第49話


 すっかり太陽は沈んでいた。久しぶりの定時上がりだというのに、空は真っ暗に染まっているからそんな感じがしない。

 ただ駅に近づくにつれ、学生の姿もチラホラ見かける。普段はくたびれたサラリーマンばっかりだから、いつもとは違う平日感があって悪くない。ビールでも買って帰るか。


 なんとなく立ち寄ったコンビニ。晩飯をどうしようかと考えたまま入ったから、特段買う気にもなれない。

 一人暮らしだと、どうしても食生活が乱れる。あの喫茶店で食べることもあるとはいえ、自炊をしない人間には限界があった。


(家政婦でも雇おうか……)


 もちろん冗談だ。そんな金があるなら酒代に充てた方がいい。すごく可愛い子が来てくれるなら話は別だが。

 結局、何も買わずそのままコンビニを出ることにした。なんとなく下を向いたまま。すると今まさに店に入ろうとした人とぶつかりそうになった。


「あっすみません」

「い、いえ」


 顔を上げて謝罪する。綺麗な声をしたその人と目が合った。やがて、それが俺のよく知った人だと理解する。本当に一瞬で分かった。


「山元さん?」

「新木さん?」


 互いに疑問形になった。昼間会った彼女とは少し違った。マスクをしていて、ニット帽を被っている。割とフォーマルな格好にも似合っていて、着こなし力がすごい。

 でも、気づいた。それなのに、疑問形になったのがおかしくて思わずクスッと。でも彼女は、少しバツが悪そうに店内へ消えていこうとする。


「ちょ、ちょっと!」


 横を通り抜けていこうとしたから、声を掛けた。けれど止まろうとしない。俺としては会釈しただけで彼女と離れるのは嫌だった。


 だから、再度店内に入って咄嗟に彼女の手首を掴んでみせた。

 彼女のソレは、すごく弱々しかった。ちょっと力を入れるだけで、簡単に折れてしまうのではないかと思ってしまうぐらいに。硝子細工を包み込んでしまったような、そんな感覚。

 人違いなんかじゃない。だってこの子は、俺の名前を呼んでくれた。なのに、そうやって避けるなんてズルい。


 振り返った彼女と目が合った。マスクで顔のほとんどが隠れてしまうぐらいの小さなお顔。僅かに見えるその頬が少し赤くなっているのは、外の冷気に触れていたせいだろう。


「――あっ、ご、ごめん!」


 そこで、自分がやっている行為のに気が付いた。我に返って、パッと手首から自身の手を離す。ぷらん、と力なく揺れる彼女の手は、少し寂しそうに揺れている。


「………ばか」


 それはどういう意味で?――。そう聞くのは野暮だろう。そこまで空気が読めない人間じゃない。

 彼女からそうやって言われるのにも、少しだけ慣れてきた。罵倒ではなくて、俺のことを悪戯に揶揄おうとするそんな彼女の意地悪だって知ってたから。だから顔をしかめる気にはなれなかった。


 店内に流れるポップな音楽すら耳に入らない。俺の視界には彼女だけ。埋め尽くされて、桃色のハートがゆっくりと回り回って。

 そんな幻覚が見えるぐらいに、俺は彼女に見惚れていた。たった三秒間。


「ど、どうしてここに?」

「………ご飯食べてたから」


 狼狽えながら尋ねると、彼女は俺が思っていた以上にそっけなかった。その理由は分からないが、昼間の行為と関係があると見て間違いないだろう。

 やはり、俺が何かしたと考えるべきか。全くと言っていいほど心当たりはない。あったらこんなに悩んでいないぐらいだ。


「あぁすみません」


 そう言ったのは、ここがコンビニの出入り口だと忘れていたから。会計を終えた客が出るのを塞いでいた。咄嗟に謝って、彼女の手を引いて本コーナーの前に立った。そしてまた手を離した。


