閑話(3)
体育大を卒業して入社したこの会社も、3年目。販売促進部での勤務にも慣れてきたが、異動と言われた。正直乗り気はしない。だが入社前から異動のある仕事だとは分かっていたから、素直に受け入れた。
そんな時、新木さんから声をかけられた。いつもの低い声で「藤原、午後イチ空けとけ」と。多分、あの人は俺の下の名前を知らない。
だけど、コマーシャルの営業を聞く機会なんて中々ない。来春から同じような仕事をするのだから、良い勉強になると言われた。
実際そうだった。コマーシャルの効果や費用はもちろん、出来上がっていく過程まで丁寧に説明してくれたから、その話術は素直に勉強になった。
だけど、細かい内容まではあまり耳に入ってこなかった。なぜなら――。
「…………」
俺の隣に座ってる新木さんが、ずっと顔をしかめていたからである。
来客の相手をする時、こんな顔をする人じゃなかったんだけど、今日はずっと眉間にシワを寄せて時折愛想笑いを浮かべる。話を聞いているのかと疑いたくなった。
新木吾朗。32歳。独身。正直パッとしない雰囲気と顔立ち。でも仕事はそつなくこなすイメージがある。現に俺だって頼りにしてるし、尊敬だってしてる。あ。あとは元ドルオタ。元と言うのには理由がある。それはすぐそこに。
彼の向かい側を見る。そこに座っていたのは、とんでもない美人。俺の語彙力だとこれ以上の表現が出来ない。そんな俺をよそに、広告屋の話に耳を傾けている。
あー、そういうことか。ほうほう。
そのとんでもない美人は、山元美依奈さんという。かつて桃花愛未としてアイドル活動をしていた人だ。広告屋曰く、彼女をウチのコマーシャルに起用してはどうか、という提案であった。ポスター起用で実績はある。ウチとしても無い線ではない。
そしてこの人は、新木さんの激推し。ほうほう。
(そりゃ緊張するよな)
そう思ったが、記憶を呼び起こす。ウチのポスター起用の時に二人で会話していたところを見たことがある。でも、その時はもっと気安く話してたような。
「――いかがでしょうか?」
意識を違うところにやっていた時に限って、広告屋が俺たちに聞いてきた。そう言われても、俺にそんな決定権はない。この新木さんだってそうだ。だからここは無難に「検討します」ぐらいでいい。
「……新木さんっ」
「え、あ、あぁ」
俺が言うのも変だから、先輩である新木さんにしてもらうのが無難だ。普段なら絶対そうするのに、心ここに在らずじゃないか。
そんな自分を誤魔化すように、この人は一つ咳払いをする。痰が絡まったような音。タバコの吸いすぎだ。
「も、申し訳ありません。魅力的なお話ではありますが、少し検討させていただいてもよろしいでしょうか」
本当に聞いていたのだろうか、とツッコむのはやめておこう。
「もちろんでございます。宮様と山元様も、御社の力になりたいとおっしゃっておりますので」
「そ、そうですか。あ、あはは……」
にしても歯切れ悪りぃな。もしかして腹でも痛いんじゃないのか? それぐらいいつもの新木さんとは違う。よく見たら汗かいてるし。暖房が効いてると言っても、そこまでか?
宮さん、山元さんは二人ニコニコと愛想笑いを浮かべている。個人的にソレはあまり好きじゃないけど、不思議なこの二人のは嫌悪感がない。華があるからかな。
「……ッ!?」
「うぇっ!?」
変な声が出た。理由は隣のこの男にある。
「ど、どうしました?」
「わ、悪い。む、虫にびびって……。あ、は。ははっ」
急に体をビクッとさせたから、俺だけじゃなくて宮さんや広告屋も懐疑的な視線をしている。ただ山元さんだけは、表情を変えていない。むしろにこやかですらある。
「も、もし質問などございましたら」
広告屋からそう言われて、少し考えた。けれど、先に口を開いたのは新木さんだった。
「――どうしても山元さんじゃなきゃいけないのでしょうか?」
「ちょ、ちょっと新木さん?」
思わず言葉が出た。そりゃそうだろう。だってその意味は――彼女以外なら契約すると言っているに等しい。本人の目の前で。
見ろ、広告屋も狼狽えてるじゃないか。そりゃそうだ。「ええ出来ますよ!」なんて言ったらそれこそ修羅場だ。
でも、先に口を開いたのは――。
「あはは。もう新木さんったら。どういうことでしょうか」
「ちょ、ちょっと山元さん?」
今までニコニコしていた彼女の声にドスが利く。笑ってはいるが、それが余計に怖い。今のは完全に新木さんの失言だ。早く謝らないと今後の関係に響く。
「あ、新木さん謝らないと……!」
「いいや。もう我慢ならん。打ち合わせの場で人の足を――いっ!?」
「あらあら。どうかしましたか?」
足? 足になんかあるのか?
