第44話
先ほどよりも、空気が冷たい。太陽は姿を見せているが、風が強くなった。きっとそのせいだ。
あの子は寒がっていないだろうか。このアウターを羽織らないと、弱った心が震えたままに冬に飲み込まれてしまわないか。
そんなことを考えながら、駅までの道を歩く。彼女との誤差は数分。そこまで遠くには行っていないだろうと思ったから、走る必要は無いと踏んだ。
宮さんの家から駅までは少し歩かないといけない。電車に乗られたら俺としても手がないが、そこに至る前ならいくらでもなんとかなる。
実際、その通りだった。住宅街。歩いている人が多いわけでもない。だから人を見つければ、すぐに視線がそこへ行く。
最後に会った時より、すごくシンプルな格好をしていた。ジーンズと茶色のロングコート。それに、桃色のスニーカーには見覚えがある。長く伸びた黒髪は束ねられていて、後ろ姿だけ見れば別人だと勘違いする。
でもあれは、山元美依奈だ。分かる。俺の直感がそう言っている。宮さんの家を出てからすぐ見つかったから、相当ゆっくり歩いていたんだと思う。
本当は、一人で歩くのすら嫌だったのかな。
「忘れ物だよ」
小走りで駆け寄って、少し距離を置いて声を掛けた。間違いだったら誤魔化せるような距離感を保ったまま。ここで呼び止められないのが、俺自身の弱さなのかもしれない。
声が空気を切り裂いて、彼女に届いた。
カラリと乾き切ったこの世界に、彩りが滲む。あの頃と変わっていない桃色が。山元美依奈を包み込む空気に染み渡っていく。
「――意気地なし」
二度目。いや、本当はもっと言われてる気がした。さっきよりも心は痛まない。それどころか、ほんの少し暖かみすら感じる。
「ばか」
「うん」
「ばかっ」
「うん」
「………大ばかっ」
いま君が抱いている感情を、受け入れるのが俺の役目なんだと思う。否定もしない。肯定もしない。ただ思うがままに紡がれる思いを受け止めるだけの存在。それで君が許してくれるなら、俺はいくらでもここに居る。
その震える小さな肩を抱き締められないのが、こんなにも苦しいなんて。つい君の後ろ姿から視線を逸らしたくなる。
でもそれをしたら、何も変わらない。あんな思いをするのは、さっきだけで十分だ。
雲が太陽を隠す。暗くなった空間。まるで君の心を映し出したような雰囲気すらある。
前にもこんなことがあったっけ。
あぁ、そうだ。あの雨の日。俺と彼女が、友達になったあの夜。君の心はこんなにも分かりやすく天気に現れるのかと笑った記憶すらある。
「山元さん」
「……」
「こっちを向いてよ」
君と向き合いたかった。
見た目じゃない。この言葉は、ただ、君の心を真正面から見たかった俺のわがままでしかない。
そうしないと、互いの言葉は胸に届かない気がしたから。だから、こっちを向いて。
「………嫌」
そこまで、怒っているのかな。そうだとしたらもっと謝らないといけない。だけどそれは、向かい合って初めて告げられること。それを分かってほしいけど、難しいかな。
「どうして?」
問いかけると少しの
「……すっぴん」
そしてまた、少しの
「ははっ」
彼女からしたら、それは死活問題なのかもしれない。でも俺からしたら、そんなの大した話じゃない。怒っているとかそういうわけじゃないなら。だって――。
「わ、笑うなっ!」
反射的に振り返った君と、ようやく目が合った。化粧をしていなくたって、包み込む空気感は何も変わらない。むしろ俺は――今の君が一番。
それに気付いた彼女は、咄嗟にまた背を向ける。車も通らない、人も居ない。そんな静かな空間に桃色の花が咲いている。
「――綺麗じゃないか」
だって、君は美しい。すっぴんだろうが、何だろうが。取り繕わなくたって、綺麗なのは昔から見てる俺はよく知っている。
耳まで赤くなって。それは俺の言葉に対する返答だろうか。だとしたら、こんなにも美しいモノは無い。
曇り空。雫が今にも落ちてきそうな灰色だったけれど、持ちこたえている印象を受ける。
それは君の心もそうなのだろうか。このまままた涙しても、一人じゃない。どんな感情も受け止める人間がここに居る。
そんなこと、恥ずかしくて言えないや。
「…………ねぇ」
横顔。綺麗な形をしている。少しずつ俺の方に意識を向けてくれているみたい。
