第48話


 先ほどよりも落ち着いていた。

 この時間のオフィス街はこれから来るであろう忙しさに備えている。ランチタイムの時は混んでいたのに、今この瞬間はすごく空いていた。

 彼の会社から少し歩いたところに、昼間から開いている居酒屋があった。夏菜子さんから「入るよ」と言われた。私に有無も言わさず。拒否権がないことぐらい知ってた。


「弁明はある?」

「……………ありません」


 個室に通されて腰を落とした瞬間に、彼女が私の視線を凍らせた。普段優しい夏菜子さんだったけど、いまこの時だけはひどく呆れていた。

 それもそうだ。彼の顔を見た瞬間にとっくに理性は死んでいて、ただムカムカする気持ち悪さを発散するために彼の足を踏んづけた。

 無論、そんなことをするつもりは無かった。本当だ。けれど、昼休みの彼を見てしまったら、すごく、すごく胸が痛くなって。苦しくて。でも彼は、口元を緩めていて。


「別に責めてるわけじゃない」

「え……?」

「ただ仕事に支障が出るのはやめてね」

「それ「責めてる」ってことじゃ……」

「なんか言った?」

「いえ」


 恋人。そうだ。居たとしても不思議はない。32歳の男性。人生を謳歌する良い年齢。遊ぶにしても、真剣にしても、そういう人が居ても。

 けれど、私の行為は褒められたモノじゃない。それは自分でも分かっている。だから苦しいのだ。頭では分かっていても、そうなってしまった自分を責められないから。いや、ここは後悔していないと言うべきか。


 彼は私の行為を理解出来ていなかった。それもそうだろう。だってメッセージでは普通に接していたし、昼間私が見たことも知らない。あんなことになるなんて考える方が変な話。

 私に気を遣わず電子タバコを吸い始めた彼女。別に良いんだけど、普段しないから多分イラついているんだと思う。申し訳ないことをしてしまった。


「……すみません」

「もういいわ。私が変なこと吹っかけたからよ」

「それはそうですね」

「……ミーナちゃんって意外と図々しいのね」


 申し訳ないが、彼女の言うことも一理ある。あの一言が無ければ私だって普通に接していたかもしれないのに。私ばっかり責められるのは少し違う気がする。夏菜子さんの言う通り、私は図々しいのだ。


 店員呼び出しボタンを押すと、暇だからかソレはすぐにやって来た。


「生ビール一つ。あなたは?」

「え、お酒……?」

「なによ。今日はもう上がりなの。あなたもね」

「えぇ……」


 夕方に染まりつつあるとはいえ、少し罪悪感があった。私たちの仕事に朝も昼も夜も関係ない。とはいえ、まだ暇なことがほとんど。夜まで何が来てもいいように待機する癖がついていた。私はね。


「……ウーロン茶を一つ」

「それとおつまみ盛りを」


 完全にオフモードである。さっきお昼ご飯を食べたばかりだから、食欲はない。オフなら大人しく帰りたいまである。


「飲まないの?」

「当然ですよ」

「彼が介抱してくれるかもよ」

「…………飲みません」

「結構悩んだわね」


 ただでさえ彼にはみっともない姿を見られたのだ。これ以上の醜態を晒すわけにはいかない。全然覚えていないんだけど。

 電子タバコというのは、あまり匂いがしない。それが売りなのかもしれないけど、別にどうでもいいや。


「広告屋さんには悪いことしちゃったな」

「う……すみません」

「いいのよ。どのみち今日結果が出るとも思ってなかったし」


 夏菜子さんはそう言う。聞くと、あの二人はあくまでも仲介役だという。要はもっと上の立場の人じゃなきゃ決裁がおりない。それもそうか。

 でもあんなことをして、ネットとかに拡散されちゃったら……。そんな心配をしなきゃいけないことすらも頭から抜け落ちていた。


 顔に出ていたせいか、夏菜子さんはフォローするように口を開いた。


「一応ておいたから大丈夫だと思うけど」

「脅し?」

「……違う違う。釘を刺しておいたの聞き間違いでしょ」


 いやハッキリ聞こえたよ。言い換えるから余計に目立つ。悪目立ちだ。この人、怒声を上げることはないんだけど、優しく諭すように怒るから怖い。あの二人、というか新木さんも頭が上がらないんだろうな。

 ビールとウーロン茶で乾杯して、おつまみ盛りに手を伸ばす彼女。こんな平日の夕方から。ほんの少しだけ、この人に付いていって大丈夫なのか不安になった。ほんの少しだけね。