「ばか」

「……俺、なにかした?」

「………知らない」


 ダメだ。まるで会話になっていない。海外で道を尋ねている感覚だ。行ったことないけれど。

 チラリと横を見ると本が並んでいる。話題でも変えようかと思ったが、彼女と視線が合った。二度目。キリッと俺を睨んでいる。怖くはなくて、むしろ可愛い。


「あの、俺が何かしたのなら謝る」

「………」

「どうなの?」

「………」


 また視線を逸らされた。まるで言うのを我慢しているみたいだ。

 悩んだ。ここは無理に聞くべきか、それとも、何もせずスルーしてしまうべきか。

 純粋に気になる。このまま別れてしまえば、多分この気持ちの悪さをずっと抱えてしまうことになるはずだ。


「えっと――さ」


 だから聞き出そうとした。見切り発車だった。その分、出てくる言葉を探すのに思いのほか時間を要してしまって、適当に場を繋がなきゃいけないぐらいには吃った。

 ただ聞くだけ。「何か言いたいことあるの?」とスラスラと言えば解決する。この子だって本当は言ってしまいたいのだ。心の中で何か引っかかることがあるから、こうやってマスクに抑止してもらってるだけで。


「……あぁいや。なんでもない」


 あまりにも吃りすぎた。数十秒の沈黙は長すぎたから、自分の中で諦めみたいな感情が湧き出てきた。無論、聞き出せなかった気持ち悪さを残したまま。

 右手で頭を数回掻いて、この胸にいる不快感を振り払おうとする。当然効果はない。気休めにもならないレベルである。彼女だって俺が諦めたと分かったのか、視線を下げて決して綺麗とはいえない床を見つめている。


 となれば、俺たちの間にあるのは残滓ざんし。何のかというと、冬の冷気に思考を乱された大人たちの感情。


「じ、じゃあ俺そろそろ行かないと」


 彼女を泣かせないと誓ったあの日。どんなことも出来る主人公気分であったが、どうやら違うようだ。

 自分には大した能力が無い。特に彼女の心を綺麗に洗い流せるだけの言葉を掛けられないし、今して欲しいことも読めない。いつも事後。彼女が行動に移してからじゃないと動けない。

 出会ってからずっとそうだ。受け身受け身で、そうやって彼女のことを傷つけてきた。だから俺が何を言われても言い返すだけの資格なんて無い。


 コンビニを出ようとしても、彼女は何も言わない。ただそこに立ち尽くしていて。

 今の君は、何を考えているのだろう。頭の中は何色に染まっていて、どんな言葉が空を飛んでいるのだろう。

 でも一つ言えるのは――。今の彼女の小さな背中は、泣いていて。今にも震え出しそうなほど、この冬に呑み込まれようとしている。


「ひゃっ!」


 俺の背中をくすぐるような声だ。

 彼女がそんな声を出したのには、もちろん理由があった。店を出ようとしていた俺が、再び自身の手を掴んできたからである。

 やっぱり、硝子細工のように細い手首。それでも、確かに暖かくて、彼女が持っている優しさが俺の体に流れ込んでくるみたいに。


「へっ……」


 振り返った彼女の両肩。

 そこに優しく手を置くと、この子の息遣いまでも俺の心臓に伝わってきて、今にも爆発するんじゃないかってぐらいに痛む。

 恥ずかしい。そんなの分かっている。コンビニでこんなことをしている男女なんて、全国探してもそうは居ないだろう。

 けれど、周りの喧騒なんてどうでもいいぐらいに、俺の感情は山元美依奈に向けられていた。


「言いたいことあったら、言って」

「えっ、へっ、あ、あのぉ……」

「その……もう泣かせたくないから」


 後悔する。これまでとは比べ物にならないぐらいに、自分のあの行為を悔いることになる。

 よく分からないけど、そう思った。何も根拠なんてなくて、このまま気まずくなって会うことすらも無くなるんじゃないかって思うと、体が勝手に動いた。


 目の前の彼女は、先ほどとは比べ物にならないぐらいに顔を紅潮させていた。マスクをしていてもよく分かる。きっとその下は、リンゴみたいな完熟の笑顔をしていてほしい。なんて思ったり。


「どうなの」

「あ、あの……その……へっと……」


 呂律すら回っていない。こんな彼女を見たのは初めてだ。でも、そんな俺の勢いに押されてか、彼女はポツリと話し始めた。まるで雨が降る時のあの空気みたいに。


「ひ、ひ、昼間……」

「昼間?」

「一緒に……居た女の人」

「うん」

「だ……誰なのかなって……」

「………はい?」


 ん? 話が見えない。気が付いた時には、コンビニは女子高生の黄色い声に包まれていた。



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