彼女に気を遣って、なるべく顔を見ないようにするつもりだった。でも出来なかった。君から視線を逸らすことが。
「ずっと……居たの?」
「うん」
「聞いてたの?」
「うん」
「……意地悪」
全くだ。自分でもそう思う。あそこで面と向かって会う覚悟が無かった男が何を言っても、彼女の心には届かないのだろう。
分かってる。俺だってそうしたかった。だけどこれは君のことを想って――。
いや、ならどうして彼女は泣いているのだろう。どうしてそんな悲しい顔をするのだろう。
芸能界に戻る彼女にとって、俺は弊害でしかないと思っていた。でも、それが違うとしたら。俺はまだまだ、この子の近くに居てもいいのだろうか。
「………ごめん」
「え……?」
「あんなこと言って。本当、ごめん」
ちゃんと向き合ってはくれなかったけれど、俺の口から無意識に漏れた言葉。視線を落として、感情が地面に向かっていく。でもそれじゃ意味がないと思ったから、視線を上げて君の顔を見ようとした。
「――ばか」
そうしたら、君が見ていた。俺のことを。顔を。心を。こんなにも美しい顔をしているのに、顔を背けていた意味が分からないぐらいに、綺麗で。
君に見惚れていたせいで、ひどく間抜けな顔になっていた。でもその言い訳をする気にはなれなかった。
「新木さんって、いっつもそう」
「え……」
「いっつも、最初に言って欲しいことを後回しにする」
雨の夜。思い返す。あの日も変な言い訳をして、謝罪の言葉を後回しにした。そのことを根に持っているのかは知らない。だけど、これは俺の癖だと思うと、ひどく申し訳ない。
「でも――」
もう一度謝ろうとしていた時に、彼女の口から出てきた逆説。だから、咄嗟に飲み込んだ。
「なんだかんだで、来てくれる」
「……それは」
「ううん。いいの」
否定を打ち消すように、彼女は言葉を被せてきた。俺には俺の悩みがあると察してくれたのだろうか。それに、この行為そのものは俺が自発的にやったことではない。
全て宮夏菜子に焚き付けられたこと。自分の意思でやって来たわけではないのだ。本心ではそうしたいと思っていても、どうしても社会的体裁を考えてしまう。そんな男なんだ。
それなのに、君は――。
「それでも、すっごく、嬉しい」
あぁ、この高鳴る心臓を抑えるにはどうしたら。痛くて苦しくて、呼吸すら難しいこの感情を吐き出してしまえば、どれだけ楽になるだろうか。
彼女は笑った。満面の笑みを見せてくれた。顔を紅潮させて、その白い歯を俺に見せてくれた。
分かる。自分の顔が赤く染まっていくのが。全身を巡る血液が沸騰するみたいに、体温が上がっていくのが。痛いぐらいによく分かる。
「……ねぇ新木さん」
「な、なに?」
「そのアウター、着たい」
「お、おう」
唐突にそんなことを言ってくるから、持っていた紙袋を彼女に差し出す。山元さんは着ていた茶色のロングコートを脱いで、紙袋からアウターを取り出した。
「少し持っててくれる?」
「わ、わかった」
今の今まで彼女が来ていたコート。受け取ると、そのぬくみを感じる。それだけでも思考を乱すには十分で。無論、変なことを考えていたわけではない。鼻の下が伸びないように意識して、彼女が羽織り終わるのを待った。
アウターを着た彼女を見ると、あの日のことを思い出す。飛び出した君のことを。でも今は、その時みたいに悲しい顔をしなかった。
「あなたの匂いがする」
そんな言葉を、どうして容易く言ってみせるのだ。紅潮した顔を隠すように、アウターに顔を埋めようとする君。そこまで近づかれることは想定していなかったから、匂いがするのは当然だ。
「く、臭かったらごめん」
「ふふっ。そんなことない」
心の距離というのは、思いの外わからない。心を抱きしめることがこんなにも難しいとは思わなかった。けれど、今この瞬間だけは――山元美依奈しか視界に入らない。
まるで、君の心の中に入り込んだように。
「すっごく、暖かいや」
うっすら涙を流しながら笑ってみせる君は、世界中の誰よりも美しくて、弱くて、大切で。雲の切れ間から差し込む日差しに照らされた。
晴れた。青空。戻ってきた。君の心。
俺はもう、君を泣かせない。
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