第51話
コーヒーの甘い匂い。タバコの苦い匂い。
マスク越しに伝わってくる彼のそのぬくもり。頬が熱くて、何度も取ってしまいそうになった。だけど堪えた。
こんな顔を、彼に見せたくなかったから。
「……暖房切るかい?」
私の斜め前に立っていたマスターが、気を遣ってくれた。でもその必要はない。マスクを取ると、さっきより鮮明にタバコの匂いが鼻を抜けた。彼の残した苦味。麻酔のように全身を巡る。
「いえ。お気遣いありがとうございます」
「そう」
つい数分前まで横に座っていた彼は、私を残して店を出て行ってしまった。何か仕事でトラブルがあったと言ってたけど、本当かどうかは知らない。でもそんな彼を呼び止めるのは申し訳ないと思ったから、袖を掴むようなことはしなかった。
だから今は、マスターの二人きり。ジャズのメロディーに身を任せて、ようやくコーヒーの味を堪能することが出来る。なのに、少し寂しい。
「あの……」
「どうかした?」
「この間は……ごめんなさい」
マスターが作ってくれたカレーを食べることなく、飛び出してしまったあの日のこと。
彼は少し考えて、思い出したと思えば「あはは」と笑った。
「あーいやいや。あれはアイツが悪かったんだろ。分かるよ」
「そんなことは……」
「いいや。僕には分かる」
新木さんのことを思えば、ここは強く否定するべきだった。
でもマスターが力強く断言したし、何より私も「彼のせい」だと思っている節がある。だから何も言わずに、ただ
「君が悪いわけないだろう。そんな顔をさせてる時点で、アイツが悪いのさ」
その言葉の真意はよく分からなかった。こんな間抜けな顔を見て、彼は何を思ったのだろう。
思えば、この人はすごく独特な雰囲気を纏っていた。今日に限らず、出会った時からずっと。カウンターという狭い空間から出ることはないのに、この店そのものにマスターの人となりが染み付いているみたい。
そして、この世界そのものを俯瞰してみているような、そんな不思議な空気感。ひどく不思議。そんな夜。
「デザートでもどう?」
「あ……どうしよう」
いつも食い意地張ってるわけじゃないのに、お腹空かせているように見えたのかな。だとしたら少しムカつく。もうっ。
さっきまで夏菜子さんの相手をしていたから、お腹はそんなに空いていない。彼女が頼んだツマミをウーロン茶で相手したぐらいだけど。正直、あの場面でもぐもぐ食べられるほど図太くはない。
「パンケーキ……」
「結構ガッツリだね」
「……バニラアイスで」
「あはは。可愛いなぁ本当に」
結局食うんかいと言われた気分だ。だから遠慮してバニラアイスにした。コーヒー代は彼が払ってくれたから、安いものだ。マスターの言い方はすごくタチが悪いけど。
彼が裏に消えると、この空間には私しか居ない。すると思考は、不思議なまでに時間を巻き戻す。
(………デート)
立場的にそれが許されるかと言えば、決してそうではない。出会ったきっかけになったあの出来事のように、彼を巻き込んでしまう。
分かっている。頭では絶対に巻き込まないって分かっているのに、どうしてもそれから目を背けてしまう。こんなのダメだって思っても、何度も何度も、彼のことを想ってしまう。
だから、嬉しかった。
彼からそう言ってもらえて、二人きりで時間を過ごせるなんて考えてしまって。それはそれは甘くて、頭が酔ってしまうぐらいに世界から切り離された時間なんだろう。
……でも本当は。やっぱり彼は、私に気を遣ってくれたんだろうな。あんなことを言ったから。呟いてしまったから。私が彼の立場でも、同じことを言ってたと思う。でも気にならない女の子には言わないだろうな。
「はい、デート」
「ひゃい!?」
「あはは。間違えた間違えた。デザートね。一文字抜けちゃってたよ」
コイツ、マジで一回沈めないといけないかも。ドラム缶にコンクリート詰め。海の深いところまで突き刺してやりたい。ムカつく。
反射的に彼を一度睨んでしまったから、誤魔化すように愛想笑いを浮かべた。咄嗟だったけど、割と上手く演じられたと思う。
