第55話
自分でもよく分からないんだが、なぜか俺は監督から撮影についての説明を受けている。向かい合う彼女も彼の言葉を聞きながら頷くだけだ。うん、意味が分からない。
「あの、ちょっとよろしいですか」
「うん、なんでしょう」
「これって私も撮影に参加するということでしょうか」
「ん、まぁ、そうなりますね」
いやいや。それは流石に勘弁願いたい。第一、そんなのは契約に入っていないし。ネットに顔を晒す覚悟がないただの一般人だ。
露骨に顔を
「大丈夫ですよ。目線カメラを付けて立っててもらうだけで。もちろん、姿も声も映像には残りません」
「それなら僕じゃなくても……」
するとこの人は、食い気味に俺の言葉を否定した。
「いえいえ! あなたじゃなきゃダメなんですよ。さっきの彼女を見たら、100人中100人の監督は同じことを言います」
……確かに。さっきの彼女はどんな星よりも輝いて見えた。見つめていると、どこまでも吸い込まれていくような、綺麗な空間に吸い込まれていくみたいに。
ど素人の俺でも思ったぐらいだから、プロが見ればなおさらそういう風に見えたのかもしれないな。
だが冷静に考えて、彼女に面と向かって「好きです」なんて言われたら。俺は色々と爆発してしまうんじゃないかって思う。ただでさえ、今の俺は感情の渦に飲み込まれているのに。そんなことをされたら、いよいよ抜け出せなくなるのは目に見えていた。
「ね、山元さん?」
俺がそんな思考を紡いでいるとは知らず、彼は彼女に問いかけた。同意を押しつけたような聞き方。いい加減だなと思いつつ、つい彼女の顔を見てしまう。
冷気を纏っている割には、その頬は紅潮していた。桃色のチークのせいだろうか。それとも寒風に当たりすぎて霜焼けみたいになっているのだろうか。
頭では本当のことを分かっていたけれど、あえてその事実から目を逸らした。だって今そんなことをしたら、きっとこの場で彼女を抱きしめてしまうから。
「……知ってる人の方が、安心します」
「というわけです。よろしいですか?」
「はぁ。分かりました。立ってるだけでいいんですね?」
監督は頷いて、モニターの方へ行ってしまった。男性スタッフの一人が俺の元に駆け寄ってきて、目線カメラを取り付けてくれた。思っていた以上に重くて、気を抜くと首が前に垂れてしまいそうだ。無論、この場では気を抜けるわけがないんだけども。
山元美依奈の周りには、女性スタッフが数人集まっている。再開に向けてスタイリングの直しが必要なのだろう。
それもそうか。この冷たい風は、彼女の綺麗な黒髪をことごとく荒らしていく。それでも、俺から見たら十分すぎるほど綺麗なんだけど。
そういえば、宮さんの姿を見ていないな。撮影始まった時はその辺に居たと思うんだけど。
……いやまぁいいか。彼女が居たら後々面倒なことになりそうだし。逆に考えたら、いまこの瞬間は俺にとって至高であることに変わりない。
「新木さん」
「ん?」
カメラを付け終えて、立ち尽くすしか無かった俺に、彼女は声を掛けてきた。
その周りにはスタッフが大勢居る中だ。わざわざそんな時に声を掛けなくても。そう思ったが、ここでソレを言葉にするのは違う気がした。
「ありがとう」
あぁ、つくづく思う。
この子の笑った顔というのは、心にあるストレスというモノを綺麗さっぱり溶かしてくれると。桃色のチークを塗り潰すぐらいに赤くなった頬を、こうして見ているだけで心臓が高鳴って高鳴って仕方がない。
でもそんな痛みが、今の俺にはちょうどいいくらい夜風は冷たい。願うことなら、二人きりの世界でずっとずっと、君に見惚れていたい。世界で一番可愛くて綺麗な君に。
「当然」
そうやって見栄を張る。彼女は笑った。桃花愛未の時に見せてくれた顔よりも、もっと綺麗になって。
監督が彼女の元に駆け寄って、何か話している。その声までは聞こえないけれど、照れ臭そうに笑う彼女は、どこか悪戯っぽく見える。
やがて、彼の一声でスタッフが散り散りになる。太陽よりも眩しい照明が彼女を照らす。
