第53話
軽率。まったく夏菜子さんの言う通りで、私のこの行動は自覚に欠けたモノである。
けれど、自分自身を抑えきれなくなってきたのも事実。湧き出る本心は私の想定をはるかに超える勢いで、思考そのものを飲み込もうしていた。
さっきまで私の目の前に居た彼女は、私のことを責めることなく消えてしまった。代わりに、隣に居た彼と顔を合わせることになる。
夏菜子さんは出ていく時に言った。「私は邪魔者だから」って。そんなことないのに、その言葉を打ち消そうとは思えなかった。
彼女の思考が読めない。いま彼と二人きりになれば、何をしでかすか分からない。それは彼女の目から見ても明らかであるのに、あえて二人だけの空間を作り出した。
「新木……さん」
「ん。どうかした?」
「……いや」
彼の顔は、誰の目から見ても分かるぐらいに赤く染まっていた。初めて見た。そんな顔でお酒を飲むあなたを。
普段はビールばかり飲んでいるのに、今日はアルコール度数の高い焼酎を片手に氷を鳴らす。カラリカラリとぶつかって、彼の思考回路を乱している。いや、最初からそれを望んでいるみたいな雰囲気。まるで何かから目を背けようとして、ただお酒に埋もれるだけ。
「あー。酔った酔った」
「飲み過ぎだよ。明日もお仕事でしょ?」
「ん、まぁ、そうなんだけど」
おしぼりを指で遊ばせながら、虚な瞳でこの空間を眺めている彼。そんなあなたを見ているのが少し苦しくなって、思わず視線を天井に向けてしまった。
「私のせい?」と聞いたら、頷かれるのが怖かった。私が余計なことをしてしまったから、彼の中に余計な悩みを生み出してしまったのではないか。そう考えると、喉の奥がキュッと締まって感情を吐き出せなくなっていた。
「君のせいじゃないよ」
天井からテーブルに落ちていた視線は、やがて彼の瞳とぶつかり合う。そんな言葉を聞いてしまったから、思わず。
「何も言ってないよ」
「言ってなくても分かるよ」
「……じゃあ、今日はどうして焼酎なの?」
「酔いたい気分だったんだ」
「どうして?」
「どうしてもさ」
答えになっていない答えが返ってきた。彼がそんなことを言うのには、間違いなく理由が存在する。だってこの人は、理由もなく悪酔いするようないい加減な人じゃない。
何から目を背けようとしているのか。それだけで良いから教えてほしい。あなたの心の中に触れたい。この時の流れに身をまかせ。
「明日には忘れてる。今この瞬間も、君の綺麗なその顔も、この感情も。全てただの頭痛となって返ってくる」
私には、彼のことを悪く言う資格はない。
どんなに酔っていても、どんなにいい加減なことを言われても、私はあなたを巻き込んだ立場。……それに、私だって彼の前で潰れてるし。思い出すだけでみっともなくなる。
「私は忘れないよ」
そう言うと、彼は少し恥ずかしそうに目を逸らした。当の本人はそうかもしれないけど、私は
それに、酔っ払っているあなたの全てを受け止めたいとすら、思っているんだから。
「そう。そっか」
頬を掻きながら、照れ臭そうなあなた。私より年上なのに、子どもみたいですごく可愛い。なにより、そんな顔を見せてくれたことが嬉しかった。
カラリと鳴る氷の音色。グラスにあるアルコールが消えていく度に、あなたの本心に近づいているよう。本音を言えば、もっとたくさん飲ませてみたい。なんちゃって。
その氷が溶けるように、ふと。
「君に好きだと叫べれば、どんなに良いだろうか」
時間というのは本当に止まるモノで、彼の言の葉が空間を舞うと、ただそれ以外に何も聞こえず、何も見えなくなった。
視線を下げて、テーブルにぶつかったであろう言葉。反射して反射して、ようやく私の胸に届いた。その頃にはもう、自身の体が火照っていく感覚に覆われていた。
「へっ………」
すっかり空になったグラス。手で触るだけで、その中の氷が一瞬で溶けるんじゃないかってぐらいには、自身の体が熱を帯びていて。
その言葉の意味を理解する前にそうなるのだ。理解してしまうと、それこそ感情が弾け飛ぶように全身を駆け巡る。
