第50話


 注目されていたことに気付いた時、ゆでだこのようになった彼女の手を引いてコンビニを飛び出した。掴んでいるのは、さっきと同じように手首。なるべく力を入れないようにして、優しく歩く。

 当然、女子高生たちが追いかけてくるとかはない。ただあの場に居るのは色々と不味いと判断したから。それに、俺の前で固まって動けなくなった彼女を、放置して逃げ出すわけにもいかないだろう。

 人波を掻き分けて、愛の逃避行のように。星空の下で俺たちは逃げる。よく分からない存在、感情から。でも、それは追いかけてくる。俺たちと同じ速度で、どこまでも。


「あ、新木さん……」

「………」


 走っているわけじゃない。だけどもう息が切れそうだ。タバコ止めるべきだろうか。いや無理だな。考えるだけ時間の無駄である。

 俺に手を引かれるだけの山元さんは、ソレを振り払おうとはしなかった。寒いのに、俺たちの周りだけは夏のようにカラカラと。乾いた日差しが差し込んでいると錯覚するぐらいに暑くて、熱くて。


 目的の場所は案外近くて助かった。駅を少し通り過ぎて、寂れたレトロ感のある建物。俺にとっては馴染みがありすぎるいつもの光景。


「とりあえず入ろう」

「は、はい……」


 やけに従順な彼女を連れて、扉を開ける。聞き慣れたベルの音とともに、カウンターに立っていたマスターがこちらを向いてニヤける。


「おいおい。いつからそんな関係に?」

「え、あっ! いや! これはその……色々あって」


 冷静に考えておかしいな。店内に入る前に離しておけばこんなことにはならなかったのに。

 さっきみたく、そう言われて咄嗟に離そうとしたが、今回はそういかなかった。何故なら、彼女が俺の右手をもう片方の手で掴んだからである。


「山元……さん?」


 彼女のその行為は、手を離すなと言っているようだった。理由はよく分からないけれど、それを振り払う気にもなれない。俯いたまま、ただ熱だけが俺の体に伝わってくる。

 入口で立ち尽くすのも何だから、いつも通りカウンターに腰掛けた。もちろん、そこに至るまで彼女の手首を握ったまま。座ってようやく解放された。


「………」

「………」


 そして無言。ここに来て何を言えばいいか分からない事態に陥った。静かすぎるのが唯一の売りのこの喫茶店。今はその寂しさが厄介であった。

 さっきの会話を思い出せば、俺への問いかけで終わってたな。昼間のこと。どうして彼女がソレを知っているのかは置いといて、とりあえず誤解を解く必要があった。


「そういやお前、とは上手くいってるのか?」

「はぁ? 何言ってんの?」


 その静寂を破ったのはマスターだった。しかもそれがよく分からない言葉。全く身に覚えがなくて、本当にキョトンとするしかなかった。「お前本当は宇宙人だろ」といきなり言われるぐらいに意味が分からない。


「か、彼女………?」

「山元さん?」


 プルプルと震え出すこの子から、自然と距離を取る。なんとなく良くないことが起こりそうだと察したから。でもそれは、笑いを堪えていたマスターによって阻止されることになる。


「すまんすまん。ジョークだよ」

「……人が悪いです」

「コイツが連れてきた女の子は君だけだから」

「……えへへ。そうなんだ」


 マスターの遊び心に付き合わされたということか。全く。本当に時間の無駄ではないか。

 とにかく今は、少し時間を置いて駅に向かいたい。面倒になる前に手を打てて良かった。そんな安堵感からか、タバコを吸いたくなって胸ポケットから取り出す。


「タバコ吸うね」

「うん」


 火をつけて、煙が彼女の方に行かないよう反対側の手で持つ。当然、口から吐き出す時は顔をしっかり背けてからだ。

 この苦味にも新鮮さを感じなくなった。けれど今は、甘酸っぱく舌に残る痺れの余韻に浸る。何も注文しないのはアレだから、コーヒーを二杯頼んだ。カウンターで豆を挽く彼を横目に、もう一度煙を吐いた。


「色々気になることはあるけど」

「……うん」

「とりあえずさっきの疑問に答えるよ」


 さっきのというのは、コンビニで俺が聞き出した言葉のこと。頭に血が上っていたとはいえ、今でもさっきの場面を綺麗に思い出せる。不思議な感覚であった。


「キッチンカーの前に居た時でしょ?」


 確認のために問いかけると、彼女は小さく頷いた。ここには人も居ないんだし、マスクを取ればいいのに。なんて言おうと思ったけど、今は疑問に答えてあげるのが先か。


「あの人、同僚だよ」

「それだけ……?」

「え、う、うん。それだけ」

「……恋人とかじゃなくて?」

「あの人結婚してるし」


 彼女は決して目を合わせようとしなかった。ただカウンターの奥を虚ろな目で眺めているだけの弱々しい雰囲気。でも、確かに。少しだけ太陽のように暖かなオーラがそこに加わった気がした。