俯瞰して見たら、二人だけの世界になっていた。けれどどうしても、周りの視線が気になってしまう。こんな場面に立ち会うのは生まれて初めてだし、仕方がないと言えばそうなんだけど。
それが少し、いや、すっごく。もどかしくてもどかしくて。胸が痛むぐらいには、息が詰まる感覚を覚えた。
「寒い?」
ダウンコートを脱いでワンピース姿になった彼女は、手すりに体を預けてただ海を眺めていた。監督の合図も無く、ただ二人きりの時間がゆったりと、どこか忙しなく流れている。
スーツ姿の俺でもぶるりと体が震えそうになるが、彼女は全然そんな素振りを見せなくて。だからそんな問いかけを、つい。
「寒くないよ」
その視線は、海を跳ねるトビウオみたいに揺れていて。ゆったり、おっとり流れる波と煌びやかに輝くビル群。そしてそんな彼女に落ちるスポットライトのような星々。
揺れて跳ねて、トビウオみたく俺の視線を揺らがせる。ジッと見つめていたら、心を根こそぎ奪われてしまう。
「そっか」
話が続かないから、早くカメラを回して欲しい。こんな面白味のない相槌を入れるぐらいなら、黙っておいた方が良かったのかな。
手すりに両腕を乗せていた彼女は、ひょいっと体を起こして一つ息をついた。でもやっぱり、俺の方を見ない。君の横顔だけがただ俺の瞳を独占している。
「こっちを向いてよ」
意図せず漏れた言葉のことを、理解した時にはもう遅かった。思わず口元を押さえてしまったけど、それでもやっぱり彼女は振り向こうとしなかった。
でも微かに、横顔でも分かるぐらいには口角を上げて見せて。俺を揶揄うような、まるで子どもみたいな雰囲気を一気に纏って。
「どうして?」
ほらやっぱり。元はと言えば、俺が変なことを言ったからである。けれど、わざわざそれをこんな場面で突っかかってくる方もおかしい。
少し悔しいから、正論をぶつけることにした。
「撮影始まるから」
「それだけ?」
「……うん。他意はないよ」
そうやって理性の武装を剥がそうとしてくるのは、彼女の癖だろうか。だとしたら、中々にタチが悪い。
俺の言葉を聞いた彼女は、何も言わずにただ風になびくワンピースとともに。
この世界をゆったりと泳いでいるみたいに、俺の元から離れていくような。目の前に居るのに、呼び止めてしまいたくなるような。手を伸ばしたくなるような。そんな感情は、この夜風に吹かれてどこかの誰かの背中を押すのだろう。
「――」
「え?」
風が吹いたわけでもないのに、大きな音が響き渡ったわけでもないのに。彼女が言った言葉を聞き逃してしまった。だから思わず声が出たけれど、それは至って自然な反応である。
それなのに、そんな俺なのに、彼女はようやっとこっちを向いてくれた。少しムスッとして、ただただ俺の視界に入り込んでくる。
あぁ、逃げられない。彼女の視線から、感情から、全てから。桃色の雰囲気が俺の体に染み込んできて、全身が染まりきるまでこのままで。
「好き」
鼓動の音すら、彼女の声に飲み込まれていった。あっけなく、俺のしょうもない思考回路は遮断されて。
耳鳴りに近い音が頭の中に鳴り響いたと思えば、桃色の感情の波は全身に流れ込む。血液を乗っ取るんじゃないかってぐらいに沢山のハート持ってきやがった。
「――へっ」
対して、口から漏れたのは言葉というにはあまりにもお粗末すぎるモノ。喉が驚くほどに締め付けられて、感情を、想いを紡ぐことを許さない。
「好きです」
追撃。彼女の瞳から、顔を背けることが出来ない。震えて震えて、この目線カメラがブレブレになっていても仕方がない。
桃色のチーク。光り輝いて、どんなダイヤモンドよりも人の視線を奪う。あぁ、これが彼女なんだ。俺がずっと前から推していた桃花愛未ではなくて。
俺が好きな――山元美依奈なんだ。
そんな思考は、また乱されることになる。
監督の一声。「オーケイ!!」とフルテンションでスタッフを鼓舞するような声で。
してやられたな。色々と。
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