手元には、冷えた容器にぽつんと置かれたまん丸アイス。ミルク色の冷気に乗っかって、甘い匂いが私の元へやって来た。
「そのこと考えてる顔してたよ」
「………」
何も言えない。夏菜子さんにも何度も言われた言葉が頭をよぎる。分かりやすいと。もしこの先、いろいろな取材を受ける機会もあるだろう。その時に誤魔化せないのはあまりにも痛手。だから今のうちに直したいんだけど、そんな簡単な話でもなかった。
「難しいよね」
「え……?」
「ほら、君みたいな子がさ、普通に生きようとすることは難しいのさ」
その言葉の意味は、よく分かる。芸能界で生きるということは、自身のプライベートを捨てるということと同義。
私の契約はまだ公になっていない。だから尾け回すようなことはされていないけど、今後その可能性は出てくる。だから下手なことは出来ない。本当はデートなんてしてる場合じゃないのだ。分かってるよそんなこと。
「僕はね。そんな子をたくさん見てきたんだ」
「そう、なんですか」
「人に笑顔を振り撒く存在が、裏では眉間にシワを寄せてるのなんてよくある話だろう?」
彼は私から少し離れて、おもむろにポケットからタバコを取り出した。私に断りを入れるわけでもなく、ただ黙って火をつけて煙を吐く。
ふと思った。いつも彼は私に断りを入れてからタバコを吸うと。微かに漂ってくる煙の匂いは、彼とは違う。あまり好みじゃない。
アイスを一口。溶けないうちに全部食べなきゃいけないのに、もう溶け始めている。あぁ、この暖房のせいだ。下げてもらえばよかったと思った時にはもう遅い。
「だから君には楽しんでほしい」
「………」
「アイドルも、恋も、友情も。全て」
そんなのはワガママだ。それが
彼の口ぶりは、やけに説得力があった。私が出会ってきた芸能関係者でもこんな気持ちにはならなかった。ひどく気持ちが悪い感覚だったけど、なんというか。ほんの少し救われた気分。
「アイドルだって人間だ。ファンを幸せにする仕事でもあるが、自分が幸せになっちゃいけない仕事ではない」
「……あの、マスター」
「なんだい?」
「あなたは……何者なんですか」
「ははっ。バトル漫画みたいな聞き方だね」
タバコの先から上る煙は、天井にぶつかることなく消えていく。この私の恋心も同じように消えてくれないだろうか。それか、ずっと眠っていてはくれないだろうか。
「恋をしている君は、誰が見ても美しい」
「……そ、そんなこと」
「人の心に眠った忘れかけた青春を、君はこうして思い出させてくれる。雨に濡れたバス停で、好きな子と並んだあの日みたいに」
それは私に向けた言葉とは少し違った。タバコの先が灰に変わっていくのもお構いなしに、まるで自分自身の中に問いかけるような声で。
「すごく素敵です」
「あはは……。ごめんね変なこと言って」
「いえ。本当に素敵だと思いました」
詩的なフレーズは、聴いていても気持ちが良い。昔の歌謡曲みたいな歌を歌ってみたいとずっと思っていたから、憧れという意味でも。
あの行間を読ませる技。人の心を優しく叩くメロディー。一時代を築いたのだから、現代でも十分に通用するはずだ。
タバコの灰を落とす彼は、さっきよりも随分短くなったソレに口付ける前に。
ちょっぴりだけど、初めて見るような子どもっぽい顔で笑った。
「ありがとう」
たったそれだけ。何万回と言われ慣れたその言葉の中に、数え切れないぐらいの想いが込められている気がして。
しがらみから解き放たれた光は、やがて私の心の深くを照らす。そこに居るのはいつもの彼。こっちを向いて笑っている。
口の中が乾いたから、口づけでもして?
そんなことを言ったら、彼はどうするだろう。想像するだけで可笑しいな。
代わりと言ったらアレだけど、バニラアイスとくちびるを合わせた。もう溶けていた。でもこの気持ちは、そんなことなくて。
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