が変わってしまって、熱愛疑惑が出て会社を休んだ時とは比べ物にならないぐらいに、彼女に溺れている。

 そしてそのまま、海面に浮上することなく永遠に。そうなりたくなかったから、ずっとずっと必死に言い聞かせていたけれど。


「………あぁ」


 俺は彼女に恋をしてしまった。

 いや、今日のことはただのキッカケに過ぎない。本当はずっと前から、何なら桃花愛未の頃からずっと恋していたのかもしれない。

 だから俺は彼女に手を差し伸べて、ここまでズルズルとやってきた。

 本当は昔からそうだったのだ。自分が一番なりたくなかった「ガチ恋勢」だということから目を背けたくて、ずっと自分を偽って。


 これからどうするか、と脳内会議が開かれる。でも結論はすごく単純で、このまま彼女の行く末を見守ることが一番だと。


 でも――本当にそれでいいの?


 脳内にいる誰かがそんな問いかけをしてきた。答えを言おうとした時、手に持っていたスマートフォンが震える。そして画面に映し出されたのは、愛しき彼女の名前であった。


「――もしもし」


 本当は出るつもりなんて無かったけれど、今は彼女の声を聞きたかった。どんな感じでもいい。揶揄ったようだって、テンションが高くったって。どんなでもいいから、こんな僕に話しかけてほしい。俺はそんな女々しい男である。


「新木……さん」


 その中で、彼女の声はひどく疲れているようだった。俺の名前を呼ぶのですらキツそうだ。それなのに、どうして俺に電話なんか。

 もしかしたら、どうしても言いたいことがあるんじゃないか。だとしたら、それを聞き出した方がいいんじゃないか。なんてくだらないループに陥る。


「どうしたの? 元気無いけど」


 自分でも驚くほど冷静に問いかけることが出来た。彼女の前では見栄を張っていたいだけ。男の意地といえば聞こえは良いが、実際そんなモノではない。


 すると彼女は、苦笑いしながら言った。


「あ、あはは……風邪、引いちゃったみたいで……」

「えっ!?」


 予想していなかった言葉だった。だってさっきまでは普通にしてたし。

 ……いや。俺が気付かなかっただけで、実は体調が悪かったのかもしれない。それにあんな寒空の下で撮影なんてしてたら、健康体でも体は冷える。

 ただでさえ、最近忙しそうにしていたのだ。今日の仕事が体に追い討ちをかけたと考えるのが妥当な線か。


「熱は?」

「38℃ある……。撮影終わったら一気に体が重くなって、それで帰ってきたら、キツくて……」

「薬飲んだ?」

「うん……市販のヤツ飲んだけど……キツい……」


 何もしないよりは絶対マシだ。だが、おそらく今からどんどん上がっていくはずだ。寝付くのもしんどいぐらいの熱だし、相当心細いのだろう。普段の彼女よりも弱々しくて、甘えっぽい声をしている。

 一人暮らしだろうし、体調崩した時はかなり寂しい。このまま死んでいくんじゃないかって考えてしまうぐらいには。経験ある人も多いだろう。


 でも、俺に電話してきたってことは彼女なりのSOSに違いない。俺の思い込みだとしても構わない。とにかく今は、彼女のことを助けたい。

 さっきまで重かった体が嘘みたいに軽くなった。体を起こして、本格的に彼女と喋る体勢になる。


「宮さんには連絡した?」

「これから……」


 まず思い浮かんだのは宮夏菜子だ。山元さんのことで色々と助けてくれるのは間違いない。何なら彼女の元へ行ってくれる可能性だってある。

 山元さんも体調がおかしいと自覚があったなら、今日は事務所に泊まらせてもらえば良かったのに。いや、そう考えるのは野暮か。彼女なりに社長へ気遣ったのだろう。


「そっか。俺からも――」


 言いかけて、ふと考えた。何も宮さんが行く必要なんて無いんじゃないか、と。

 つまりは――俺が自ら看病に行けばそれで良いのでは。

 あぁいやいや。何を考えるんだ俺は。第一、俺と彼女は恋人でもなんでもない。アイドルの家に男が上がり込んでしまえば、色々と不味いだろう。

 それに、今の俺は本当にヤバいのだ。寝込んでいる彼女を見て変な気を起こす可能性だってゼロじゃない。申し訳ないけれど。


「新木………さん」

「だ、大丈夫?」

「………大丈夫……じゃない……」


 いや。俺はそんなクズじゃない。

 純粋に、弱っている彼女に手を出すような男なら、俺はこの子のことを大切にする資格も、この先会う資格もない。

 彼女が宮夏菜子に連絡する前に、俺に電話してきたというのは、そういうことではないか。信頼してくれているからこその選択。

 だって普通に考えて、こんな時に宮さんじゃなくて異性である俺へ連絡するだろうか?


「今から家行くよ」

「へっ……」

「その……嫌じゃなければ」


 最後に一言添えてしまったが、これで良かったのだろうか。無理にでも「家に行くよ!」とゴリ押しするべきだったかな。でもそれだとなんかいやらしく聞こえるし。

 かと言って、具合の悪い彼女に頭を使わせるのもな。だからここは押しかけても良い場面ではないのか。


 俺の中で天使と悪魔が論議している。彼女は少し考えて、自分の家の住所を言い始めた。


「え?」

「……え、こないの………?」

「あ、い、いや! 行くよ」


 否定も肯定もしないまま、いきなり住所を言い始めたからびっくりしただけだ。うん。

 彼女の言葉をそのまま文字に起こす。迷っている時間はない。明日が仕事だろうがどうだっていい。山元美依奈が苦しんでいるのに、放っておけるほど俺は人間出来ちゃいないから。


「すぐ行くから。欲しいものある?」

「……ノド渇いた」

「スポーツドリンク買っていくよ」


 お腹は空いてないだろうか。食欲が無くても手軽に食べられるゼリーとか買っていった方がいいな。何も食べないのはかえって良くないだろうし。


 だけど、俺が行く間に眠ってしまう可能性もゼロじゃない。一応電話してからインターホンを押すか。そうしないとビックリするかもしれないし。あの音、一人で家に居ると結構ビクッとするんだよな。


「あとは?」


 聞いたけど何も言わない。流石に疲れたのだろう。家の場所は分かったし、俺が行くまでに眠ってしまったのならそれでいい。電話をかけて出なかったら引き返せば問題ないし。


「あいたい」

「え?」


 うん……無理に起こすことは……。


「会いたいの」


 ――大丈夫かなぁ。俺。すっごい不安。


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