今日は五人での打ち合わせだから、狭めの会議室。互いの足が届く距離感ではある。気になる。
だが、ここでいきなりしゃがみ込むと怪しまれる。彼女の足を覗き込むような感じになるし。だからワザとペンを落としてみた。
「あっ、失礼」
自分の足元、机の下に落としたからこれで確認できる。山元さんは新木さんにガンを飛ばしているから、俺の行動に気づいていないっぽい。チャンスだ。
かがんで、新木さんの足元を見る。目を疑った。
(ふ、踏んでる……)
茶色のローファーが黒い革靴の上に乗っている。いやそんな可愛いもんじゃない。のしかかっていると言った方がしっくりくる。
ギュウギュウ、と革が擦れる音が聞こえてくるぐらいに念入りに。深く深く地面に埋め込むような恨みを感じる。
「藤原さん、どうかなさいました?」
びくりと体が跳ねた。山元さんが俺の行動に気づいたらしい。だが、新木さんの足から離れようとしない。
「いえなんでも。ペンを落としちゃって。あはは……」
今は彼女に従っておかないと、後々とんでもないことになりそうな気がした。咄嗟に体を起こして愛想笑いを振りまく。山元さんは笑っていた。怖い。巻き込まれたくない。新木さんみたく。
にしても、どういう状況だこれ。
まずどうして、山元さんが新木さんの足を踏みつけている? 彼女がそこまでする理由があるはずだが、いかんせん材料が少なすぎる。見当もつかない。
俺が知らないところで仲を深めているのだろうか。その可能性はゼロじゃない。接する機会はいくらでもあったから、新木さんの方からナンパすることだって出来ただろう。
「と、とりあえず失言でした。ほら、新木さんも謝ってください」
「…………すみません」
少し冷静になったのか、俺の誘導に素直に従った。この謝罪は彼女はもちろん、この場に居合わせた全員への謝意だ。全く。今日に限ってはどっちが先輩なんだか。
広告屋と芸能事務所社長に笑いを振りまいて、今日の打ち合わせはお開きになった。結局、記憶に残ったのは踏みつけられた足と手元にある資料だけ。営業トークの「え」の字も理解出来なかった。
全員が席を立って、会議室を出る。暖房から解放された感覚がすごい。完全に密閉空間だったからなぁ。山元さんの恐怖が伝染したのはそのせいだ。きっとね。
「……もしかして新木さんの趣味っすか?」
「バカ。んなわけあるか」
「ですよねぇ……」
会社の出入口前。まず広告屋を見送って、続けて山元さん。そして最後に残ったのは社長の宮さんだった。
俺と新木さん。二人並んで彼女と面と向かう。出て行こうとしないから、新木さんが痺れを切らせた。
「今日はありがとうございました。どうぞ」
「帰るわよ。そう急かさないでいいじゃない」
二人も知り合いらしい。軽快な会話が俺の前で繰り広げられている。少なくとも山元さんよりは恐怖感がない。
「そうそう。藤原さん」
「はい?」
新木さんに向けられていた視線が俺にやってきた。金髪ショートカットがよく似合う人である。
視線だけにとどまらず、一歩、二歩と俺に近づいてくる。思わず身構えたが、少し遅かった。
「あの子もイメージが大切な職業なの」
「え、ええ……」
「だから――今日見たことは他言無用で」
ごくり、と固唾を飲み込んだ。
「も、もし言いふらしたら?」
「もう。言わせないでくださいよー。口にしづらいんですから」
「それじゃあ」と言って、彼女たちは嵐のように去っていった。残されたのは足を踏みつけられた男と、心を抉られた男。
哀れな空気に包まれて、やがて目を合わせる。不思議と共感できる。新木さんの感情に。
「あの人たち、反社会的勢力?」
「そうかもな」
これが誤解だと分かる日が来るといいな。多分来ないだろうな。
――とにかく分かったのは、
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