7th

第54話


 ほんの少しだけ、吹き付ける風が暖かくなってきた。そんな3月。俺と彼女の関係性は明らかに変化しつつあった。

 と言っても、一方的に俺が意識しているだけであって、彼女がどう思っているのかは知らない。分からない。相手の感情が読めなくなっていた。

 単純に、変な期待を抱いてしまうと後々後悔するんじゃないかって思うから。人間とは不思議なモノで、自分が傷つきそうな思い込みはしないようになっている。別にそれで良かった。


 デートの約束なんかしたけれど、それは叶えられていない。ただそれは、彼女に時間が無いだけだ。レッスンも忙しくなってきて、宮さんの営業活動にも同行しているらしい。彼女がメッセージで教えてくれた。


 そんな春の少し前。3月にしてはあまりにも冷たい風が吹く夜に、とある撮影現場に立ち会っていた。後輩の藤原を添えて。


「すごいっすね」

「ほんとだな」


 ロケーション的には、かなり色気のある雰囲気である。と言うのも、まず海沿い。次に、対岸にあるビル群の光がソレに反射して彼女を照らしている。端的に言うと、ここはデートスポットである。

 藤原は子どもみたいな感想を漏らしたが、かくいう俺もそれを上回るだけの言葉が出てこなかった。無視するのも変だから、ただ肯定するだけ。

 実際、撮影というのは多くの人の動きで成り立っている。カメラマンや照明、それこそスタイリストだって。あらゆる専門家の集合体でもあるわけだ。ポスター撮影の時も思ったが、傍観者であるとはいえ、つい身構えてしまう緊張感がある。


 今日は平日の真ん中。水曜日。そんな時に俺たちがここに居る理由は、れっきとした仕事である。別に見学会でもなんでもない。


「山元さん、綺麗っすね」

「そうだな」

「……俺の話聞いてます?」

「聞いてるよ」

「にしては雑ですね」

「めんどくさい女子かよ」

「異動前最後の外出かもしれないので」

「なら黙って見ておけよ」


 山元美依奈を起用して、自社のネットコマーシャルを作ることになったのだ。配信先は主に動画サイト。そう。あの時の営業活動が今に至る。

 俺と藤原の二人で部長に報告し、それをさらに上の人間に説明してもらった。するとどうだ。思いがけず好評で、驚くほどすんなり契約が決まった。


 ポスターでの実績も大きかったが、役員の一人に話を聞くと、どうやらそれだけでもないらしい。

 その人が言うには、今の時点で投資しておけば彼女のポテンシャルを独占的に使える、なんて言い方をしていた。なるほどなと納得する。

 タレントにとって、これ以上ない褒め言葉ではないだろうか。個性の戦国時代。抜きん出た能力がないと生き残っていけない世界において、彼女の持つカリスマ性は大きな武器であると改めて理解した。


「でも文具メーカーっぽくないですね」

「それが狙いなんじゃないか。面白くないよりマシだろ」


 藤原がそう言いたくなる気持ちもよく分かる。なぜなら、いま撮影している彼女の手には文房具の一つも握られていないからである。

 なら今、彼女はどんな姿をしているのかと言うと、白色のワンピースと少し濃いめの化粧。風にゆらりゆらりと揺れる艶やかな黒髪は、俺の視界を独占する。


「そうっすね。コマーシャルって、オモロくてナンボですもんね。特にネットは」


 彼の返答で意識を戻す。まずいまずい。マジで話しかけられなかったらずっと彼女のこと見てたな。いや、見惚れてたと言うべきか。

 時刻は夜の8時過ぎ。定時はすっかり超えているから残業扱いになる。でも、こんな残業なら歓迎だ。ずっと見ていられる。


「でもホント、ぽくないですよね」

「まぁ。文房具のイメージは無いな」

「よく通りましたよ。あの台本」

「役員たちの趣味かも」


 撮影の流れとしては、唯一の登場人物である山元美依奈がたった一言。カメラ目線で「好きです」と言うだけ。たったそれだけ。その後にナレーションで会社の名前を流すとはいえ、別のインパクトが残りそうで、広告としては無意味な気もする。本当に自社製品を宣伝する気があるのかすら怪しい。

 ……だが見たい。是が非でも。そういう意味では、ウチの会社は最高だ。


 無論、撮影監督も居るし、セリフを言うときの視線や動作、表情まで細かく指導していると聞く。現に撮影が始まってから、たった5秒のために掛ける時間はすごい。1時間経っているが、終わる気配が無かった。