「――恋人が居たらどうするの?」

「へっ」


 ウーロン茶の入ったグラスを触っていたら、急にそんなことを言われた。飲んでる時じゃなくて良かった。きっと吹き出してたから。


「な、なんです急に」

「別に。気になっただけ」

「ど、どうもしないです」

「どうも出来ないじゃなくて?」

「………いじわる」


 夏菜子さんは笑った。笑い事じゃない。


 実際問題。もしそうなら私に出来ることはない。彼が大切にするべき人はその人だろうし、私がどうこう言うのは違う。

 別れさせるなんて発想に至るけど、それは彼に悲しい思いをさせると思う。それだけは嫌だった。そこまでして見てほしいとは思わない。ただ純粋に、私のことを見つめていてほしい。


 でも恋人が居ながら、ここまで私に優しくしてくれるのだろうか。彼はそんな器用なタイプに見えない。悪い意味じゃなくて、それだけ相手を大切にしているイメージ。そうであってほしいと願う私の願望でもあった。


「もしもの話よ」

「………」

「好きと言われたら、どうする?」

「そんなこと……」

「答えて。お願い」


 彼女の声のトーンを聞く限り、真面目な話だと察した。それに、いずれは聞かれるだろうと思っていた話。心のどこかでその準備が出来ていたから、思っていた以上に動揺は無かった。


「……断ると思います」

「どうして?」


 私が思う理由は、すごく単純だった。


「だってそれが、彼の望んだことだから」


 あの雪の日。しんしんと体の芯まで冷え込むあの瞬間に、彼は私を突き放した。

 でもそれは、私のことを考えてくれていたんだと思う。彼から直接聞いたわけでもない。誰かが言ってたわけでもない。ただなんとなく、彼ならそうすると冷静になった頭は判断した。

 いや、出会った時からそれは変わっていない。彼ならきっと、そうすると分かっていたのに。すごく、ひどく、胸が締め付けられて。


 それなのに、私の行為は意に反していた。

 彼へのイラつきを隠しきれなくて、私のことを見つめて欲しくて、あんなことをしてしまった。そんな自分が情けなくて、でも、後悔はしてなくて。

 恋というのは、理不尽なほどに人を困惑させる。フォーマルな場だと理解していたのに、抑えきれなくなった感情によって理性は飛び去った。本当に厄介だ。


「あなたが望むことではないでしょう?」


 あっという間にビールを飲み干した夏菜子さんは、私の心を覗き込もうとしてきた。彼女の視線が胸に刺さる。深く差し込まれないように、咄嗟に目を逸らした。


「そんなことになったら、炎上します」

「………」

「格好のマトですよ。私なんて」


 そもそも、精神的に参っていたとはいえ熱愛疑惑を演じてしまったのだ。そんな人間がまた表舞台に戻ること自体おかしくて、あまりにも都合の良い話だと思う。

 それを世間は認めてくれるとは思えない。ポスターの時はそんな声を聞かなかったけど、再デビューとなれば話は変わるはず。


 あぁダメだ。ひどいネガティブ思考に陥ってしまった。今に限った話じゃない。時々ある。夏菜子さんの事務所と契約する前も同じような感情にさいなまれたから。


「正直、悩んでるのよ」

「え……?」

「あなたと彼のこと」


 二本目の電子タバコを吸いながら、ため息混じりの言の葉が沈んでいく。

 彼女が頭を抱えるのも無理はない。申し訳ないと思いつつ、当事者でありながらどうしようもない自分にムカつく。

 多分だけど、彼から距離を置いても自分を押し殺そうと思えば出来る。だけどそれは夏菜子さんには通じない。ついこの間のだって見抜いてたし。


「切り離すと、あなたの輝きが半減するもの」

「……すみません」

「謝らないで。逆に近くに居れば、光り輝くんだから」

「でもそれだと」

「そう。だから――」


 夏菜子さんの提案は、私が思っていたより良心的でもあった。でもそれだけ、逃げ道はない。一度決断したら最後。もう後戻りは出来ない。

 それに、私はそれを否定するだけの資格はなかった。いつかぶつかる問題だと思っていたから、素直に受け入れることにした。

 CDデビューに向けて少しずつ動き出していたこのタイミングで、私はもう一つ大切なコトと向き合わなくちゃいけない。


 私のためにも、彼のためにも。


 そのためにはまず、私の想いを彼に伝える必要があった。それが出来たら苦労はしないのに、夏菜子さんは呑気に二杯目のビールを注文してる。

 正直、私の選択次第では彼女に利益をもたらすことが出来ないかもしれない。なのに、どうして。


「あなたは私の夢なの」

「夢……」

「大丈夫。少なくとも私と彼は、あなたの味方だから。ゆっくり考えなさい」


 喉が渇いた。ウーロン茶を口にすると、氷が溶けてしまっていて味が薄い。でもほんの少しだけ、気持ちが楽になった。


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