 もしかして嫉妬? そう考えたら、会議中の行動も理に叶う。ヤキモチを妬いたとするならば、今日の彼女そのものの説明がつく。

 ……い、いやいやまさか。そんなのは自惚れ中の自惚れだ。彼女は俺がずっと追いかけてきた推しである。そんな子が俺にそんな……。うん。これは胸の中に留めておこう。所詮はオタクの妄想なのだ。うん、そうだ。


「そ、そっか。そう、なんだ……」


 つくづく、マスクをしている君の顔を覗き込みたくなる。その奥ではどんな表情をしているのか。口元は緩んでいるのか。微かに見えるその頬は、俺の見間違いじゃなければ染まっている。ハート色に。


「でもお前人妻好きだろ?」

「いや、さっきからなんなんだよ!」


 今日のマスターはどこか可笑しい。いや結構面倒な絡み方をする人ではあるが、虫の居所が悪いのか。やけに今日はウザ絡みしてくるな。

 と言っても、表情は柔らかい。機嫌が悪いわけではなく、むしろ機嫌が良いからこんな絡み方をしてくるのだろうか。いずれにしてもウザいな。


 そしてそして、彼の一言一言に振り回されるのは俺だけじゃなくて。この隣に座った可憐な子もまた、俺に対してイラつきをぶつけてくる。


「人類悪」

「いや口悪いな」

「女の敵」

「違うから」

「違わないもん」


 罵詈雑言を浴びせられるが、これはこれで悪くないな。彼女から言われる分には、落ち込むよりもむしろ……。いや、いい。自分の大切な何かを捨て去ってしまう気がした。

 話に重きを置きすぎて、あまりタバコを吸えなかった。一本無駄にした気分だが、じゃあもう一本とはならない。


 マスターがコーヒーを俺たちの前に置く。タバコの匂いが残る目の前のこの空気を、徐々に浸食していく酸味と苦味。鼻を抜けて、カフェインの味が舌に広がった。まだ飲んでいないのに。


「……良い匂い」


 彼女はそう言いながらも、マスクを取ろうとしなかった。鼻までしっかり隠しているのに、匂いは不織布をくぐり抜けているらしい。そう言い切れるのは、彼女のその言葉に俺も同意したからである。


「ここは俺が持つから」

「……どうして?」

「お詫び」

「謝らないといけないのは――」

「いや、いいんだ」


 山元さんの言葉を遮ってまで、俺は自らの意思を示した。それはまるで、彼女の心が近づくのを防ぐみたいになって、少し申し訳なかった。


「俺が連れてきちゃったし」

「……」

「だからいいんだ。気にしないで」


 思えば、ここで二人。話すのにも慣れたな。周りの目を気にする必要もないから、気軽に話せるのが大きい。マスターも気心知れてるから、彼女のことを優しく見守ってくれてるし。

 ここでようやく、コーヒーに口付ける。ほんのりと冷えたおかげか、すごく飲みやすい温度になっている。口の中に広がる苦味。いや、今はひどく甘くすら感じられた。


「……これって」

「ん」


 今日はあまり視線が合わない。俯いたまま、ゆっくりと紡ごうと思考をまとめている。

 だから、この子の瞳に吸い込まれそうにならない。それが少し寂しい。だけど、これで良いと安堵する自分も居る。揺れ動く感情の中で、俺はただ彼女の言葉を待つしか出来なかった。


「デートみたい」

「……そんな大層なモノじゃないよ」


 デート、ねぇ。確かに男女が二人並んでいるとそう見えなくもない。でもそれはお互いに明確な目的があって、ようやく成り立つモノだ。

 ここで言う目的というのは、相手に対する恋心だったり、ただ性的な関係を持ちたいだけの不埒な感情だったり。一概に言い切れない。


「……してみたい」

「え……?」


 今にも消えてしまいそうな、誰にも聞かれることなくその命を捨てていく言の葉。それは確かに俺の耳に届いて、しっかりと役目を果たしたわけで。

 客観的に見ても、これ以上のパスは無いだろう。それはつまり「私をデートに誘って」と言ったも同義だから。

 冷静に考えて、あの山元美依奈がこんな俺に言い寄ってくることはまずあり得ない。あり得ないけれど、今のこの状況を考えれば否定する方が難しいのではないか。マスターを除いて二人きりという雰囲気が、その思考を助長した。


 揺らぐ。心臓の奥に眠っていた、いつかの校舎裏に捨ててきた青春の声が。

 再デビューしていないとは言え、現役アイドルと言っても過言ではない。そんな彼女とデートだなんて、それこそ週刊誌のマトになる。


 だけど。だけど――。


「デート……する?」

「へっ……」


 掠れた大人には、少しばかり甘すぎる。

 この青春の味は。本当に。


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