「あ、あ、えっと……」
私がこんなに狼狽えているのに、彼は思った以上に冷静だった。お酒のせいで気持ちが大きくなっているだけ。だからこんなことを平然と言えるのだ。たったそれだけじゃないか。だから、真に受けるのは違う。
そんなこと分かっていた。分かってるよ。だけど、やっぱり――。
「ごめんごめん。酔ったおっさんの
「………」
「でもどうしてそんなに――嬉しそうな顔をしてくれるの?」
ひどい。意地悪。普段そんなこと言わないクセに。お酒の力を借りないと何もできないクセに。ここぞとばかりに攻めてくる彼は、さっきまでの虚な瞳ではなくなっていた。
「――ばか。ばーかばーか」
「ひどいなぁ」
「酔っ払いに言われても嬉しくないですー」
それは本心である。いや、面倒な女心とでも言うべきだろうか。
言ってくれるのなら、もっと綺麗なシチュエーションが良い。そんなのは、夢見る女のワガママでしかないのだけれど。
彼は、カラカラとアルコールの入ったグラスを鳴らす。どこかの動画配信者みたいで、少しおかしい。その無意識の行動は、私の言葉を咀嚼しているみたい。
「……そういえば、もうすぐバレンタインだね」
「くれるのかな?」
「何も言ってないですぅ」
「美依奈ちゃんから貰えたら嬉しいだろうなぁ」
私が話題を変えたのは、あのままだと熱を放出できなくなると思ったから。現に、私の頬はお酒を飲んだみたいに真っ赤に染まっている。側から見れば、お互い出来上がっているようで、少し笑えてくる。
視線を逃すように、メニューをチラチラ見る。甘味のコーナーを見つけると、つい集中してみてしまう。居酒屋のデザートってすごく美味しいから食べたくなる。
「チョコレートパフェ、食べたい?」
「バレンタイン?」
「さあ、どうでしょう?」
「む、美依奈ちゃんも意地悪だね」
そんなこと、ずっと前からそうだ。元々あなたを巻き込んでしまうようなプロ意識の低いアイドル。今さらそんなことを言われても、愛想笑いで誤魔化せるぐらいになった。
けれど、彼に言われると胸を突かれた気分になる。苦しいわけじゃなくて、その、包み込まれるみたいな感覚。不思議。
「食べたいな」
「ん。だったらこれは私がご馳走するね」
「やっぱりバレンタイン?」
「さあ?」
揶揄ったように言うと、彼はムスッと拗ねる。それが年不相応で、やっぱり可笑しい。いつもみたいに軽口を言うわけでもないから、すごく酔っているのか、単純にショックなのかのどっちかかな。
いや、あんなことを言ってくる時点で既にベロベロなのかもしれない。人の気も知らないで、よくあんなことが言えるよ。ムカつく。でも、嬉しい。その狭間で揺れ動く私の想いは、どうにもならなくて立ち往生。
呼び出しボタンを押して、チョコレートパフェを二つ注文した。それを終えると、彼は一人お手洗いに立った。ひどく酔っているように見えたし、お冷やも二つ貰うことにして。
目の前に居た彼が居なくなって、残されたのは嗅ぎ慣れたタバコの匂い。胸の奥をつつかれて、くすぐられて。その甘美な痺れはずっと私の心の中に居る。出会ってからしばらくして、ずっと。
スマートフォンで時間を確認する。もう夜の9時を過ぎていた。それもそうだ。彼は仕事終わりだし、明日も仕事。パフェを食べたら解散しないと彼に迷惑がかかる。
そんなことは分かっていた。分かっていたけれど、心の中に居るもう一人の私は、その事実を認めようとしない。ワガママである。
お手洗いから戻ってきた彼を見て、締まっていた喉が開いていく。
「――あ、えっと」
「どうかした?」
「………いえ」
でもやっぱり言えなかった。彼の知らない一面を見ることが、恥ずかしくて、ちょっぴり怖くて。喉まで上がってきたのに、それを必死に飲み込むしかなかった。だって――。
――まだ帰りたくない、なんて。
ウブな私が言えるわけがないよ。ばか。
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