「休憩みたいっすね」

「……難航してるみたいだ」


 流石にワンピースだけだと冷える。彼女はテレビでよく見る黒のダウンコートを羽織っていて、その表情は明らかに暗い。上手くいっていないと言っているようなモノだ。

 藤原はトイレに行くと言って、俺の側を離れた。自由な奴だな。全く。

 俺もソレに便乗しようとしたが、思いがけない声に止められた。


「新木さん」

「あ、や、山元さん……」


 薄化粧でも十分すぎるほど綺麗な彼女だが、今日は一段と輝いて見えた。この夜には眩しすぎるほどに。だから恥ずかしくなって、咄嗟に目線を下げた。

 普段とは違う、彼女の付けた香水の匂い。あの名前の如く、桃色の風が俺の全身を包み込もうとするような。そんな錯覚を覚えてしまった。


「ごめんなさい。寒い中」

「いやそんな。気にしないでよ」

「ふふっ。ありがとう」


 最後に会ったあの日。俺が悪酔いしてしまったせいで、何を話したのか断片的にしか覚えていない。ひどくとんでもないことを言った気がするが、彼女は何も言ってこないから俺も何も言わないでいた。


 それよりも、いまの彼女はイキイキしていた。やはり自身の中に眠っているアイドルとしての意地みたいなのが、カメラを向けられると蘇るのだろうか。その辺、よく分からないけど楽しそうな彼女を見るのは俺としても幸せである。


 吹き付ける夜風。撮影スタッフたちは一箇所に集まって打ち合わせをしている。当の本人が居なくても大丈夫なのか不安になったが、今は彼女のことを手離したくなかったから、黙っておくことにした。


「……上手くいってないの?」


 問いかけたタイミングで、この日一番の強い風が吹いた。聞こえてないかもと思ったけど、彼女はほんの少し口角を上げた。

 でもそれは微笑みとかじゃなくて、自分に対する不安の吐露。嘲笑みたいなモノだった。


「……うん。びっくりするぐらい」

「どういうところが?」

「こういう演技、一番難しかったりするんです」


 どこかで聞いたことがある。確かに、セリフも一言だけで、あとの表現は完全に演者次第。雰囲気も表情も、言葉の余韻を出すことだって、全て演者の能力で決まる。

 棒読みの「好きです」ほど滑稽なモノはない。それはクライアントにとっても彼女自身にとってもメリットはない。だが、俺が見ている限りそんなことは無かったけども。


「納得出来ないんだ」

「うん。全然出来ない。そんな自分がムカつく」


 やはり、根はすごくストイックなのだ。だからこそ、心が壊れてしまいやすくなる。自分を追い込みすぎて、全てがどうでも良くなるタイプだろう。

 本当に、彼女がここに居てくれて良かった。そういう意味では、あんな手法を使って一度アイドルから離れたのは良かったのかもしれない。


「雰囲気も、表情も、言うタイミングだって練習してきたんだケドね」

「うん」

「……あはは。全然上手くいかないや」


 笑ってみせるが、内心はひどく辛いだろう。この日のために彼女がどれだけ準備してきたかがよく分かる。そして、それが上手くいかないもどかしさも。

 そうだよな。笑うしかないよな。だってまだ仕事は終わっていない。これから途方もなく苦戦するかもしれない大きな山が待っているのだ。だから――泣いていいなんて言えない。


 そんな自分が、もどかしかった。


「大丈夫。上手くいく」

「そうかな」

「弱気にならないで」

「……うん」

「君は出来る。ねぇ――」


 自分でも驚くほどに、大したことは言えなかった。だけど、考えても考えても、いい言葉は俺の頭の中に浮かんでこない。

 だから、だから少しでも――君の心の中に触れたいと思った。そんな理由で。


「――み、美依奈」

「へっ」


 また強い風が吹いた。寒い。いやそう思ったのは気のせいで、ただ俺の体温が上がっていくのを受け入れるしかなくて。

 ただ君の名前を呼んだだけで、俺はこんなになってしまう。風で聞こえないと言ってくれたら良かった。それだったら、適当言って誤魔化せたのに。


 それなのに、君の視線は俺の心の中に。優しく触れるように、微笑んでみせた。そして、ゆっくり口を開こうとしたのに。


「――それだよ!!」


 そんな一声で、彼女の言葉はかき消された。

 何を言うつもりだったのかすごく気になる。けれど、聞けなくて良かったと安堵する自分も居て。

 コマーシャル撮影が再び動き出そうとしていた。何故か、俺まで監督に手を引っ張られて。


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